悪魔の子

じゅそ@島流しの民

第1話 悪魔の子

 


 小さな居酒屋は男たちの汗と湯気による熱気で満ち充ちていた。

 アボースは地下へと続く居酒屋の階段を下りながら、ため息を吐いた。顔にまとわりつく熱気が鬱陶しかった。

 暖簾をくぐると、汗の匂いに混じって微かなアルコールの匂いがする。

 埃とゴミが散乱している床を歩き、小さな椅子に座る。店員がアボースの顔をちらりと見て顔を顰めた。

 それもそのはず、今は平日の真昼間である。こんな時間に居酒屋に来るものなど、職のない馬鹿者か不良くらいであろう。

 しかしアボースの見た目は、服こそ少し汚れているものの年齢はまだ若く、その肌は赤くつやつやとしている。昼間から居酒屋で酒を飲むような人間には見えなかったのだ。


「ビールを」


 椅子に座ったアボースは、小さな声でぼそぼそと注文をした。それっきり、てきぱきと働く店員の背中をぼんやりと眺めていたアボースだったが、不意に誰かのすすり泣く声が聞こえたので店内をぐるりと見渡した。

 見ると、店の端っこに一人の男が座って泣いている。

 よれよれになったシャツを着て、泥だらけのズボンを履いた、清潔感に欠ける中年の男だった。


 男はカウンターに額を擦りつけながら泣いている。一体何があったのだろうと思ったアボースは、店員に問いかけた。


「おい、あんた。あれは何なんだ?」

「ああ、あれですかい。あんまり関わらない方がいいですぜ」


 尋ねられた店員は働く手を少し止めて、笑った。

 その言葉の意味が分からずに、アボースは少し首を傾げる。


「どういう意味だ」

「兄さんは、どんな仕事をしているんだ?」

「農夫だが」

「なら、余計にかかわらない方がいい。あいつは元農夫の馬鹿だから」

「やい、聞こえているぞ!」


 突如、怒声がアボース達へと投げかけられた。視線をやると、先ほどまでカウンターで泣いていた男が、真っ赤に泣き腫らした目でこちらを睨みつけていた。

 店員は怒声にひるむことなく、大声で言い返す。


「聞こえているなら、さっさと働きな! ここで泣いてたって何にもなりやしない!」

「わかっているさ! わかっているからここにいるんだろう! 俺はもう何もせんぞ!」

「呆れた! ならせめて注文してくれよ!」

「俺の勝手だろう! 俺の勝手だろう!」


 男はカウンターを拳で叩きながら叫んだ。

 アボースは顔を顰めながら、立ち上がって男に問いかける。



「あんた、一体何故そんなところで泣いていたんだ」


 アボースの声を聞いて、男が顔を上げた。脂汗と涙と洟に塗れた顔は、とても見ていられるものではなかった。

 男はしばらくの間アボースを見つめていたが、不意に再び顔を歪め泣き始めてしまった。


「ああ、何故泣いているか、だって!? そんなの、理由は一つしかないさ! たった一つの問題のために、私は真昼間から酒を飲んで泣いているんだ!」

「あんた、今日は酒を飲んでいないだろう! 泣くんだったら飲んでからにしな!」

「うるさい! お前に何がわかる! 私の気持ちの何がわかるというんだ!」

「だから、その問題は何なんだ。一体何があんたをそこまで悲しませているんだ」


 進まない会話に苛々しながら、アボースは厳しい口調で問いただす。すると男は、鬼気迫る表情でアボースの肩を掴み、叫んだ。


「現れたんだよ……私の畑に、悪魔の子が!」


 一瞬、居酒屋が静まり返った。

 男は悲痛にまみれた表情で俯いた。

 すると、不意にくすくすと笑い声が聞こえて来た。見ると、厨房にいた店員がこちらを見ながら笑っていた。


「ほら、言っただろう。関わらない方がいいって。こいつは自分のせいで悩んで、こんな時間から哀しみに明け暮れているのさ!」

「やい、聞こえているぞ貴様ら!」

「聞こえるように言ったのさ、間抜け。確認をせずに勝手に種を蒔いたのが問題なんだろう。つまりは、あんた自身のせいさ」

「あれは俺のせいじゃない! 俺に土地を貸した地主が俺を騙しやがったんだ!」


 両手を振り回しながら喚き散らす男を避けるため、アボースは少しだけ移動した。

 男は一通り叫んだあと、再び力なく座り込んだ。


「あの地主め、俺に土地を紹介するとき、この土地は悪魔の子が生まれない土地だと説明したんだ! だから俺は安心して種を蒔いた! それなのに、知らない間に悪魔の子が生まれてきちまったんだよ!」

