蝉が鳴いた日。

じゅそ@島流しの民

第1話 初鳴き


 その年初めて蝉が鳴いた時、それは、私が貴女と出会った時だった。

 純白のワンピースを身に纏い、カジュアルなキャップを被っていた貴女は、私を見て微笑んでいた。後ろに括った濡羽色の髪が、梅雨の終わりを感じさせるからりと乾いた太陽の光に煌めいた。細められた、髪と同じく漆黒の瞳は私を捉え、離さない。まるで呪いにかけられたかのように、私はじっと貴女を見つめていた。

 二人の出会いを喜ぶ祝詞の如く、蝉が鳴いていた。しかし私の耳は、蝉の鳴き声など拾えぬくらいに貴女しか見えていなかった。


 不意に、貴女がこちらに手を差し出す。痛いくらいの陽光が、貴女の白い肌をはっきりと浮き上がらせていた。暑さによるものではない汗が頬を伝う。心臓は破裂しそうなほどだった。

 手を震わせぬよう、ゆっくりと前に出す。すると、肉に飛びつく肉食獣のような勢いで、貴女が私の手を掴んだ。女性らしい柔らかな手の感触が新鮮だった。貴女は驚く私の反応が面白かったのか、艶やかな髪を揺らして笑った。コンクリートが焼ける、嫌な臭いに混じって、メロンのような甘い香りが貴女から漂ってきた。


 一匹だった蝉の鳴き声が、だんだんと坂を転がる雪玉のように大きく増えていく。数週間後には立派な蝉時雨になって、辺りに自らの命の結晶を音に変えまき散らすのかと考えると、空恐ろしさが私の心に宿った。


 貴女の手が離れる。密着していた掌は、汗でじっとりと濡れていた。断絶されていた外気に触れ、貫くような爽やかさが掌を包む。それでも、何故か惜しかった。もっと貴女と手を繋いでいたいと、そう思っていた。







 ──これは、私たちの物語。

 

 確かに幸せと呼べた物語。短い時間のランデヴー。有限の愛。

 或いは、蝉の如き恋愛物語というのだろうか。





 次の年、初めて蝉が鳴いた。その時私は、貴女と共に逢瀬をしていた。

 湖の畔を二人で歩く。そんな単純なことが、この上なく幸せに思えた。

 

 あれから私たちは、夏を越えて共に歩んできた。時に笑い合い、時に泣き合い、時に怒りあって……。

 寂しいことも、辛いこともあった。しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるという諺があるように、それら全てを乗り越えた私たちは、そんな出来事も楽しかったと言いあえるほどになっていた。

 


 少し腕を動かすと、かすかに触れる貴女の体温。手でちょんと貴女の袖をつつくと、応えるかのように私の掌に自らの手を滑り込ませてくる。

 ぴたりと身を寄せ合って歩く。鳴き始めた蝉が、姦しい声を二人の上に落とす。

 入道雲が太陽を隠した。雲の端が銀色に輝いている。くっきりとした形の入道雲だった。青すぎる空が眩しかった。





 木の下で一休みをする。そのころには入道雲は消え去っており、真っ白な太陽が刺すような陽光を振りまいていた。

 見上げると、木の葉の隙間から眩い光が差している。斑の影が貴女の白いワンピースの上で蠢いていた。貴女は今日も白いワンピースを着ていた。私たちが初めて出会った時に着ていたものである。

 

 暑いね、貴女ははにかみながら言った。まだ六月なのに、気温は夏と同じくらいになっている。頭上で蝉が鳴き始めた。

 持参していた水を飲んだ貴女は、徐に立ち上がり、木の影から飛び出した。途端に、陽光に塗れる貴女の姿。黒々とした影の中にいる私と、光輝く貴女。まるで、二つに断絶された世界にいるようだった。

 


 くるりと一回りする貴女。ワンピースの裾がふわりと膨らんだ。陽光がワンピースを透かし、貴女の細いくびれをぼんやりと浮かび上がらせていた。

 立ち上がる。ポケットに感じる違和感に緊張しながらも、貴女の前に立つ。

 きょとんと首を傾げる貴女に、ポケットから「それ」を取り出し差し出す。

 それは、指輪だった。

 貴女に似合いそうな、煌めく宝石が埋められているものだった。

 指輪を見て、貴女は目を大きく見開く。

 その仕草に愛おしさを感じながら、私は手を差し出した。応えてくれるのなら、この手を握ってください。

 


 蝉がけたたましいくらいに鳴いている。そよ風に揺れる水面が陽を反射してキラキラと輝いていた。

 そうっと、私に向け伸ばされる手。貴女は悩んでいるようだった。このまま手を握っていいのか、この人と、添い遂げていいのかという悩みだった。

 


 それを見た私は、自分の内側から溢れ出て来た感情を抑えきれずに、中空で止まっている貴女の手をがしりと掴んだ。貴女の肩がびくりと跳ね上がった。

 絶対に幸せにしてみせる。そう言うと、貴女は頬を薄紅に染めながら、嬉しそうに笑った。

 鳴き止まぬ蝉は、まるで共に歩み始めた二人を祝福するファンファーレのようだった。






 幸せだった。

 






 ……幸せだった。







 それから私たちは、色々なことをした。

 海に行ったり、祭りに行ったり。二人で向日葵を眺める、それだけのことがとても楽しく、幸せに思えた。


 夏が終われば共に秋の山へ登り、その侘しさに心を震わせた。紅葉の錦を眺め、その美しさに心を打たれた。

 陽光を浴び、紅の影を落とす紅葉の下で、貴女は被っているキャップを微かに紅に染めながら、こちらに笑いかけるのだった。

 


