幕が開ける

 水たまりに反射する陽射し。

 

 雲一つも無い晴天の青空。

 

 昨日の大雨が嘘のような完璧な朝とは対称的に、渚は朝からトイレに籠っていた。

 

 「ねえ渚ー。大丈夫なのー?」

 

 繰り返すノックの音と、陽子の心配そうな声。

 

 「うん、なんとか……ヴォェエエエエエ」

 

 南 渚、彼女は今、緊張の向こう側、ゲロの大海にその身を沈めていた。

 

 昨日は結局、春彦の言いつけを守り、台本を読むことはしなかった。

 

 何とかなると思って眠りについたが、朝目覚めて急な不安が襲ってきたわけだ。

 

 「お母さんもう仕事行っちゃうからね!一応吐き気止めはご飯の横に置いてるから」

 

 「分かったありがと。行ってらっしゃ……ヴォェエエエエエ」

 

 しばらくして、全てを出し尽くした渚はゲッソリした顔でトイレを出た。

 

 テーブルの上には、豪勢にトンカツ定食がある。

 

 (母よ。あんたの娘はこんなの食える状態じゃないよ)とげんなりしつつも、一口だけ

 無理やり詰め込んだ。

 

 胃がイガイガする、なんて下らないことを考えながら、陽子が用意した、成分の半分が優しさで出来ている薬を飲み込んだ。

 

 一旦部屋に戻り、制服に着替えると、洗面台の鏡の前に立った。

 

 一週間徹夜した漫画家の様な疲労感を漂わせる自分の顔に水をぶっかけ、頬を何度も叩くことで、なんとか人に見せてもいいレベルに戻した。

 

 しばらくソファでゆったりした時を過ごす。少しずつ体調が良くなってきたところで、渚は大きく深呼吸して家を出た。

 

 いつもの通学路を歩くと、学校へと向かう。

 

 渚は校門に着くと、正面から歩いてくる真子に気付いた。

 

 真子もこちらに気付いたようで、渚に向かって少しだけ目くばせすると、話す気は無いとばかりに校門を潜った。

 

 「もし私と勝負するって言うなら、本気でやってよね」

 

 昨日の真子の言葉が頭を反芻する。

 

 (私、真子ちゃんと戦うんだ。こんな事、昨日まで考えてもみなかったけど。でも、本気で、やれるだけやってやる)

 

 渚の緊張は、気付けば止んでいた。

 

 そして時間は六限目の終わり、渚と真子の演技対決へと向かう。

 

 用意されたのは体育館の舞台の上。あくまでまだ本番一か月前の段階のため、特に小道具は準備されていないまっさらな状態。それは小細工なしで、本人たちの演技力がもろに結果となって現れるということでもある。

 

 舞台前にぞろぞろと集まっていくクラスメイト達。

 

 渚と真子は、一足先に舞台裏へと到着していた。

 

 二つ並べられたされたパイプ椅子の片方に座り、台本を開く渚。

 

 『聖女転生』

 

 ジャンヌダルクは神を信じ、神から愛され、フランスのために戦っていた。しかし、1430年、ジャンヌは敵軍に捕らえられた。すぐに異端裁判にかけられ、強引な裁判の結果、死刑宣告を受ける事となった。

 

 死刑執行当日、広場に集められた群集の中心で、ジャンヌは戦火の絶えないこの世を憂い、神に「次に生まれ変わるなら、争いの無い世界に行きたい」と願った。

 

 ここまでが今回演技をする、冒頭の展開だ。

 

 コメディ要素や緩い要素がふんだんに取り入れられたこの作品において、開始十五秒の火あぶりのシーンだけは重く作られている。

 

 「ナギ、今さら台本なんて読んでるの?」

 

 隣の椅子に座る真子が、前を一直線に見つめたままそう言った。 

 

 「えっ、あっ、うん。真子ちゃんは読まないの?」

 

 「私、現場には台本を持ち込まない主義なの。セリフなんて一日で覚えられるしね」 

 

 「やっぱり真子ちゃんは凄いんだね」

 

 心からの言葉。だが、真子にはそんな渚の態度が気に障る。

 

 「凄くなんてない。完璧に準備しておくなんて、役者になるなら当たり前。何十年練習しても、一週間前にデビューした子に役を簡単にとられる世界。表舞台に立てるのなんて、一握り中の一握り、指先に残った砂粒程度にしかいないんだから。幼馴染だからって勘違いしないで。ナギ、私は今日、あんたを蹴落とす気で来てるのよ」

 

 十五歳にして普通の役者達よりも長いキャリアを積む真子の当たり前は、今の渚にはまだ想像も付かない世界である。

 

 今目の前にいるのは、幼馴染の真子ではなく、女優 吉永真子。

 

 いつでも強気で、それでいて誰よりも優しかった真子ちゃんではない。本日渚と争う唯一のライバルなのだ。

 

 芸術品の様に綺麗な真子の横顔を見つめて、渚はこう言った。

 

 「私も、真子ちゃんに勝ちたい」

 

 「やれるもんなら、やってみなさい」

 

 二人の感情が盛り上がっていく中、福嶋先生が舞台袖からひょっこりと顔を出した。

 

 「もうこっちは準備できたけど、どっちから行きたい?」

 

 「私から行きます」

 

 立ち上がったのは真子。

 

 颯爽と舞台上へと上がっていく。微塵の緊張も感じさせない凛々しい姿。

 

 真子が定位置に立つと、ゆっくりと舞台の幕が上がっていく。

 

 それに伴って、少しずつ真子の雰囲気も変わっていく。渚も肌で感じる本物の女優の圧倒的なオーラを、食い入る様に見つめた。

 

