タルトの事情

 ジルを購入したのは春先のことだ。

 気候が温暖になり、冬から春へと移行していく過程で生物や人間の活動も活発になる。

 外出する人間が増えて経済活動も盛り上がるわけだが、そうすると春の陽気に浮かれた変態や犯罪者の動きも活発になる。

 市場で堂々と少年、少女を売る奴隷商も格段に増えるのだ。

 商人が国の認可を受けて営業を行っていることも少なくないため、奴隷の売買は必ずしも犯罪ではないが、人身売買を行うことは卑しいことだ、というのが一般的な認識だ。

 タルトは孤児院で酷い扱いを受けていたツイを見捨てられずに引き取ったし、ミラのことも暴力が大好きなロリコンの屑男に買われそうになるのが可哀想で、見捨てられなくて購入した。

 また、ツイの場合は形式上では引き取るという形をとっていたが、決して少なくない額を孤児院に支払っていたため、人身売買と変わらない。

 タルトは二十五年という決して長くはない人生の中で、二人も「救う」という目的により人間を購入している。

 しかし、矛盾するようだがタルトは救済と称して人間を買う行為に疑問を覚えていたし、そうでなくとも、この世には何万人もの可哀想な奴隷というものが存在する。

 とてもじゃないが買いきれない。

 それでも苦しんでいる人間、特に子供を見てしまえば胸が痛み、つい購入してしまうのでタルトは可能な限り春先には外出を避け、市場には立ち寄らないように気を付けていた。

 だが、どんなに避けていても避けきれない時がくる。

 ふと油断した瞬間に、市場で売られているジルが目に入ってしまった。

「当時は痩せていましたが炭鉱で働いていた影響か、どこか逞しかったですし、あの頃からジルは美しい顔をしていました。私は一目で心を奪われて……理屈よりも衝動が先行して、気が付けば私はジルを購入していました」

 初めて身を侵した激しい衝動や燃え盛るような熱はタルトの初恋だった。

 魔力の籠った宝石に魅せられた哀れな人間のように、「欲する」という思考、感情以外が脳から抜け出して、「手に入れること」が最優先事項になってしまった。

 一切の迷いなくジルを購入すると決めた彼女は、数点の家具を購入するのに使う予定だった現金と金額の書かれていない小切手を握り締めて奴隷商の元へ駆けた。

 そして、他の人間に買われることが決まっていたジルを元の三倍の額で無理矢理、購入したのだ。

 タルトは医者という職業のわりに静かな生活を送っていたので財だけはあったのだが、それでもガッツリと目減りした貯蓄を見て、

『ちょっとイキり過ぎましたね……』

 と、内心で冷や汗をかいたのは言うまでもない。

「購入から半年後、ポツリとジルに言われたのです。『先生は俺の恩人です。だから、先生のためなら何でもできます』って。後から知ったのですが、ジルを買おうとしていたのは地獄の労働待遇で知られる屋敷の主だったようですね。私はジルが欲しくて買ってしまっただけなのに、ジルには私が聖人に見えたみたいです」

 私利私欲で人間を購入することほど醜いことは無い。

 本来、タルトはそれを嫌悪していたはずだった。

 そうであるにもかかわらず、タルトは己の欲でジルを購入した。

 その瞬間から、タルトにとって自分自身は酷く醜い存在になった。

 朗らかに笑うジルに感謝を述べられた時には、羞恥と自己嫌悪で随分と心をえぐられたものである。

 自分を恩人として慕ってくれている大切な家族に己の醜さと罪を晒すのが苦しかったのだろう。

 タルトは自身を隠すように両手で顔を覆うと深いため息を吐いた。

「大変おこがましい事を言うと、ミラもツイも救いたくて買ったんです。私が助けたくて引き取ったんだから、家事も調剤もできなくても構わないと思っていましたが、二人ともよく働いてくれたのでビックリしましたよ。ですが、ジルだけは違うんです。欲しかったんです。好きになってしまって、欲しくなってしまったから買ったんです。まるでお気に入りのお洋服を買うようにね。人間は物ではないのに。ですから、貴方たちとは全く前提が違うのですよ」

