ハイパー営業マン恩田、異世界へ。
来栖もよもよ
恩田、異世界へ。
「……んん??」
まずい、二日酔いか?
ものすごい頭痛に襲われ、痛む頭を押さえながら体を起こした俺は、目の前に広がる景色に一瞬思考が停止した。
見えているのは、自宅マンションの寝室でもなければ見慣れた街並みでもない。
地面にはレインボーカラーの花が咲き乱れ、森の中のように背の高い大きな木が密集していた。
空にはカプセルでも投げたら捕獲できそうな、現実世界では見たことのない生き物が飛んでいる。
これは明らかに異質な世界だ。俺の知る日本ではない。
いや、異常なものの方が多いのだから、異質なのはむしろ俺なのか?
──仕事のし過ぎで俺の頭がおかしくなったのだろうか。
俺は少し冷静になろうと自分の情報を脳内で確認する。
名前。名前は恩田健太郎。
年齢は三十二歳独身。
仕事は二年前に独立したフリーの営業マン。
うん、大丈夫だな。記憶はしっかりしているし、体にも大きなケガは見当たらない。
というか何故スーツで寝ていたんだ俺は。
仕事用のトランクも近くに転がっていたので、慌てて中を開き、売り物である商品を確認する。
良かった、破損はなさそうだ。
トランクに入れてあったウーロン茶のペットボトルを取り出してキャップを開けると、俺は一口二口と飲んで喉の渇きを癒やす。
ふとこんなところに座っていたらスーツが汚れる、と立ち上がり、土をパタパタと払った。
鏡がないので顔も汚れているのか分からない。そばに小さな池があったので顔を洗い、ミニタオルで拭う。スーツの胸ポケットに入れている小さな櫛を取り出して髪も整えた。
お客様に対して不快な印象を与えるなど、営業マンとしてあってはならないことだ。
こんな見覚えのないような土地にいても、長年の営業マンとしての思考が体に染みついてしまっているのが恐ろしい。
俺は自分で言うのもなんだが、大学を出て勤め始めてから、営業マンが自分の天職であると確信するほど仕事が好きで、しかも『売る』という能力においては恐ろしく才能があった。
相手が求めているものは何か、一番重要なポイントがどこか、またどういう対応がベストなのか、ちょっと見たり話しただけですぐに分かってしまう。
自分でもどうして分かるのかうまく説明できないのだが、獣の野生の勘みたいなものだろうか。
人には向き不向きがあるだろうが、少なくとも俺には営業マンが性に合っていたのだ。
『需要と供給の架け橋』
になれている自負があった。
だが問題があった。一つの会社にとどまっていると、売れるものが限られるのだ。
最初は不動産、その後は冷凍食品、文具、化粧品。色んなものを売りたくて転職をしたが、結局その会社のメイン商品しか扱えない、というジレンマが常にあった。
営業マンとして才能もあり、大きな結果が出したいからと努力も怠らないので、どの会社でも売上成績は常にトップだったし、辞める時にはいつもガチめに引き止められていたが、三十歳を迎えた時、このままではこのモヤモヤした感情は払拭できない、とフリーランスになることにしたのだ。
いくつもの企業と契約し、まず自分がモニターとなってチェックし、「お客様に自信を持って勧められる」商品だけを売るのである。
最初はフリーランスの営業なんて、というバカにする態度だった訪問先の担当者を丸め込むことなど、俺にとってはお手の物である。
パワーポイントで資料を作り、過去の就業先での営業実績を分かりやすく数字で説明。
販売数によるマージンのみいただくので、単純に人件費がかからないこと。
自分がモニターになることで、お客様にも具体的なアドバイスが可能であり、時間を取られがちなカスタマークレームも減らせるであろうこと。
クオリティーの高い商品を選択し提供し続けることで、営業マンとしてのこちらの信頼度も上がり、今後私がお勧めするものであれば、と信用買いも見込めること。またそれにより私が商品を扱っている会社である、ということで御社への信頼度も上がる可能性も高くなること。
実際にトップで結果を出し続けていた即戦力になる営業マンの言葉である。しかも企業側にデメリットはないのだ。