 一つのスポットライトが、一人の役者を照らしている。

 

 観客は、総勢二十七名のクラスメイト達。

 

 幕が上がった。

 

 一瞬の静寂が流れる。

 

 真子は目を閉じたまま動かない。

 

 演技事故とも思えるこの、演者がただ立っているだけ、という状況が、何故だか観客を 引き付ける。

 

 全員が、真子に釘付けにされている事は明らかだ。

 

 「さすが吉永真子だ。観客を味方に付ける方法をよく分かってやがる」

 

 突然聞こえた声は、渚の真上からだった。

 

 「ぎゃ…」

 

 そこに居たのは、渚の頭に顎を乗せた春彦。驚き、声をあげそうになる渚の口を「静かにしてろ、演技中だろ」と口を塞いだ。

 

 すぐに落ち着いた渚は、手を振りほどいた。

 

 「で、何でオッサンがここに来てんのよ?」

 

 「あ?そりゃ可愛い教え子が演技対決するって言うんだから見に来てやんないとだろ」

 

 「そんな事、思ってないでしょ」

 

 「くくく、まあいいじゃねえか。先に言っとくが、一応先生からは許可貰ってっけど(圭の名前を使って)、圭には言うんじゃねえぞ。あいつこういうの怒るから」

 

 裏で言い合う二人の事など露知らず、真子はゆっくりと動き始めた。

 

 「ほら、始まるぞ。しっかり見てろよ。『ブロッサムの向日葵』吉永真子の演技を」

 

 流れる川のように、真子は両手を空へと伸ばした。

 

 その目は、涙を浮かべながら、どこか遠くを見つめている。

 

 「ああ、神様。私が間違っていたのでしょうか?民のため、この身を捧げた私は、罪人なのでしょうか?私は、聖女では無く、魔女だったのでしょうか?」

 

 儚げな、かすれた声。

 

 フラフラと崩れ落ちる様に跪き、両手を重ね合わせる。

 

 「私にそれを証明する術は、残されていない。ただ、この身を燃やし、捧げる事が、この世界のためだというのならば、それが神の思し召しだというのならば、私はそれを受け入れましょう」

 

 真子は観客に背を向け歩き出した。その一歩一歩は力無く、今にも倒れてしまいそうな程に震えている。

 

 限界状態の中、懸命に死刑台へと歩みを進めるその姿は、知らず知らずに観客たちの涙を誘っていた。

 

 五歩進んだところで、再び観客の方を向いた。

 

 「はぁ……はぁ……熱い。私は、死ぬのですね。願わくば、次にこの世に生まれ落ちる時は、戦乱の終わった平和な世界に生まれたいものです」

 

 そう言うと真子は、祈る様にその場に倒れ込んだ。誰もが彼女の死刑を後悔する様な、そんな見事な散り様であった。

 

 スポットライトが消え、体育館は暗転となった。

 

 観客たちの拍手のみが、この小さな会場を包み込んでいた。

 

 幕が下りた。

 

 真子は、渚を一目見ると、渚達のいる所とは反対側の舞台袖へと掃けて行った。

 

 春彦は、そんな真子に目を見張る。

 

 「いいねえ。掛かって来いよって顔してんな。若い役者ってのはこれだからいいんだよな。なっ!お前も見せてやれ!……っておい!」

 

 渚は、舞台袖の更に袖で、緊張のぶり返しからくる嘔吐を堪えていた。

 

 「お前、そんなに緊張に弱いタイプだったのかよ」

 

 「だって、こんなの久しぶりって言うか……そもそもあんまり経験したことないって言うか……」

 

 春彦は呆れた様子でため息を一つ吐く。

 

 「まあいいや。緊張してるかしてねえかなんて関係ねえ。お前、約束はちゃんと守ったか?」

 

 「一応、うん。台本は昨日は読まずに、さっきちょろっと読んだだけ」

 

 「よし。じゃあ後はお前がその世界に入り込めばいい。それだけだ」

 

 「ん~でもさ~私、よく考えたら火あぶりになった事なんて無いし、あんまりよくイメージできないんだよね」

 

 当然の疑問に、春彦は人差し指を一本立てた。

 

 「いいか。演技論の一つに、メソッド演技ってのがある。要するにこれは、自分の記憶と感情を思い出して、役の感覚とすり合わせて、次第に役そのものになっちまうって演技方法だ。お前は今からジャンヌダルク役をやるんじゃない、ジャンヌダルクそのものになるんだ。お前ならやれる、やってみろ」

 

 「役じゃなく、私自身がジャンヌダルクになる……」

 

 「そうだ。お前ならそれが出来る」

 

 私自身が……。

 

 渚は目を閉じた。

 

 渚の精神は、ゆっくりと深く沈んでいく。

 

 信じてた人達に裏切られ、お前は聖女でないと告げられ、処刑されるジャンヌダルク。

 

 まるであの時……小学生の時、演技に裏切られて憧れを殺された私と一緒。

 

 ははは、こんな小さな事と同じ扱いにしちゃったら、失礼かな。

 

 でも、少しはあの子の感情が分かる気がする。

 

 いや違うか、あの子なんて言っちゃダメだ。

 

 私は、私なんだから。

 

 ああ、そうだこれだ。この感覚だ。ずっと味わいたかったのは。

 

 んっ?何?

 

 扉がある。誰かが私を呼んでる。

 

 そう、あなたも出たいんだね。

 

 泣かないで。

 

 安心して。

 

 一緒に行こう。

 

 私も一人は……恐いから。 

 

 ーーそして、幕は開けていく。ーー

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