エア生姜焼き定食

ひんやりした感覚が頭の上でする。

 

 (ああ、これ冷えピタだ)

 

 渚は目覚めた。

 

 「おっ起きたか?」

 

 目の前にいたのは気絶する前に最後に見た幽霊男。

 

 「ぎゃ…」

 

 再び叫び出しそうな渚の口を、男は咄嗟に塞いだ。

 

 「悪かったって!俺は幽霊じゃねえよ。俺は宇田川 春彦。40歳のイケてるおじさんだって。だからもう叫ぶな!ご近所さんにまた変な噂立てられんだろ!」

 

 渚は男の制止を振り払おうと必死に暴れまわる。

 

 身長163cmの細身の体からは考えられない程の怪力を見せる渚を、男は抑え込むことが出来ない。

 

 「40歳で中学生に向かってイケてるなんて自己紹介する奴は、それはそれでヤバイ人でしょうが!」

 

 「それは俺なりのギャグというか…。とにかく、何でもいいから落ち着け!」

 

 「何でもよくて落ち着けるか!こんな怪しいオッサンと一緒に入れるわけないでしょ!帰る!」

 

 「いや待て待て!俺は変だけど怪しくはないって!それに、このまま帰したらお前の母ちゃんに怒られちまう」

 

 「ママには極上の変態野郎がいたって伝えるから気にしないで!」

 

 「いや、それは盛りすぎ…」

 

 必死に追いすがる男を振り払い、渚はスタジオを出ようと、ドアノブに手を掛けた。

 

 すると、ドアノブは一人でに回り、扉が開いていく。

 

 (ま…まさか…今度こそ、本当に幽霊?)

 

 身構える渚。

 

 少しずつ開いて行く扉。

 

 渚は高まる緊張感の中、静かにつばを飲み込んだ。

 

 「ん?なんでお前いんの?」

 

 顔を出したのは、不思議そうな表情を浮かべる圭であった。

 

 「こっちのセリフなんだけど」

 

 「あの人、一応俺の父さん」

 

 圭は後ろに立つ春彦を指差してそう言った。

 

 「へっ?」

 

 渚が後ろを振り返ると、春彦は恥ずかしそうな笑顔を浮かべながら頭を掻いている。

 

 「でも、名字違うくない?」

 

 「あ~それ、複雑なやつ」

 

 圭は特に気にしている様子も無く淡々としている。

 

 渚は(私もママしかいないし気にしたこと無かったけど、圭の親って見たこと無かったかも。うん、これ以上はやめておこう)と自分を納得させた。

 

 圭は目線を渚に戻すと「で?次はこっちの質問。なんでお前がここにいんの?」と言った。

  

 渚は返答に困った。

  

 演技を学びに来たなんてまだ恥ずかしくて言えるはずも無い。

 

 どうしたものか。

 

 小一時間にも感じられるほどの一瞬の時間で、頭を必死に回転させる渚。

  

 しかし、そんな努力も全くの無駄となった。

 

 「あ~その子、明日の学校で演技対決する羽目になったから勉強しに来たんだってさ」

 

 呑気にそう話す春彦。 

 

 (みなまで言うんじゃねえ!この超絶アホアホ親父が!)

 

 渚は無言で全力の怒りを春彦にぶつけた。

 

 そんな事とは知らず、圭は「ふーん、いいじゃん」と小さく笑うと、渚の肩をポンっと叩きスタジオの奥へと歩いて行く。

 

 最後に見たのがいつかも分からない圭の笑顔は、子供の頃と何ら変わっていなかった。

 

 扉を開け消えていく圭の後ろ姿を、渚は見とれる様に見送った。

 

 「ふーん、いいじゃん。だってよ」

 

 春彦がふざけた顔をしながら渚の視界に入ったり出たりする。

 

 我に返り顔を赤らめる渚を、春彦は高らかに笑った。

 

 「こりゃいい。さっきまで暴れまわってた奴とは思えねえや」

 

 「うるさいうるさい!オッサンは黙っててよ!」

 

