第147話 戦線合流(6)追風

 ――ドガァンッ


 濃密な瘴気が渦巻く上空で、激しい衝突音が響き渡る。

 

 風を纏ったテンマの蹴りと、ヴェノラの鱗に覆われた腕が激突し、衝撃波が周囲の瘴気を一瞬だけ吹き飛ばす。


「はっ…!」

 

 テンマが素早く距離を取り、再び風を纏って突進する。

 

 その動きは、一見すると何ら問題ないように見えた。だが、よく見れば僅かに動きが鈍く、呼吸が乱れ、時折身体が小刻みに震えているのが分かる。

 

 それでも、テンマはヴェノラと互角に戦い続けていた。


「…凄い」

 

 地上で竜人を薙ぎ払いながら、森尾が思わず呟く。


「あぁ…認めたかないけどね。やっぱりあのチビは異常だよ…」

 

 火焚もまた、自分の身体の不調を感じながら、悔しげに上空の戦いを見上げる。

 

 2人とも竜人に掠り傷を負わされ、そこから少量の毒が浸透している。それだけで身体が重く、動きが鈍くなっているのを実感していた。


 だというのに、テンマはあれだけ大量の血を吐き、明らかに深刻なダメージを負っているにも関わらず、まだ戦い続けている。


「…規格外は彼も同じってことか」


 浅霧が僅かに残ったマナで竜人を射抜きながら、上空を見上げる。その表情には、驚愕と得心…そして僅かな安堵が混じっていた。

 

 一方、銀次はただ1人、浅霧達とは違った視点でテンマを見ていた。


 ——治癒のマナの影響か


 その目にあるのは、驚きではなく確信。


 銀次の脳裏に、自然と快の姿が浮かぶ。


 快の能力は、傷を癒すだけではない。その治癒のマナは体内に留まり、自然治癒力を高め続ける。テンマが今も動けているのは、間違いなくそのおかげだ。だが、それも長くは持たないだろう。

 

 状況を正しく把握した銀次の表情が僅かに険しくなる。

 

 治癒のマナにも限界がある。度重なる肉体強化の過程で完全にテンマの肉体と馴染み帰属された治癒のマナの効力…身体能力の上昇や自然治癒力の高さは時間経過で失われることはないだろう。


 だが、細胞と馴染んでいない、帰属されていない治癒のマナはあくまで借り物だ。その効力は、肉体強化の過程で得た根本から底上げされたものとは違い、明確な制限を持つ。


 今のテンマは言わば、治癒のマナというモバイルバッテリーを消費してかろうじて耐えているに過ぎない。


 そして、刻一刻と悪化するテンマの状態を見れば、それが尽きるのも時間の問題だというのが容易に見て取れる。


 ——急げ、テンマ


 銀次は心の中で祈るように呟いた。

 

 しかし、そんな祈りも虚しく…状況は更に悪化していく。


 ――ゴゴゴゴゴ


 突如、上空から響き渡る異様な音。


『!?』


 その場にいた全員が、反射的に空を見上げた。


 その瞬間、ヴェノラの身体が、光を放ちながら膨れ上がっていく。


 骨が軋む音、筋肉が膨張する音、鱗が生成される音…それらが混ざり合い、不協和音となって戦場に響く。


 紫の鱗が全身を覆い尽くし、翼が更に巨大化する。四肢は太く、力強く変貌し、尾は鞭のようにしなやかさを増す。


 そして…頭部が完全に竜のそれへと変わる。鋭い牙が並ぶ顎、妖しく光輝く瞳、額に生える角。


「ギュオオオオオッ!」


 咆哮と共に、変貌が完了する。


 そこには…優に10メートルを超える、圧倒的な巨体があった。先程までの竜化した上鱗騎士など、比較にならない。その存在感は、まさに天災そのもの。空気が震え、大地が揺れ、周囲の瘴気さえもその威圧に押され、渦を巻く。


「……そうだよな。よくよく考えてみれば当然のことだ」


 その巨影を見上げながら、銀次が小さく呟く。


「上鱗騎士ですら完全な竜化が可能だったんだ。なら、その更に上位個体である真鱗騎士がそうでないはずがない……」


 苦笑のような吐息が漏れる。


 竜人化ではなく完全な竜化。上鱗騎士によってその存在を知りながらも、ヴェノラの圧倒的な存在感故か…真鱗騎士がこれほどまでに完全な竜へと変貌できる可能性を、今の今まで全くと言っていいほど考慮していなかった。