「悪魔の子が生まれてこない土地なんてあるわけないだろう、間抜けめ。お前がきちんと日付を確認しなかったのが悪いんだよ」


 嘲る店員の言葉に、男はしくしくと泣き始めた。


「おしまいだ、私はおしまいなんだ……」

「悪魔の子か。俺も畑で仕事をしているが、それはそんなに恐ろしいものなのか?」

「恐ろしいものなのか、だって!?」


 アボースの質問がおかしかったのか、先ほどまで泣いていた男は目を見開いてアボースを見て、笑い始めた。


「どうやったらあれを恐れられずに生きていけるのか! 君、もしかして悪魔の子について知らないのか?」

「ああ、名前を聞いたことがあるくらいだ」

「なら納得だ。君はまだ幸運といえる。あんな恐ろしいものに出会っていないだけな」


 ごとりと、アボースの前にジョッキが置かれた。手を伸ばしジョッキを持ち上げようとしたアボースだったが、いつの間にか彼の横に座っていた男がジョッキをかっさらい、勢いよく飲み始めた。

 あまりの手際の良さに、アボースは何も言えずに彼の飲みっぷりを見ていた。


「いいか、悪魔の子が最も恐れられている理由の一つは、そいつが急に現れるからなんだ」


 ジョッキになみなみと注がれていたビールを飲みほした男は、口の周りに白い泡を付けながらそう言った。


「ある日、急に畑の土の中に現れるんだ。前日には何も起きていないし、何の変化もなかったのに、だ」

「それはまた不気味な存在だな。急に畑の土の中に現れるのか」

「ああ、恐ろしい! どうして土の中なんかに生物の種が芽生えるのだろうか! どうやって土の中で生きていけるのかしら?」


 男は大きなげっぷをした。顔が更に赤くなっている。どうやら酔いが回ってきたらしい。

 再びジョッキを持ち上げ、ビールを飲もうとした男だったが、中身がない。

 男は怒ったようにジョッキをカウンターに強く置く。その音に怯えた鼠が床の上を忙しなく走っていた。

 走り行く鼠たちが壁の隙間に入っていったのを横目で見ながら、アボースは気になっていたことを口にした。


「なら、悪魔の子はどうやって生まれてくるのだろうか」

「作物の種さ」

「作物の種が、いきなり悪魔の子になるのか?」

「いいや、作物の種はただの作物の種さ。なんの変哲もない、ただの種だ。だが、土地に問題がある」

「土地に問題が?」


 再び目の前にジョッキが置かれる。どうやら店員が、先ほど男がアボースのビールを飲んでいたのを見ていたらしい。

 今度は奪われないように気を付けながらジョッキに口を付ける。冷たいビールが口内を冷やし、熱さを伴いながら喉を滑り落ちていく。


「土地の問題さ。数か月に一回──いつかはわからないが──土地が種を何か別のものに変える日があるんだ。これは周期が決まっていて、その日に種を蒔けば、もうおしまいさ。気づけば悪魔の子が生まれてる」

「種を蒔くときに、きちんと土地の状況を確認しておけばいいだけの話じゃないか」


 アボースがそう零すと、男は大きく頷いた。


「そう、その通りなのさ。きちんと確認をしておけば、悪魔の子が生まれる可能性はとても低い。いや、ゼロに近いだろうな」

「じゃあ何故あんたはその確認を怠ったんだ」

「先ほど言っただろう! 地主が、この土地は悪魔の子を作らないと俺を騙したんだ!」

「じゃあ地主を訴えればいいだろう」

「そうだ、その通りだ! だが地主は知らぬ存ぜぬを突き通すばかり! ああ、私はおしまいなんだ!」


 男は再び泣き始めた。店内の温度が上がったような気がして、アボースは熱い息を吐いた。

 アボースはだんだんと、悪魔の子について興味がわいてきて、じっと男を見つめながら口を開いた。


「それで悪魔の子が生まれたら、どうなるんだ?」

「どうもならないさ」

「どうもならない?」

「ああ、どうもならない。ただ土の中で成長して、ある程度大きくなったら土から出てくるだけだ」

「なら、何故あんたはそんなに悲しんでいるんだ」

「土から出て来たからさ!」

「……あんたは何を言ってるんだ?」


 男の言葉の意味がわからず、アボースは苛立たし気に机を人差し指でとんとんと叩いた。先ほどから男の言葉が頓珍漢に聞こえたのだ。


「土から出てきたら、何が問題なんだ。何故土から出て来ただけであんたはそんなに嘆いている」

「関係ないわけあるか! 土から出て来た瞬間、悪魔の子は私の物になるんだ! 私に全ての責任が押し付けられるんだ! だから、私にはそいつを養う義務とやらが生じてしまう!」