自分に効果的なプレゼンをすること、さりげなく好感を持っていただくことなど営業マンとして基本中の基本である。
三カ月ごとに販売契約を更新するかしないか選択できるし、更新料自体は四万程度、年間にしても十六万である。自社の従業員のひと月分の給料にも満たないほどのお得さである。
しかも結果が満足できなければ、違約金は発生しないで簡単に解除できる。
逆にこれでお試しをしないのは機会損失でしかない。
そのため、見る目を持つ中小企業の経営者やそこそこの企業の営業部長は契約を結べた。
もちろんモニタリングする時間も必要なので、最初に商品を提供してもらい、自らの体を使って確認した後の三カ月だ。
営業マンとしては非凡な俺の販売実績は、当然ながら正社員より上であり、現在契約している十五社とは一度も契約を解除されることなく、とても友好的な提携を続けられている。
年収も二千万近くあり、今後も契約企業が増えたらますます増加予定だった。
当然だが売れなければ一切収入には繋がらないため、今後どうなるかは未知数だ。
とはいえ自分の能力が衰えたらさっさと引退して、別の適職を見つけるか店でもやるかと考えているので、貯金もしっかりしているのでそこまで不安はない。
悩みといえば、特にイケメンでもなく女性に縁があるわけでもないので、恋人がなかなかできないことぐらいだが、仕事をしている時の方が今は充実感も喜びもあるので、まあ機会があればでいいかと気楽に考えている。
それにしても困ったなあ。
俺は目覚める前の最後の記憶を思い出しため息を吐いた。
新規の企業とアポイントを取って、モニタリング商品であるハンディープリンターの受け取りをする予定だったと思う。単価も高く、上手くいけばさらに儲かりそうな仕事だった。
車で新橋方面に向かっていたはずなんだけど、それで、どっかでバカでかいクラクションがあちこちで鳴って、車を止めようとしたら後ろからタクシーに突っ込まれて……。
──ん? もしかして俺は死んだのか? ここはあの世なのか? それにしちゃしっかり実体あるんだけどなあ。あ、それとも時空がねじ曲がって現実と空想がごっちゃになった、パラレルワールドみたいな世界に飛ばされた、とか? いやSF過ぎるか。映画じゃないんだし考えすぎかも知れない。
しかし現時点での俺は、どこにいるかも分からない、見知らぬ生き物や草花が存在する山だか森だかに、トランク一つでほったらかされている状態だ。
とりあえず最寄りの町を探して移動するしかないか。
今は空が明るいが、こんなところで夜を迎えるなんてゾッとする。
改めてトランクを開けウーロン茶を再び手に取ったところで俺は首を傾げる。
(あれ、半分ぐらい飲んだはずなんだけど)
なぜか中身が買ったばかりの状態に戻っている。蓋まで未開封だ。
日本とこの世界とは何か常識というか理(ことわり)が違うのかも知れない。
まあ深く考えても分からないもんは分からないし、そんなことは後で考えよう。
俺はトランクを転がしながら移動することにした。
だが獣道を抜け、緩やかな坂を下り、歩いても歩いても村や町の気配すらない。
日も徐々に傾き、腹まで減ってきた。
何故か持っていたウーロン茶は、いくら飲んでもトランクにしまった時点でリセットされるのか、全く中身が減らないので喉の渇きを覚えることはなかったが、空腹は癒やせない。
「……んー」
俺はペットボトルをしまおうとして、トランクに詰め込まれている商品で視線を落とす。
美容液やちょっとお高めのシャンプーとトリートメント、劇的に落ちる洗剤、切れ味抜群の包丁にハサミ。ビタミン剤や栄養ドリンク、高級万年筆に完全注文予約制の家具のパンフレットなど、扱っている多くの品物は様々であるが、気軽に町中のスーパーでは買えないものばかりだ。
俺はそれを小売店や、金銭的にゆとりがありそうな一般家庭に売るのである。
その中に、小さな家族経営の工場で作っている限定生産の激うまなビーフジャーキーと、オーナーこだわりのバターとはちみつを使ったバウムクーヘンもあった。
ウーロン茶が減らないなら、もしかしてこれも?