 理屈としては当然の帰結。


 だが、目の前に広がるそれは、理屈では片づけられないほど圧倒的だった。


 その巨体が動くだけで、周囲の空気が歪む。翼を一度羽ばたかせるだけで、暴風が吹き荒れ、地上の竜人達さえも吹き飛ばされそうになる。


 そして、濃密な瘴気の中に浮かぶ2つの影。


 片や、肩で息をし、時折身体が揺らぐほどの満身創痍。片や、傷一つなく、更なる力を得て天を睥睨する圧倒的な巨躯。


 その差は、もはや語るまでもなかった。


 だが、それでも小さな影は、巨大な竜の前から退くことはない。


「ははっ…これはまた…随分とデカくなったね…!その大きさじゃ…流石にもう…羽虫とは…呼べないな…」


 テンマが血を吐きながら笑う。だが、その声には明らかな疲労が滲んでいた。


「貴様の粘りには感心するが…これで終わりだ」


 巨大な竜となったヴェノラが、その巨体に似合わぬ速度でテンマへと襲いかかる。


 ――ドガァッ


 テンマが辛うじて回避するが、その動きは先程よりも明らかに鈍い。


「くっ…!」


 反撃の蹴りを放つが、巨体に覆われた分厚い鱗に阻まれ、ダメージを与えられない。


「どうした?その程度か、風鬼よ」


 ヴェノラの嘲笑が響く。


 そして、徐々に…確実に、テンマは押され始めていた。


 ――ドガァンッ


 ——ドガァンッ


 …


 激しい衝突音が連続で響く。


 テンマが必死に回避と反撃を繰り返すが、ヴェノラの攻撃は止まらない。巨体から繰り出される爪、尾、牙…それらが容赦なくテンマを追い詰める。


「クソっ…このままじゃ!」


 地上で火焚が歯噛みする。


「…っ」


 その様子を見ていた森尾が、意を決したように前に踏み出そうとする。


「待て」


 だが、銀次がそれを制止する。


「止めないでください…!」


「お前が逸る気持ちは分かる。だが、やめておけ。それは明確な悪手だ」 


 銀次の声は冷静だが、その目には悔しさが滲んでいる。


 悪手…それは何も森尾にだけ向けられた言葉ではない。銀次とて例外ではないのだ。


 この状況で加勢に向かう。それ自体はテンマ同様、少なからず体内に治癒のマナを備えている銀次も不可能ではないだろう。そして、共に万全な状態ではないとはいえ、きっと2人がかりであれば、ヴェノラを無力化するのもそう難しくはないだろう。