「義務だと?」

「ああ、義務さ! 誰が決めたのかわからん、しょうもない義務さ! そいつのせいで、私は悪魔の子を育てなければならん!」


 椅子の背もたれに深く凭れかかりながら、アボースは天井を見つめた。湯気と雨漏りの染みが不気味だった。


「わからないな、悪魔の子なら、殺せばいいだろう。害獣を殺すのと何が違う。やつらは悪魔なのだろう」


 その言葉に、傍耳を立てていた店員が口を挟んだ。


「何か勘違いしてるね、兄ちゃん。悪魔の子は悪魔じゃないさ。ただ農夫らがそう呼んでるだけさ。見た目は俺らとさして変わらん」

「そうなのか?」

「そうさ、だが奴らは悪魔だ! 殺すべきなのだ! しかし殺せん! ルールのせいでな」


 アボースには、男の言っていることが何一つわからなかった。

 悪魔の子と、初めてその名を聞いた時、アボースはとても恐ろしい化け物を想像した。

 身体は真っ赤で、白目までも黒い、角の生えた悪魔を想像していたのだ。しかし話を聞く限り、その悪魔の子とやらは自分たちと何ら変わりない生物なのではないかという考えが浮かび上がってきた。


「なら、育てるしかないじゃないか」

「育てるだって!? 君、よくそんなことが言えるな! 大して裕福でもない農夫の私に、化け物を養えるだけの金と貯えがあると思っているのか!?」

「しかし、あんたが借りている土地で生まれたんだ。仕方がないだろう。それはあんたの物だ」

「だからといって、私が育てなければいけないという義務もないだろう!」


 男はとうとう声をあげながら泣き始めた。自分より年上が世間体も気にせず大声で泣いている光景は、アボースにとって新鮮なものだった。

 そんな男を見て、厨房の奥にいた店員が半笑いのまま叫んだ。


「そんなに育てるのが嫌なら、始末すればいいだろう! あんたのものなんだ、あんたが好きにすればいいじゃないか」


 店員のその言葉に、男は勢いよく顔を上げた。


「私だってそうしたいよ! 斧を振りかぶって、無邪気に笑うやつの頭を粉々にしたいさ! だが、他人がそれを許さないんだ!」

「何故他人があれこれ言う。あんたの物なのに」

「まったくその通りだ! 私の物だというのなら、私の好きにさせてくれればいい! それなのに、こいつも命を持っているのだ、殺すなんてトンデモナイなんて綺麗ごとを抜かす輩がたくさんいるのだ!」

「…………」


 アボースは俯いて、考え込んでいた。

 そんな彼の肩を掴み、男は顔を覗かせる。


「なあ君、私はどうすればいいと思う?」

「そんなの、選択肢は他にないだろう。養うべきだ」

「しかし始末するという選択肢もある。もちろん、誰にもバレないように、だ」

「始末なんてとんでもない!」


 その言葉に、アボースは憤慨した。

 立ち上がり、男を睨みつける。立ち上がった際に、椅子が倒れた。その音に驚いたのか、再び鼠が駆けまわっていた。


「悪魔の子だって、生まれたくて生まれたわけじゃないだろう! 始末なんてかわいそうじゃないか」

「私だって生みたくて生んだわけじゃないさ! 勝手に生まれてきて、私の食い扶持を潰しているんだ! なら殺すしかないだろう!」


 男はついに、殺すという言葉を使った。その言葉を使った瞬間、店内の空気が少し張り詰めた。

 アボースは男の言い分を聞いて、義憤に燃えていた。


(この男は、自分のことしか考えていないではないか。悪魔の子が生まれたのだって、自分の注意不足のせいだ。なのにその責任をすべて悪魔の子に負わせようとしているのか。なんて理不尽な奴だ)


