第26話

「……遅いわね」

 夕焼けが差し込む屋敷の中で、アリシアが独り言ちた。

 アッシュが街まで買い物に出たのは昼過ぎ、いつもならばこの時間には帰ってきていたし、街との往復の時間を考えてもさすがに遅すぎる。

 アリシアは、目を閉じて意識を集中した。隷属の腕輪の機能の一つには、腕輪の位置を主人に伝える機能があるのだ。

 リッキーの腕輪の気配は屋敷のすぐ近くにあった。呼ばれたらすぐに来られるようにしているのだろう。アッシュの腕輪はというと、なんとまだ街にいるようだった。

「————リッキー」

 不穏な気配を感じたアリシアはすぐにリッキーを呼び出した。

 アッシュが逃げるなんて微塵も思っていなかったため、彼の身になにかあったと考えたのだ。

 呼びかけに応じてすぐに表れたリッキーもアリシアの雰囲気から深刻なものを感じたのか、いつものような威勢のいい返事はなく、静かに指示を待った。

「アッシュが帰ってこないの。街にいるようだから、様子を見てきてくれる?……私がいってもいいのだけれど、なんとなく嫌な予感がするから、できるだけ静かに動いてほしいの」

「了解しやした!行ってきます」

 リッキーは二つ返事で了解すると、屋敷を飛び出していった。

(なにもなければいいのだけれど……。)

 ようやく森の魔力異常が収束して、数年で普通の森に戻るところまで安定してきたという報告ができると思っていたのに、その矢先にこれだ。

 なぜアッシュが帰ってこないのか、リッキーが帰ってこればその理由もわかる。せめて、彼が危険な目に合っていないことを願うかぎりだ。


 ***


 アリシアが異常に気が付いたのと同時刻、アッシュは街のはずれにある地下牢にとらわれていた。

 本来は重罪人を捕えておくために用意された牢屋だったが、国のはずれの片田舎にあるこの街では、重罪になるような犯罪が起こることなどなく、使われることがなかった場所だったのだが、この度アッシュが初めて捕らわれた人間になってしまった。

「いい格好だなぁ、ミハエル」

 牢屋の中で膝をついた状態で後ろ手に縛られた状態のアッシュの姿をナルシスは見下ろしていた。彼の周囲には兵士が何人もおり、同様にアッシュのことを見ている。

 ここまでアッシュは一切の抵抗をしていないが、学生時代の実力差から考えるに抵抗されればナルシスが一方的にやられるだけだ。それがわかっているがゆえにナルシスはアッシュと二人きりにはならず、周囲からほかの兵士を離れさせられないのだ。

「そっちは変わらないみたいだな。周りに人がいないとまともにしゃべれないチキン野郎」

「ああ?ミハエル、お前、自分がどういう状況だかわかってるわけ?……なあ!」

 ナルシスの蹴りが脇腹に刺さり、小さくうめき声をあげた。

「王都への土産にしなくっちゃいけないからな。顔はきれいにしておいてやるが、ほかは別にいいよな!」

 それを合図に周囲の兵士らもアッシュに暴行を加え始めた。その光景はまるでいつぞやの再演のようだった。

 何度も何度も体に衝撃と痛みが走っているはずなのに、アッシュの頭にあったのは全く別のことだった。


 ————こいつはまるで変わっていない。

 ニックの一件があったっていうのに、こいつはまだこうやって人を傷つけている。


「————おい、ナルシス」

 怒りを含んでいたためか、暴行の中でもアッシュのその言葉はひどく鮮明に牢屋の中で響いた。

「なんだよ、ミハエル」

 ナルシスが口を開くと途端に兵士たちの暴行がやんだ。

「お前、————ニックのことは覚えてるか?」

「……ニック?ああ、なんかそんな名前の平民がいたっけ。————そいつのことがどうしたっていうんだ?」

 その答えを聞いた瞬間、アッシュの中にあの時の怒りが今一度燃え上がった。

 膝をついた体勢だというのに驚異的な身体能力で跳びあがり、ナルシスの特徴的な鼻に向かって頭突きを喰らわせた。

「ブヘッ!?」

 情けない声を出しながら、ナルシスは倒れた。両腕が縛られた状態のため、アッシュも勢いのままにナルシスの上に倒れこんだ。

「隊長!?」

「テメェ!」

「急いで隊長を助けろ!!」

 アッシュに暴行を加えていた兵士たちが大急ぎでアッシュを起き上がらせて、ナルシスを助け出した。

「ナルシス、それで思い出せただろ。あの時と同じように鼻をつぶしてやったんだからな」

 兵士に両腕を引っ張られながら、アッシュは鼻から血を流しながら怒りの表情を浮かべているナルシスを嘲笑した。

 だが、ナルシスはニックのことよりも、また鼻をつぶされたことへの怒りしか頭になかった。

「もう加減はいらねぇ!ボコボコにしてやれ!!」

 アッシュを床に転がすと、兵士たちによる暴行が再開された。


「……今日はこのくらいにしておいてやるよ」

 夜更けまで暴行は続き、終わったころにはアッシュは満足に動くこともできない状態になっていた。

「ああ、そうだ。知ってるか?お前の兄貴、王女様と結婚するんだとよ。ヴァルトシュタイン卿も喜んでいたよ」

 ナルシスはその言葉を捨て台詞にして、兵士たちを連れて牢屋を出ていった。

(兄さんが、結婚。……相手は王女、だって?……って、ことは)


「あはははははっ!」


 誰もいない牢屋にアッシュの笑い声がこだました。

 それは悲しみのような負の感情ではなく、さまざまな正の感情が折り重なった不思議なものだった。

 アッシュにとって気がかりの一つであったステラ王女のこと、外国に行ってしまった兄のこと、その二つについてが一気に解消とまではいかなくても、情報が入ってきたのだ。しかもその二人の結婚だなんて、いろいろとこみあげてくるものがあった。

 ひとしきり笑い終えたところで、アッシュは牢屋の外に小さな影があるのに気が付いた。その大きさには見覚えがあったので、確かめるように声をかけた。

「……先輩?」

 影は明りの下まで来ると、見慣れたリスの姿に変わった。

「アッシュ、大丈夫か?ワイが人間やったら助けに入れたんやが、さすがに多勢に無勢やったし、どうにもできんかった。ホンマにスマン」

 小さな頭を下げるリッキーに対し、自分の不注意でこんなことになったのにとアッシュは逆に申し訳なく思った。

「そんなことないですよ。あんな状態じゃ、出てこれないですって。————アリシアにはなんて?ここに来たってことは伝えたんでしょ」

「姉さんからは救出できるなら助けて来いって言われたんやけど、その様子やとキツいよなあ」

 リッキーはアッシュの様子を見て残念そうにそう口にした。

 牢には鍵が掛かっており、アッシュの手は縛られているが、リッキーならばそのくらいは問題にならないだろう。それにナルシスはバカだったため、牢を見張る人間など置いていなかった。

 そのため逃げ出すのは簡単だったが、そもそもアッシュがボロボロすぎて動くのも厳しい状態では関係がなかった。

「……どうせ、明日屋敷まで連れていかれると思うんで、そこで助けてください。アリシアにもそう伝えといてもらえれば」

「そやなぁ、そうなんやけどぉ……」

 リッキーの返事は妙に歯切れが悪かったが、最後にはわかったと言って、屋敷に還っていった。

 そして、また牢屋に一人になったアッシュは冷たい石でできた床で眠るように意識を失った。

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