 だが、銀次がそれをしたら最後、能管メンバーは安全地帯の確保ができなくなり、遅からず全滅する事になる。


 その事に遅れて思い至った森尾が、はっとした表情で銀次を見る。


「…すみません。あなたの立場も考えずに…冷静さを欠きました」


 そして、自分の行動が結果的に仲間全員を危険に晒すところだったと理解し、素直に頭を下げる。


「気にするな。お前の気持ちは痛いほど分かる」


 銀次が短く答える。


 だが、森尾は拳を握りしめたまま、悔しげに上空を見上げる。


「……せめて…この瘴気さえなければ…」


 その声には焦燥が滲んでいた。一時的…とはいえ、目の前で仲間が追い詰められているのに、何もできない。ただ見ているしかない。その無力感が、森尾を苛む。


「森尾ちゃん」


 そんな心情を察した浅霧が静かに声をかける。


「悔しいけど、ここは彼の言う通りに…俺達はこのまま現状維持に努めよう。それが今の俺達に出来るせめてもの支援だ」


 その言葉は冷静だが、浅霧自身もまた悔しさを噛み締めているのが分かる。


「…っ」


 森尾が唇を噛み、悔しげに頷く。


 それから一行は、再び目の前の竜人達に集中した。


 銀次が的確に竜人を仕留め、安全地帯を維持する。森尾と火焚が連携して竜人を牽制し、浅霧が残り少ないマナで2人の死角を補うように急所を狙撃する。


 それぞれが自分の役割を果たし、その選択が最善だと信じてただひたすらに現状維持に徹する。


 実際、その奮闘によって戦線は辛うじて保たれていた。だが、それもほんの僅かな均衡に過ぎない。


 上空ではその均衡を嘲るように、戦況が静かに傾き始めていた。


 ――ドガァンッ


 依然として、上空から響き続ける激しい衝突音。


 しかし、その衝突音はヴェノラの猛攻によって次第に間隔を空けていく。


 回避が遅れ、反撃の隙が減り…そして、遂に決定的な瞬間が訪れる。


「…ッ!」


 ――ドゴォォォンッ


 ヴェノラの尾がテンマを捉え、圧倒的な質量と速度で地面へと叩きつける。


 凄まじい衝撃音と共に、土煙が舞い上がる。地面には大きなクレーターが生まれ、その中心にテンマの身体が埋もれていた。


 やがて土煙が晴れていき、鮮明に浮かび上がる満身創痍のテンマの姿。


 全身が血と泥にまみれ、衣服は所々が裂け、至るところから血が滲んでいる。呼吸は浅く、立ち上がろうとする度に身体が震えていた。


「…はは…ま…だ…まだ…」


 多量の血に塗れながらも、息も絶え絶えになりながらも…それでも尚、余裕の笑みをしつらえて即座に体勢を立て直そうとするテンマ。


 だが、片膝をついた姿勢から立ち上がろうとした瞬間、がくりと身体が傾いた。


「…っ」


 辛うじて踏みとどまるが、その身体は誰の目から見ても限界だった。


 元より侵されていた毒に加え、新たな傷口から更に毒が浸透している。皮膚は所々爛れ、紫色に変色した部分さえあり、見ているだけでも痛々しい状態になっていた。


「クハハハハッ!流石はブラックネームに次ぐ特記戦力の一角だ。私の毒に侵されながらもよく粘るものだな…」


 ヴェノラが巨大な翼を羽ばたかせ、ゆっくりと上空から降下する。


 その巨体が地面に降り立つと、大地が揺れた。圧倒的な存在感が、テンマを包み込む。


「だが、レッドネームと言えど、こうなって仕舞えば造作もない」


 ヴェノラの瞳が冷たく光る。


「貴様の戦いぶりは見事だった。その闘志に敬意を表し…せめて苦しまぬよう、一撃で終わらせてやろう」


 その言葉と共に、ヴェノラがゆっくりと爪を持ち上げる。


 紫の鱗に覆われた巨大な爪。それは間違いなく、テンマの身体を粉砕するだけの力を秘めていた。


「…っ」


 テンマは動こうとするが、身体が思うように動かない。毒が全身を蝕み、筋肉が痙攣している。


 そして、ヴェノラの爪が振り下ろされる。


 その軌道は正確に、動けないテンマへと向かっていた。


 ――ガキィンッ


 だが、次の瞬間。


 鋼鉄の壁が、その爪を阻んだ。


「何だと…!」


 突如として現れた障壁に、ヴェノラが僅かに目を細める。


 だが、それだけでは終わらない。


 次の瞬間、鋼鉄の壁が流動し、巨大な鋭利な槍へと変形する。そして、ヴェノラの巨体を貫かんとばかりに迫る。


「ぐっ…!」


 ヴェノラが咄嗟に後方へと跳躍し、強制的に距離を取らされる。


「……はは…おかしいな…僕…まだ助けを呼んだ…覚えはないんだけど?…何なら…今から華麗な…カウンターパンチを…決めるところ…だったんだけど?」