 じっと男を見つめると、男もアボースのことを睨んできた。


「君はまだ見たことがないからわからないのさ、悪魔の子の恐ろしさがな……」

「そうかい。俺にはよくわからんな」


 がたりと、わざと大きな音をたてながらアボースは立ち上がった。

 そのまま会計を支払い、階段を上って地上に出る。店内の熱気で熱くなった肌を、風が優しく撫でた。



「悪魔の子……か……」


 ぐっと伸びをして空を見上げながら呟いたその言葉は、やけに大きく響いたような気がした。


『本当に、人間ってのは恐ろしい生き物だとは思わないかい? 兄さん』


 不意に、アボースの耳に甲高い声が飛び込んできた。黒板を思い切りひっかいた時のような、不快な音だった。

 驚いて振り向くと、居酒屋に続く階段のすぐそばに置かれてある大きな樽の上に、小さな生き物が座っていた。

 浅黒い肌にぎょろりとした瞳。その瞳は死人のように色がなく、口にはにやにやと不快感を煽る笑みが張り付けられている。

 手には禍々しい槍を持っており、その矛先はぴたりとアボースに向けられていた。

 尻尾が樽の上でのたうち回っている。まるで、死にかけの百足のようだった。


「誰だお前は」

『オイラは悪魔さ。イチイって名前の悪魔さ』


 悪魔イチイは、下卑た笑い声を上げながら名乗った。

 その耳障りな声に、アボースは顔を背けた。聞いているだけで気が狂いそうな声だったからだ。


『なあ兄さん、思わないかい? 人間ってのは恐ろしい生き物だね』

「いきなり何の話をしている」

『人間の話さ。あんたら、人間の』

「……」

『おいらは時々、どっちが悪魔かわかんなくなるね』


 そう言いながら、悪魔イチイはすっくと立ちあがった。アボースの膝ほどまでの身長しかないイチイだったが、それでも恐ろしく見える。

 イチイは瞳孔の開いた瞳でアボースを見つめる。その生気のない瞳を向けられると、まるで自分の心の中までも見通されているような気がして、アボースは恐怖を感じた。


『おいらは人間を誘惑して、悪の道に走らせるために日々齷齪働いているんだ。しかし、おいらが何もしなくたって、人間は勝手に自分から堕落していく。一人でに堕ちていくんだ』

「……確かに、その通りかもしれない」


 アボースは静かに頷いた。今目の前にいる悪魔の言葉が、何故か正しいと思えた。

 先ほどまで話していた男とイチイは、アボースの目からすると何も変わらないように見えたのだ。

 アボースの言葉に、小さな悪魔は嬉しそうに笑った。

 ふと、アボースは気になっていた質問をイチイに投げかける。


「そういえば、悪魔の子はお前ら悪魔の仕業なのか?」


 その言葉を聞いて、イチイはとても嫌そうに顔を顰めた。


『あんなの悪魔じゃねえよ。なんの害も与えない生物を、人間が自分たちの益にならないから悪魔と言っているだけにすぎないのさ。文字通り、奴らの「悪」に「魔」が差した結果なのさ』

「……本当に、その通りだな」

『お、なんだい兄ちゃん。あんたもそう思うのかい。本当に人間って馬鹿ばかりだよなぁ。殺すくらいなら、産まなきゃいいのにな』

「ああ、そう思うよ。自分のミスで蒔いた種を、全て悪魔の子のせいにするなんて間違っているはずだ。悪魔の子にだって、生きる権利はあるのだ」


 興味津々といった表情でアボースを見ていたイチイだったが、アボースの言葉を聞いた途端、げらげらと腹を抱えながら笑い始めた。なんとも不快な笑い声だった。


「何がおかしい」

『いやいや、全くその通りで笑ってしまったのさ。なあ、人間ってのは悪魔みてえなもんだよな。時々、おいらはどちらが悪魔なのかわからなくなっちまうのさ』

「ふん、見た目だけで言うのなら当然お前たちが悪魔だろう」

『ひひ、人間はすぐに見た目で判断しようとするねぇ。だがよく聞け小僧、一番大切なのは中身さ。見た目なんてどうとでもなる。おいらだって変身しようと思えば人間の姿になれるさ。けどしない。する必要がないからな』