 冬になれば、冷えた手を温めるために手を繋ぎ、体を摺り寄せながら歩いた。私は寒いのが苦手だったので、外出などはあまりしなかったが、二人で炬燵に潜り込んで雑談をしながら食べる蜜柑は、今まで食べたどの蜜柑よりも甘く感じた。

 足を伸ばした際に触れた貴女の足のその滑らかさ、擽ったそうに微笑むその表情。

 幸せなのだという思いが、私の心を満たしていた。

 


 春になれば、雪が解け始めた道路を、それでも二人手を繋ぎながら歩いた。雪をかき分け萌え出た土筆を見て、共にはしゃいだ。柔らかく降り注ぐ太陽を、二人で眺めた。

 


 雪が完全に溶けたら、再び様々な場所を練り歩いた。街、山、田舎。私が行きたい場所に行き、貴女が行きたい場所に行った。自分が見たかったものが見れた時に貴女が見せる、その純白な笑顔は、空で輝く太陽よりも眩しかった。



 梅雨が来れば、共に恨めし気な表情で空を見上げ、その後二人顔を見合わせ笑い合った。憂鬱な雨の日も、貴女と共にいれば楽しかった。

 人がいない、寂れたバス停で二人雨宿りをして、雨粒がトタンを打つ軽い音に耳を傾けた。

 そっと私の掌に自分の手を滑り込ませる貴女。優しく握ると、応えるかのように軽い力で握り返される。その、言葉には出来ない私たちの間だけの応酬に、頬を緩ませる。





 ……この幸せは、ずっと続くものだと思っていた。いつまでも貴女が隣にいて、それを見て私が笑う。これが私たちの人生になる予定だった。予定だったのだ。



 そして季節は廻り巡って、夏になる。梅雨の終わり辺りに、蝉が鳴いた。















 ……その年初めての蝉が鳴いた時、貴女はこの世からいなくなった。

 





 交通事故だった、らしい。

 

 歩道を歩いていた貴女に、自動車が突っ込んだらしい。

 

 らしい、らしい、らしい。

 何もわからなかった。貴女と共に人生を歩くなどと宣いながら、私は貴女の最期を「らしい」しか知らなかったのだ。

 


 私の小さな幸せは、弾け飛んだ。水泡のように淡く儚かった、私の全てだった。

 独りになった私を嘲笑うかのように、蝉が鳴いていた。



 ◆



 はっと目を開ける。耳に遠く響いていた潮騒の音が、蝉の鳴き声でかき消された。

 凭れかかっていたベンチの背から体を離し、ぐっと背を伸ばす。

 視界に広がるのは、遠く彼方地平線まで広がる海の群れ。ゆらゆらと揺れる波は、遠目から見ると皺のよう。ふと、あの日貴女が着ていたワンピースの皺が瞼の裏に浮かんだ。

 陽光を遮る小さな屋根から出ると、刺すような暑さが私の頭皮を襲う。恨めし気に空を見上げると、目に痛い太陽がこちらを見下ろしていた。

 


 ふと、遠くから蝉の鳴き声に紛れて電車の駆動音が聞こえて来た。頭をめぐらせると、遠くに小さく電車が見える。

 ここは、海が近い小さな駅。貴女を失った私は、何もすることなく、この一年ほどぶらぶらと旅に出ていた。

 それは、貴女を忘れるため。貴女の痕跡を、頭の中からさっぱりと消すため。

 私の汚い心だった。

 


 だが、私は貴女のことを忘れることはできなかった。

 


 何かあるたびに頭の中に浮かぶ、貴女との思い出の日々は、消そうと思って消せるものではなかった。

  

 紅葉を見れば貴女の笑顔を思い出し、向日葵を見れば貴女の柔らかな肌の感触を思い出す。土筆を見れば貴女のキャップを頭の中で思い描いて、蝉の鳴き声を聞いて貴女を憎んだ。

 

 貴女は私の中で、大きな存在になってしまっていた。大きくて強くて、私には背負いきれないほど……。

 

 ちらりと、蝉の鳴き声がする方を見る。鬱蒼と生い茂った木々が、太陽に照らされ屹立していた。どうやら蝉はあの木にいるらしい。遠くなので姿は見えないが、その鳴き声ははっきりと聞こえていた。

 

 電車が近づいてくる。だんだんと大きくなってきた駆動音に、蝉の音や潮騒の音は掻き消えていく。

 貴女との思い出も、こうやって、いつか誰か違う人との思い出に塗り替わっていくのだろうか。貴女のことを思い出すと痛む胸も、いつかは優しく笑い昔を懐かしめるようになるのだろうか。

 


 なんだか、それは、嫌だった。

 


 停車のため速度を落とした電車が私の目の前を通る。それまで視界にあった木々と、駅の向こう側に置いてあった、枯れかけの花が植えられている植木鉢が見えなくなった。

 電車のドアが開く。車内から漏れ出た冷気が私の熱くなった肌を撫でた。


 乗客なんて誰もいない。


 近くの席に座り天井を見上げた私の耳に、再び思い出したかのように蝉の声が聞こえて来た。


 近くなったから見えるだろうかと思い車窓から外を見てみるが、その姿はやはり見えない。声だけの存在だった。空に浮かぶ真っ白な入道雲が、のびのびと広がっていた。その白さに、貴女のワンピースが思い浮かんだ。





 目に見えなくても、その存在をはっきりと認識できる。



 それが、嬉しかった。



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