 地面に膝をついたまま、テンマが血混じりの笑みを浮かべる。その視線は、鋼鉄の槍を生成した銀次へと向けられていた。


「それは悪いことをしたな」


 銀次が淡々と返す。


「だが、勘違いするな。俺は迎撃しただけで、先に俺の間合いに入り込んできたのはお前らだ」


「…なら仕方ないね」


 テンマが小さく笑う。


「他の敵は?」


「厄介そうなのは粗方倒した…」


 銀次の答えに呼応するように、浅霧たち能管メンバーが次々と合流する。森尾が前へ出てテンマの前に立ち、火焚がその側面を固める。浅霧は残ったマナを練り、照準を定める。


 誰も言葉を発さない。


 だが、その立ち位置が全てを語っていた。


 ヴェノラがその光景を見下ろし、口の端を吊り上げる。


「クク…ククク…今更、貴様らのような手負いの者達が群れたところで、この絶望的な戦力差を覆せるとでも思ったか?」


 それは、愉しみと侮りが入り混じった冷たい笑みだった。


「だが面白い。どうせ奪う命…ならば、一思いにまとめて始末してくれよう」


 その言葉と共に、ヴェノラの全身が再び瘴気を爆ぜさせる。翼を広げ、牙を剥き出し、上空の瘴気が一気に渦を巻く。


『!!』


 改めて対峙してみれば、その存在感は凄まじいの一言に尽きた。


 巨体が一歩踏み出すだけで、地面が軋む。紫の鱗が妖しく光り、その一つ一つが刃のように鋭利な輝きを放つ。


 竜化した上鱗騎士など、もはや比較にすらならない。目の前にいるのは、正しく災厄そのもの。空気が、大地が、全てがヴェノラの威圧に屈服しているかのようだった。


「…っ」


 森尾が息を呑む。


 火焚の額に冷や汗が流れる。


 浅霧もまた、自身の残存マナの少なさを改めて実感し、表情を強張らせる。


 そして、銀次すらも僅かに眉を寄せる。


 ——この化け物と互角に渡り合っていたのか…


 全員の脳裏に先程までの光景が蘇る。


 満身創痍の身体で、毒に蝕まれながらも、この圧倒的な存在と一歩も引かずに戦い続けたテンマ。


 改めてヴェノラと対峙してみて、その異常性が際立つ。


「…化け物だな、本当に」


 火焚が小さく呟く。その声には、悔しさと共に素直な驚嘆が混じっていた。


 森尾もまた、地面に膝をついたテンマの姿を一瞬だけ見やる。


 あの小さな身体が、この巨大な災厄と渡り合っていた。その事実が、改めて彼の規格外さを物語っていた。


 しかし、そんな彼でさえも、今や満身創痍の状態となっている。いや、彼だけではない。理由は様々であれど、この場にいる全員が消耗し、疲弊し、毒に蝕まれてしまっている。


 その無情な事実に、否が応でも緊張が極限まで高まる。空気が凍りつき、時間が引き伸ばされたように感じられる。


 しかし、その刹那…


「おいおい。一仕事終えて様子を見に来てみれば、これはまた随分と面白い事になってるじゃないか」


 その状況には似つかわしくない新鮮かつ楽しげな声が戦場に響き渡った。


『!?』


 その余裕の滲み出た、聞き覚えのある声に、その場にいた全員の動きが止まる。


 ヴェノラもまた、自らの認識の外にいた存在の声に動きを止めた。


 視線が一斉に声の方向へと向けられる。


 そこには、戦場を見下ろす高層ビルの屋上、瘴気に霞む空を背に、黒装束を纏い、白い鬼面をつけた一人の人物が立っていた。


 片手をポケットに突っ込み、もう片方の手は自然に垂らした、まるで散歩の途中で足を止めたかのような気楽な立ち姿。


「……っ」


 その光景にテンマが僅かに目を見開く。


 銀次もまた、静かに息を呑んだ。


 一方、森尾達能管メンバーは、その人物の正体に気づき、一瞬だけ呼吸を忘れる。


 黒装束に白い鬼面の少年。


 その出で立ちが示すのは、ただ一つ。


 しかし、そうして皆が驚きに暮れる中、その少年は、誰の反応も待たず、一人舞台のように言葉を続ける。


「…それもまた揃いも揃って楽しそうに…仲間外れとは寂しいな」


 そして、ビルの縁から、軽やかに身を躍らせ、重力すら味方につけるように、黒装束の影が音もなく舞い降りる。


 着地と同時に、風が一瞬だけ止まった。次いで、戦場を覆っていた瘴気がざわめき、まるで意思を持つかのようにその少年を避けて揺らぐ。


 そして、白い鬼面がゆっくりと顔を上げ、その口元がわずかに吊り上がったように動く。


「…なぁ、俺も混ぜてくれよ?」






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