「する必要がないだと?」

『ああ、その通りさ。だっておいらたち悪魔は他人の目なんて気にしないんだからな。十人十色万歳で生きているのさ。皆と同じになろうと頑張っている人間とは真逆にな』


 樽の上で一回転をして、イチイは面白そうに言った。すると、彼の右手にあった大きな槍がジョッキに変化した。その中にはビールがなみなみと注がれている。


『本当に、最近はおいらたちもすることがなくて、困っちゃってるんだ』

「悪魔が何もしないということは、いいことだろう」

『おいらたちが何もしていないんじゃなくて、人間たちが勝手に何かをしているだけさ。自滅をするから、やることがなくって最近じゃ毎日酒に溺れる毎日さ』

「なんだ、悪魔も酒を飲むのか」

『ああ飲むさ。飲んじゃいけねえのかい? 悪魔だって酔っ払いてえさ、こんな腐った世の中にいたらな』


 そう言って、イチイはぐいとジョッキを傾けた。その赤黒い喉がビールの波に合わせて動くのを、アボースはじっと見ていた。

 ビールを一息に飲み干したイチイは、美味そうにため息をついた後、アボースを見た。その瞳には、明確に揶揄の色が混じっていた。


『なあ兄さん、さっき悪魔の子には生きる権利があるって言ってたよな? それは本当に心の底から思っていることか?』

「当たり前だ。悪魔の子だろうが何だろうが、関係ないさ。生きる権利は生物である以上誰だって持っているはずだ」


 その答えを聞いて、イチイはくすくすと両手で口を塞ぎながら笑い始めた。その際に右手で持っていたジョッキが地面に落ち、大きな音をたてながら割れた。


『そうかい、そうかい。そりゃなんとも素晴らしいことだ。生物である以上……ね。じゃあ最後に一つ聞きたいんだが、いいかい?』

「ああ、別に構わない。どうせこの後は畑に行って少しだけ働くだけなんだからな」

『ああ、それはありがたいな。それじゃあ遠慮なく質問させてもらおう』


 ふう、と笑い声をぴたりと止めたイチイは、次の瞬間その不気味な作り笑いを消し、無表情のままアボースに問いかけた。


『じゃあもしまだ生物とはいえない、物体だとしたら、あんたは殺せるのか?』


 しんと、周囲の音が一瞬止んだ。

 まるで耳に覆いを付けられたかのように、音が音として機能していなかった。

 しかしそれも一瞬。少しすると、栓を抜いた風呂の水のように、ゆっくりと音が鼓膜を震わし、本来そうであるように音を取り戻していった。

 その騒々しさに、アボースは目を瞑った。

 耳が音に慣れるまでぎゅっと目を瞑っていたアボースは、目を開いた時、樽の上に誰もいないのを見て少なからず驚いた。

 イチイはいつの間にか消えていた。


「どういうことだ……」


 ぽつりと呟くが、返事はない。彷徨わせた視線は虚しくも宙へ溶けていった。



 ▼


 自らが耕している畑へと続く道まで歩いている最中も、アボースは悪魔の子について考えを巡らせていた。

 悪魔の子とは一体何者なのだろう。何故現れるのだろう。何故人々はそれを嫌っているのだろう。

 しかし考えを巡らせても返ってくる答えはない。堂々巡りの思考だけが彼の頭の中でとぐろを巻いていた。

 ふと横を見ると、畦道に一人の農夫が座り込んでいるのが見えた。

 背をアボースに向けているので、何をやっているのかまでは見えなかったが、相当集中しているということはその背中を見るだけでも理解できた。


 少し興味がわいたアボースは、農夫に近づいていく。足音に気がついた農夫は、ゆっくりとアボースを見た。


「おや、道にでも迷ったのかい?」

「いや、違う。今ちょうどここを通りかかったんだが、あんたが何をしているのか少し気になったもんで、少し近寄っただけさ」


 そう言いながら、農夫の手元を見るアボース。農夫は、何やら薬のようなものを持っていた。

 農夫はアボースの言葉に肩を竦める。


「まあ、見てて面白いもんじゃないさ。ただ、今から畑に薬を撒くのさ」

「なんの薬だ」

「悪魔の子さ」


 聞きなれた言葉に、アボースは興味を惹かれる。


「悪魔の子か。居酒屋でもその話を一人の農夫から聞いたぞ」

「ああ、地下にある居酒屋だろう。あいつは悪魔の子を生んでからずっとあそこに通いっぱなしだよ」


 どうやらあの男は地元ではかなり知られているらしく、農夫はおかしそうに肩を揺らしながらそう言った。