 「ははは、冗談だって。まあこれで俺が怪しい変態おじさんじゃないって事は納得してくれるだろ?」

 

 「んーまだ半信半疑ってところかな?」

 

 「充分充分。でっ、やる気は?」

 

 「めちゃくちゃあります」

 

 「完璧。じゃあ時間も無いし、とっとと始めるか。明日の台本は持ってきてるか?」

 

 「あっ一応ここに。明日やるのは最初の15秒だけって言ってたけど」

 

 春彦は、渚から『聖女転生』の台本を受け取ると、ささっと目を通した。「なるほどな」と一言呟くと、部屋の片隅に置かれてある一人用の机と椅子を持ち出し、渚の前へと置いた。

 

 学校にあるぐらいの大きさで、特徴という特徴はなく、仕掛けなども見当たらない何の変哲もない机と椅子だ。

 

 渚は、春彦に指示されるがままに椅子に座った。

 

 「この机の上には何がある?」

 

 改めて見直してみても、机にはこれといったものは無い。何かが上に乗っているということはあり得ないし、春彦が実は何かを手の中に隠し持ってるみたいな引っかけ問題でもなさそうだ。一般的に考えて、この男は何を言ってるんだ?という感想が正解だろう。

 

 だが、春彦の顔は真剣そのもの。そこに何かがあると信じて疑わない確信的な表情。先程までとは打って変わった威圧的なオーラを渚は少し感じながらも、素直に答えた。

 

 「何も」

 

 「ああそうだ」

 

 想像をはるかに下回るあまりに呆気ない返事。

 

 「ふざけてる?」

 

 「いーや。いたって大まじめだ。今からお前は、この机の上で飯を食え」

 

 「食えって言ったって、食器も何にもないんだけど」

 

 「いいか?演技ってのはとどのつまり、役者の身一つで何でも作り出すことが出来る、魔法みたいなもんだ。手から炎が出せるか?空を飛べるか?現実に無い世界に行く事が出来るか?答えはイエス。演技はそれら全てを可能にする。良い役者ってのは舞台の上で、フィルムの中で、いや、その辺の公園ですら観客にそれを見せる事が出来る奴のことを言うんだよ。お前に役を演じる気があるってんなら、これは最初の入口ってところだ」

 

 演技は魔法。自分だけが信じていると思っていた言葉が春彦から飛び出し、渚はこのおっさんは信用できるかも知れないと思った。

 

 小三以来の演技に緊張を感じながらも、渚は大きく息を吸いこんだ。

 

 「分かった。やってみる」

 

 渚は言われるがまま目を閉じ、自分なりの食事を想像した。

 

 ぼんやりと、目の前に食器が並び始める。

 

 いつも使っている水色の茶碗に乗った大盛の白飯。

  

 茶色い木製の汁椀に入った味噌汁。中には豆腐と昆布、それに四枚の油揚げ。

 

 メインは渚の大好物である生姜焼き。くたくたになるまで炒めた玉ねぎと、スーパーで特売で売ってた豚肉のスライス。砂糖を多めに入れて甘くなったタレを絡め、千切りにしたキャベツが添えられている。

 

 三つの料理の合わさった優しい匂いが嗅覚を刺激し、自然に溢れてくるよだれを飲み込みながら渚は箸を手に取った。

 

 一番大きな豚肉を一枚と、玉ねぎ二枚を合わせてご飯に乗せる。

 

 その流れのまま、箸の上で小さな生姜焼き丼を作り一度に口の中へと運ぶ。

 

 豚肉の歯ごたえと、玉ねぎの少し残ったシャキシャキ感、ふんわりとした白米の柔らかさにタレが絡み合う。出来ればこの感覚を少しでも長く味わっていたい。飲み込むことすら惜しまれるこの一口は、完璧なサウンドを奏でるバンドのライブ終わりの様な余韻を残しながら喉の奥へと消えていった。

 

 頬が緩む。

 

 渚は思わず「美味しい」と呟いた。

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