どれも見本や試食も含めていくつも入っているが、トランクの中のものは商品、つまり他者がお金を払うものであり、自分が食べようとか使おうと思ったことは一度もなかった。
が、今は非常時だ。
俺はビーフジャーキーの袋を開けて食べる。これ相変わらず柔らかくて美味いんだよなあ。
空腹だったのもあって一気に半分ほど食べてしまい、さすがに塩分摂りすぎはまずいなと考え、いったん封をしてしまった。
そしてちょっと期待を込めて改めてトランクを開いた。
「おおおー」
さっき開封したビーフジャーキーの袋は未開封に戻り、何事もなかったかのように置かれていた。
塩気のあるものを食べたのでバウムクーヘンも取り出してウーロン茶と食べる。
甘いの苦手な俺でもするするイケる上品な味わいに感動して、オーナーに懇願して営業契約を取りつけたが、やっぱりいつ食べても美味しいものは美味しい。うん。
理屈は分からないが、トランクの中は物が減らない空間というか、中の質量が変わらないよう維持されている状態なのだろうか。
理系脳ではないし何でなのか理由も推測もできないが、絶賛遭難中の俺としては大変助かる。
これで少し物足りないが空腹は満たせたし、気力も持ち直した。
空腹だと常にポジティブシンキングとは行かないもんなあ。
再び帰れるのかという不安に、少々心が折れそうになっていたが、気持ちも新たに歩き出した。
「……見つけた」
もう夕方になろうとしており、これはもう野宿ではと考えていた矢先、前方に一軒のログハウスのような建物が見えた。近くには少し大きな湖もあり、別荘か何かのようにも思える。誰か人がいればいいのだが、と祈るような気持ちで俺は近付くと、その家の扉をノックした。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいますかー?」
何度か声を上げながらも、あれ、ここの人って日本語通じるのか、などと思っていると、中からオーバーオールを着た、やたらとガタイのいい大男が出て来た。
顔には何故か薄汚れたホッケーマスクをつけている。子供の頃似たような人が出てくるホラー映画を見た記憶がよぎったが、まあ人の趣味や事情など様々だ。
そんなことよりも、今はとにかく一晩泊めてくれたらありがたい、もしくは近くに町があるなら教えて欲しいという気持ちしかなかった。
「うるさくして誠に申し訳ありません。実は道に迷って困っておりまして……あ、僕の言葉分かりますか?」
かなり無口の男性なのか、ただ小さく頷くだけである。
「近くに歩いて行けるような町はありますか? それなりの人がいるなら村でもいいんですが」
男はふるふると首を振る。
だよなあ、今の田舎は車社会だもんな日本も海外も。
離れたところには大きな町だってあるんだろうけど、ここからまた何時間も夜通し歩くのか、と思うとため息が出そうになる。野生動物とかさっき見たような変な生き物に襲われないとも限らないし。俺は営業力はあるけどサバイバル能力は皆無に等しいのだ。
「……そのう、大変図々しいお願いなのは承知なのですが、納屋とかで構いませんので、せめて一晩だけでも泊めて頂けないでしょうか? もちろんお礼はしますので」
急に仕事でお金が必要になることもあるので、ある程度まとまった金額は持ち歩いている。
だが俺は財布を取り出しかけて固まった。
……まてまて、日本円が使えるわけないじゃん。
さすがに赤の他人をタダで泊めろとは無礼にもほどがある。
せめて何か商品でも代わりに、と思いトランクを開けようとした視線の隅に錆びたナタが見えた。かなり使い込まれているような年季の入ったものだ。
俺の営業マンとしてのスイッチが入った。
「事情があってお金はないのですが、その代わりといっては失礼ですが、あのナタ、使い過ぎて大分ご不便じゃありませんか? 一晩お世話になるのと、あのナタの錆を落として切れ味を新品同様にする、っていうのと交換ではいかがですか?」
男はナタを見て、少し考えたあとためらいがちに頷いた。よっしゃ。
俺はトランクから『ツルリン太郎』と『何でもとげーる君』を取り出した。同じ会社の商品で、商品は超一流なのだが、社長の命名センスだけはいつも残念としか言いようがない。