 アボースは農夫の話よりも、彼の手元にある薬が気になっていた。


「その薬は、一体何のためにあるんだ? 悪魔の子を生まれないように土を変えるのか?」

「そんなことはできないさ。ただ、土地を騙すのさ。今日が周期の日だが、それを誤魔化してしまう。すると、悪魔の子は生まれないってわけだ」

「というと、今日はその周期の日なのか?」

「ああそうだ。だが間違えて種を蒔いてしまってな。このままじゃ悪魔の子が生まれてしまう。さっさと薬を撒かねばならん」


 そう言って、農夫は畑の土に薬を撒いた。

 それをじっと見ていたアボースは、畦道に座り込んで尋ねた。


「もし悪魔の子があんたの土地から生まれてきたら、あんたはどうする?」

「俺の土地で? それはまた答えたくない質問だな……。まあ多分、俺だったら棄てるだろうね」

「棄てる? 悪魔の子をか?」

「それ以外に何がある。とっておいたって役に立つもんでもないだろう」


 薬を撒いていた農夫は、アボースを見てそう言った。その言葉には、言葉にしなくてもわかりきっているだろうという感情が見え透いていた。

 鎮まっていた怒りが、むくむくとアボースの中で膨れ上がってきた。


「だからといって、棄てるのはかわいそうだろう。悪魔の子だって生きているんだぞ」

「何を怒っているんだあんたは。育てれないなら棄てるしかないだろう。それとも、殺せというのか?」


 口調が荒くなっていくアボースを見て、呆れ気味に農夫は窘める。しかし、アボースの怒りはそれだけでは収まらない。


「育てればいいだろう」

「育てるだって? はは、あんたは面白いことを言ってくれるな。何故俺がそんなことをせにゃならん」

「何故って、そりゃあんたの物だからだろう」

「俺の物だからって、俺が育てにゃならん理由にはならん。それに、俺の物だったら俺が棄てようが殺そうが俺の勝手だろう」

「悪魔の子だって生きている! 夢も! 願いも! 命も! 全部持っているのだ! それをあんたは自分のために踏みにじるというのか!?」

「それが俺の邪魔をするんだったらな。いいかい、自分に関係がないものの心配をすることほど愚かなことはないのさ」


 がははと快活に笑って、農夫は再び薬を撒いた。アボースの目には、土の中で芽生えるはずだった悪魔の子が泣いているように思えた。


「酷いやつらだ」

「酷い……か。若いね、あんた。正義感に満ち溢れてるな」

「それの何が悪い」

「悪いなんて言ってないさ。ただあんたは、物事を愚直に見過ぎている」


 農夫は撒き終わった薬の袋を畦道に捨てると、アボースの横に座って話し始めた。


「いいか。この土地は俺の物ではないんだ」

「それはわかってる。これはお前が地主と契約をして借りているだけの物だろう」

「そうだ。これは俺のじゃない。だからもしこの土地が悪魔の子を生んだとしても、俺はその責任を取れないんだよ」

「何故だ。お前が育てればいいだろう」

「金がないのさ。別に、国のせいにしようってわけじゃない。国のお偉いさんたちは頭を捻らせて、今のこの状況を良くさせようと頑張ってるんだろう。だがな、やはりそれでも我々庶民には、悪魔の子を育てるような財力はないんだ」

「……そんな、自分勝手な。悪魔の子の意見はどうなるんだ」

「意見も何もあったもんじゃない。奴らは喋れないんだから。な、あんた。誰も悪くないんだ。国も、俺らも、悪魔の子も。……ただ、間が悪かったのさ」


 農夫は、空を仰ぎながらそう言った。

 アボースもつられて空を見上げる。青く透き通った空だった。雄大な雲が静かに流れていた。この美しい空を、悪魔の子は見られないのだと考えると、アボースは無性に悲しくなった。


「俺には、その考え方が理解できないよ……」

「それはあんたがまだ悪魔の子に関わっていないからさ」


 農夫は急に立ち上がった。どうやら家に帰るらしい。尻に付いた草切れを手で払うと、農夫はアボースをまっすぐ見た。


「人間はな、自分が中心に立っていないときは何でも言えるんだよ。自分の想いや感情をな。だがそんなものは自分が中心に立ったその瞬間に崩れてしまう。何故かって? 想いや感情など綺麗ごとでしかないからだ。だからあんたはそんなにも溌剌と間抜けなことが言えるんだ」

