第5話 彼女の笑顔

 その夜、自室で勉強できずにぼんやりしていると、家のチャイムが鳴った。母が玄関に出る声がする。しばらくすると、こんこんと僕の部屋の扉がノックされた。


「何?」


「あの、貴方と話をしたいって。その警察の人。」


 今更か、という思いと、父がまだいないことに少し安堵している自分がいた。階段を一段ずつ降りると制服を着てやたら背筋の張った男が二人、うちのテーブルに座っていた。目がきつい男だなと思った。一人からは煙草の匂いがした。何が始まるのだろう。黒い渦が体の中をめぐって、警察の対面の席に恐る恐る座る。


「原田博人さんだね。」


「はい。」


「君は、真田優子さんを知っているね。」


「…はい。」


 そういうと一人の警官が、胸ポケットから透明な袋に入った封筒を出してきた。


「優子さんの遺書だよ。君宛の。悪いが確認の為にこちらで一度開けている。」


「そう、ですか。」


 白い封筒は少しよれていて、表の右下に小さく、ひろ君へ、と横書きで書いてあった。


「彼女の遺書は本物で、服毒自殺したことも間違いないと断定された。だけど警察は君が彼女に何をしたか、わかっているよ。」


 何を、だろうか、どれを、だろうか。


「それでもそのすべては関係ないと彼女自身が遺書に残しているため今回は不問となったが、君は、真田優子さんが父親の暴力が原因で施設に入ったことを知っているか?」


「…知らなかったです。」


「そうか。彼女はショックだったと思うよ。君に同じことをされて。自殺の要因は俺は君のせいだと思う。」


 母がお茶を用意しようとして、グラスを落としていた。キャッと小さい声がした。


「暴力は犯罪だ。よく覚えておいて。」


 そういうと二人の警官は席をたった。


「あ、お茶を」


「結構です。」


「あの」


 僕は声をあげた。


「母を見て、なんとも思わないですか?」


「どういうことだい?」


「いえ、何もありません。」


 警官は怪訝そうな顔をしたが、そのまま部屋を出て行ってしまった。


「あ、あの、博人。」


 おびえたように僕に声をかける母はやはり黒いカーディガンを着ていて。僕は何も言わず、自室へ入った。


 机に優子が残したという封筒を置いて、僕はしばらくそれを見つめていた。なんの、感情も見当たらなかった。やがて、自然と僕の手はその封筒を開き始めた。その中には彼女の小さいけれど読みやすい字でこう書いてあった。


"私たち、同じ空っぽ同士だったね。だけど、もし私の中に少しでも何かあったのなら、ひろ君に全部あげるよ。あとはよろしくね”


 最初は優しくしてあげたくて近づいた。だけど彼女には優しくしてほしいところが見当たらなかった。やがて彼女を殴るようになった。怒ってほしかった。怯えて欲しかった。そしたら、慰めてあげられる。ところが彼女は殴った僕の手を心配して、包帯を巻くような子だった。散々殴った後、外出すると言っても彼女は黙ってついてきた。あざを白いカーディガンで隠した。白い方が人の目に心地いいと。真田優子を僕の中でどうしていいかわからなかった。何をしても笑顔の彼女をどうしていいかわからなかった。そして死んでいった。それでも僕は彼女をどうしていいかわからない。


 父が帰ってきた。今日はヘッドフォンを付けなかったから、しばらくして、母の悲鳴が聞こえてきた。暴力は犯罪だ。そういった、警官の声が蘇って来て、僕は理性を失った。


「うあああああああ!」


 絶叫して、リビングに行くと母の首根っこを掴んでいる太った男がいた。僕はその顔面に思い切り右の拳を打ち付けた。父の手が母を離し後ろへのけぞった。


「貴様!」


 倒れそうになった父の手が僕の髪を掴んだけれど、そのまま僕は左膝でもう一度父の顔面へ強打した。ぐにゅりと膝の中で何かが小さく崩れる音を感じた。そのまま倒れた父の上にまたがり、腹や顔を容赦なく打ち付けた。父は弱かった。全然、弱かった。


「やめて。お願いやめて」


 母の声は小さく、遠く聞こえたが、俺の手は止まらなかった。


「お願い!やめて!」


 母が僕に覆いかぶさるように抱きしめてきた。背中で感じる体温で僕はようやく正気を取り戻した。僕の下には血まみれの父がいた。気持ち悪くて、そこからのけぞった。息が上がっていた。母はそのまま泣き崩れた。


 ああ、もうどうでもいい。なんでもいい。うちの天井はやけに高いな、そんな風に思うだけだ。


「博人。」


 母の声がした。


「博人。うさぎを殺したのは貴方よね。」


 今更か、と思った。そう、幼稚園の時に、うちにうさぎが来たのだ。母は大層かわいがっており、父も珍しく何も言わなかった。父にも、母にも何も言われずただなでられたあの白い塊。やわらかくて人懐っこかったあのうさぎ。僕が包丁を振り下ろすまで、何も反抗しなかったあの、うさぎ。


 母が血まみれの僕の手を両手で握って言った。手が震えていた。


「博人、博人、貴方はどうしたい?」


 今更かよ。夜になると父が母を殴る家だった。母は何も言わず、ただ僕に父の言う通りにしなさいとだけ言った。小さい頃は僕も殴られていたように思う。今更かよ。本当に今更かよ。


"私たち空っぽ同士だったね”


 彼女の文字が声になってふりかかる。空っぽのはずの中の僕の中に、優子の笑顔だけが残っている。

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優しさの果て K.night @hayashi-satoru

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