ツルリン太郎は刃物はもとより、自転車など金属の錆や台所の水垢までツルツルにしてくれる、優れものの固いスポンジのようなクリーナーである。
何でもとげーる君はハサミや包丁など切れ味の鈍った刃物を、ステンレスだろうと鋼だろうとすぐに買いたての状態にするというのが売りの研ぎ器。
「すみませんが、作業させていただいても?」
「ヴ、ヴ、ヴ」
頷き、男は初めて声を出したが、かすれて聞き取りにくかった。彼は声が不自由なのか。
さりげなく見ると後頭部にもケロイドみたいな痕があるし、大ケガとかで顔にもケガをしていて、仕方なくホッケーマスクで隠しているのかも知れない。一人暮らしっぽいのも人の好奇の目にさらされたくないのかもな。俺もイエスかノーで答えられるような話を心掛けよう。
そう思いながら、ナタの刃にツルリン太郎をあてると、力を入れずにコシコシとこすり始めた。ちょっとお水があるといいのですが、というと、井戸から水を汲んで運んでくれた。
無口で威圧感のある人だがとても親切である。
さすがに包丁の何倍もの大きさだったので十分ほどかかってしまったが、顔がはっきり映るぐらいピカピカになって満足のいく出来である。
だがこれは綺麗にしただけなので、次はとげーる君の出番だ。
土台に粉末にしたダイヤモンドが使われているので、大抵の金属には負けない頑丈さだ。
V字になっている隙間を数回行き来させるだけで包丁などすぐに切れ味は回復する。
これもナタの大きさに少し苦労したが、数分後には近くに置いてあった薪を苦労なく真っ二つに割ることが出来るぐらいになった。
「ヴヴ、ヴ」
表情は分からないが、大変喜んでいるようだ。俺の肩を叩いて家の中に招き入れてくれた。
使ったツルリン太郎たちはトランクにしまい、贅沢にもゴロゴロと肉や芋が入ったスープ、バターを塗った固めのパンもありがたくご馳走になった。
甘い物は好きだというので、バウムクーヘンも食事のお礼に取り出し、カットして皿に載せる。
「ヴヴッ!」
恐る恐る一口食べた後、声を上げると、マスクを持ち上げ器用に平らげていく。かなりハイスピードで食べているぐらいだ、この美味しさが伝わったのであろう。こちらも一宿一飯の恩が返せて何よりである。
大きなマグカップにコーヒーまで入れてくれたので、相手がバウムクーヘンを食べるのを眺めながらコーヒーを味わい、俺は今後のことを考えていた。
とりあえず、今のところ日本に帰れる見通しは立っていない。
だがいつになるにしろ簡単ではなさそうだし、それまではこちらで生活をして行かねばならないわけで、となるとこちらの生活費、つまりお金がいる。
遠くの国から来た商売人なので、と大男に説明し、こちらの物価とお金について確認すると、大体パン一つで百ガル、瓶に入ったミルクが二百から三百ガル、そしてアパートなどの家賃は一人暮らしぐらいの大きさなら五万~六万ガルという単位のお金がかかるらしい。
働いている人間の給料の相場が大体十五万~二十万ガルだということから考えると、円と等価ぐらいの金銭価値という認識で大体合っているだろう。
そしてその相場でいえば、二カ月三カ月はゆうに暮らせるであろうお金が財布の中には入っているが、日本の金は役に立たない。現地のお金を早急に手に入れなくてはならない。
ここで普通なら絶望するだろうが、俺にはマイトランク・改がある。
商品がなくならないのであれば、仕入れ代もかからない。
いつトランクの便利機能がなくなるかの不安はあるが、まずはこれを売りまくって稼ぐしかない。
そして簡単に帰れないのなら、この国に存在する俺が認めた品物を、トランクの商品を売ったお金を元手にして仕入れ、また各地を売り歩くのもいいかも知れない。
これは大変なビジネスチャンスだ。しかもトランクに入っているのは、この国にはまだ存在しないであろう便利グッズ、優良商品である。
俺のハイパー営業マンとしての力の見せ所ではないか。
新しい場所での新しいチャレンジは、俺のもっとも得意とするところだ。
翌日、男に近くの町まで軽トラに載せてもらい、別れを告げてから町に歩きながら、俺は昨日の不安がすっかり消えて行くのを感じたのであった。
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