「これを間抜けな事と言うのか」

「ああ、間抜けだ。とんでもない道化だ。まずは自分が中心に立った時のことを思ってみな。そうすれば少しはその考えも変わるはずだ」


 そう言って、農夫は畑へと歩いて行った。

 その後ろ姿を見ながら、アボースは怒りに任せ怒鳴り散らす。


「この悪魔め!」

「はは、悪魔か。案外間違ってないのかもしれんな……蛙の子は蛙。悪魔の子は悪魔だな」


 アボースが放った悪口も、農夫には全く意味がなかったらしく、手を振りながらどこかへ行ってしまった。


「なんて非道い奴らなのだろうか!」


 アボースは感情のままに地団太を踏んだ。自らの掌が真っ白になるくらい強い力で握りこぶしを作っていた。




 ▼


 アボースは自分の畑を見渡して、満足気に頷いた。

 彼の目の前に広がるのは大きくないが立派に育った穀物が目立つ青々とした畑。彼の自慢の畑だった。


 自らの畑に足を踏み入れたアボースは、近くにあった穀物をつまんでみる。しっかりと実った、立派なものである。

 そのまま自分の畑の中を歩いていたアボースは、何やらおかしなものを見つけた。


 ぴたりと乱れることなく屹立している穀物の中に、一つだけ短く太い草がある。

 その草はどこか不気味で、まるでぴったりと文字が書かれている書類の中に一文字だけインクを垂らしたかのような、よくわからない違和感があった。

 よくわからないが、近づいてみる。近づけば近づくほど見たことがない植物だった。


 葉の裏を確かめてみようと顔を近づけたところで、アボースは妙な違和感を感じた。

 この植物からは何の匂いもしないのだ。

 植物というものはどんな種類であれ、ある程度匂いというものはあるはずだ。


 しかしこの植物には、匂いといえるものが全くない。それが、アボースに形容し難い不安を与えた。

 しかしその不安は、すぐに恐怖へと変わる。

 とにかく葉の裏を見ようと植物を掴んだ瞬間、アボースは確かに感じたのだ。



 人体のぬくもりと、わずかに動く生命の気配を。


「う、うわぁっ!」


 思わず、アボースはしりもちをついた。

 植物を触った手を確かめてみる。何も変わりはない。

 しかし、確かに感じた。

 植物にあるはずのない体温と、茎の中で胎動する何かの命を感じたのだ。


「な、なんだこれ……」


 声が震えていた。

 何もなかったはずの手が、何故かじんじんと痛み始めた。もう一度確認するが、やはり異変はなかった。

 まさか、とアボースの中でむくむくと最悪の予感が起き上がってくる。


「ある日、畑に現れる……生物……」


 しりもちをついたまま後ずさりながら、アボースは確信した。

 これは、悪魔の子だ。


 そう頭が理解した途端、恐怖が溢れ出してきた。

 急いで立ち上がり、足がもつれさせながら走り去る。


 先ほどの二人の農夫たちの言葉が、頭にちらついた。


「育てる義務がある? ふざけるな……畑から生まれた子供なんて、育てれるわけあるか!」


 どこへ行くかもわからぬまま、アボースは走り続けた。

 気づけば、自分の家にいた。

 急いで納屋に入ったアボースは、ぴしゃりとドアを閉じ大きく息を吸った。

 恐ろしかった。自分の知らないところで何か重要なことが起こっていることが。

 しかしそれよりも恐ろしかったのは、自分の心であった。


 悪魔の子を見た瞬間、アボースの中にとある考えが出て来たのだ。


 このまま、棄ててしまおう。

 このまま、殺してしまおう。



 そんな悪魔にも似た考えが、アボースの頭を一瞬にして占めたのだ。そんな自分の心が、恐ろしかった。変わらないと信じていた自分があっけなく変わったことがおぞましかったのだ。


「どうしようか……」


 アボースの言葉は、頼りない声音だったにも関わらず納屋の中にいやにはっきりと響いた。

 すると、どこからか言葉が返ってきた。


『どうしたんだい? 頭なんか抱えて』


 アボースが勢いよく顔を上げると、納屋の端っこに置いてあった木馬の上に、先ほどの悪魔イチイが座っていた。


「お、お前……」

『やあやあ兄さん、また会ったね。どうしたのさ、随分と元気がないように見えるけれど』

「そう見えるかい」

『ああ、顔が真っ青さ。ま、真っ暗な納屋の中にいるからなんだけどね』


 自分のジョークがそんなにも面白かったのか、イチイは腹を抱えて笑っている。

 しかしすぐに真面目な表情に戻って、アボースを見た。


『それで、何が起こったんだい? 助けてあげれることなら助けてあげるけど』

「悪魔が人の手助けか?」

『おいおい、そんな非道いこと言わないでくれよ。おいらたち、友達じゃないか』

「うるせえ。……俺の畑に、悪魔の子が生まれたんだ」


 何か文句を言ってやろうと思ったが、そんなことをしても意味がない。

 アボースは素直に自分が置かれている立場をイチイに説明した。

 イチイはその説明を聞いて興味深そうに木馬を揺らした。


『兄さんの畑に悪魔の子が? そりゃまた大変なこった。けど、なんだってそんなに落ち込んでるんだい』

「どうすればいいのかわからないのさ……このまま育てるわけにはいかないし、かといって棄てたり殺したりするわけにもいかない……」


 アボースは絶望に呑まれながらやっとのことでそう言った。

 しかしイチイは特に大きな反応を見せない。ずっと、きょとんとした表情でアボースを見つめるばかり。


「俺は、どうしたらいいんだろうか……」

『始末すればいいじゃないか』

「は?」

『今のうちに始末すればいいだけじゃないか』


 ゆらゆらと、木馬に揺らされながら、イチイはさも当然のように言い放った。

 その生気のない瞳には、確固たる自信が見えた。


「始末って……そんなこと、できるわけないだろう。俺が居酒屋の男に言ってしまったんだもの。人の命を殺すなんてトンデモナイと……」

『ふむ、だから殺せないと……。兄さん、あんた少し勘違いしてるよ』


 ぴんと、人差し指をたてながらイチイはそう言った。やけに長い爪が目についた。


『あの男は悪魔の子とやらを殺せない。それは悪魔の子が既に生まれて地上に出てきてしまったからさ。しかしあんたは違う。まだ植物の中にいるんだろう? ならそんなの生物じゃないさ。自分の意志がないんだからな。自分の意志がないものを生物なんて呼ばんさ。だからこそ、あんたはそいつを始末していいんだ』

「な、なにを……」

『それに、誰も知りやしないさ。あんたは居酒屋で泣きわめいてもいないし、先ほどまで自信満々に悪魔の子を殺したり棄てたりするのはあり得ないと言っていた人間だろう。誰が始末したなんて思う? 誰も思わないさ。さ、早く始末してしまいな。誰かに見られる前に』

「そうした方が……いいんだろうか……」



 だんだんと、アボースはイチイの言っている言葉が正しいように思えて来た。

 確かに、植物の中にいる間は悪魔の子は自分の意思を持っていない。ならば、それは生物と呼ばないのではないだろうか。誰も彼を責めないのではないか。そんな考えが、アボースの頭の中に留まった。


『さあ、早く行っちまいなよ。ぐずぐずしていると悪魔の子が生まれちまうぜ! 生まれたらあんたの人生は終わりだ! さあ、早く行けよ!』

「……わ、わかった」


 その声に背中を押されるように、アボースは立ち上がった。

 立ち上がった際に、イチイが彼に向って何かを投げた。彼の足元で数回回転して動きを止めたそれは、納屋に置いていた斧だった。


『ほら、それで始末してきなよ』

「……恩に着る」


 短くそう言うと、アボースは斧を持って走り出した。その足取りに、迷いはなかった。



 ▼



 アボースが去った後の倉庫の中で、木馬の上で揺れながらイチイが哄笑していた。

 まるで狂ったかのように。怒っているかのように。

 笑い続ける。転がって、涙を拭って、また嗤って。


 暗闇の中で、彼の三日月型の瞳だけが不気味に動いていた。


『あーあ、やっぱ面白いや、人間って』


 やがて、イチイはそんなことを言った。


『ホント、どっちが悪魔かわかんなくなっちゃうね』


 イチイは悪魔だろうか? 

 アボースは悪魔だろうか? 

 悪魔の子は悪魔だろうか? 



 真相は闇の中。

 ただ、悪魔が嗤う不快な声だけが辺りに響き渡っていた。



 ▼



 悪魔の子を宿している植物は、心なしか先ほど見た時よりも少しだけ大きくなっているように思えた。

 それを見るアボースの目つきは、人間のものとは思えないほどに冷めきっている。


「お前が悪いんだよ、お前が……こんなところに現れた、お前がな」


 短くそう言って、斧を構える。植物は何も言わない。ただじっと、動くこともなくそこに佇んでいる。

 当たり前だろう……『まだ生物ではないのだから』。


 大きく息を吸って、斧を持ち上げる。ふと、心のどこかがちくりと痛んだ。

 しかしそんなこと、知ったことではない。

 大きく息を吐きだしながら斧を振るったアボースは、心の迷いもろとも、植物を切り裂いた。




 ──溢れ出したのは、真っ赤な血であった。


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悪魔の子 じゅそ@島流しの民 @nagasima-tami

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