 初めて他者へと打ち明けた懺悔の言葉は重い。

 俯くタルトに声をかけようと二人は口を開くが、結局、「先生」以外に言葉を出せなかった。

「ジルはね、こんな私のことを愛してくれていますよ。何せ、事情を知りませんから。二人のように『家族』として私を慕ってくれているのです。最初は私のことを睨んだりしていたのに、気が付いたら懐いてくれて、好きだって言われたんです。ふふ、可愛らしいけれど困ったものですね、本当に」

 顔を上げたタルトの桃色の瞳には綺麗な恋の色が浮かぶ。

 ふわふわと温かく揺れる瞳の奥では出会った日から今日までのジルの姿が浮かんでいるのだろう。

「私は絶対にジルの感情を『恋愛感情』だ、なんて誤解しちゃいけないんです。だから私は、ジルと距離をとるのです。間違ってもジルに苦しみを強いぬように。想いを踏みにじらぬように」

 揺らいでいた瞳がキュッと引き締まり、凍りかける。

 己を戒めるため、わざと冷たく厳しい声で宣言すると自らの心臓を縄で締め上げた。

 鼓動を制限された心臓がギチギチと痛む。

 定期的に束縛を強めている心臓はジルが笑うたびに、そしてジルの隣で幸せをかみしめる度にきつく締めあげられて吐血しそうになる。

 その度に心臓を服の上から掴んでいたが、それでも買わなければよかったとは思えなかった。

 そんな自分自身が浅ましく愚かで、タルトは、もう何度目かもわからないため息を吐く。

「ねえ、先生、先生の気持ちはよく分かったんだけれどさ、先生、さっきから何してるの? 私、それだけは分からないわ」

 苦笑いのミラがツイに目配せをすると、彼も似たような表情で頷いた。

 実は話を始めた頃からタルトはひっそりと移動しており、会話中ずっと木箱に頬ずりしていたのだ。

「何をしているか分からない? 貴方たちはジルの何を見ていたのですか。ココに! ジルの生雄っぱいが! 直で! ぶつかっていたでしょうが!! これは実質ジルの雄っぱい! 間接雄っぱい待ったなしです!!」

 ふんふんと鼻息荒く木箱に頬ずりをすると、「ジルー! 大好きですよ、ジルー!」と悶えている。

 切ないムードを返して欲しい。

 正直、人間を購入したことよりも今の姿の方が情けなく恥ずかしいのではなかろうか。

 ツイもミラもすっかり呆れ顔である。

「私、先生の話聞いても先生のこと好きだと思うわよ。尊敬もしてる。でも、これはないわ」

「先生、キモいから止めましょう」

 ツイがタルトの肩を叩くも彼女はブンブンと首を振って拒否をし、ガシッと木箱にしがみついた。

「嫌です!! 軽蔑されついでに言うと、私は大変スケベなのです。しかも気持ち悪いんです! キモいスケベ女なのです。その私がジルを遠ざけることがどれだけ苦痛な事か! ジルに抱き着いて甘えたい欲求を押さえ、お尻と雄っぱいから目を逸らし、唇を奪いたい心を抑え、ジルの下着を欲まみれの手から遠ざけ、ジルの残り湯を浴びたい心を捨て去るために一番風呂を頂いているのです! 今くらい! 今くらい、いいじゃないですか!! 間接的にでも、少しだけでも、ジルを感じたいんですよ!! ジルを摂取させてください!!」

 ちなみに、ジルの部屋には鍵がかかるようになっており、戸締りのために窓のカギも部屋の鍵も閉めろと伝えてあるが、本当はタルトの夜這い防止策だったりする。

 己のキモさとスケベさと性欲に自覚があるタルトは、自分のことを一切信用していない。

 誰よりも己を疑い、万が一を避けるために過剰なほどの努力をしていた。

 タルトは愛弟子二人の正論にギャン! と喚くと今度は木箱にキスをし始める。

 木箱は全体にヤスリが掛けられており、しっかりとした作りをしているため、ささくれた木の破片が肌を刺す心配はないのだが、勢いが激しすぎて歯が描けたり唇が切れたりしないか不安だ。

 圧倒される二人の前でタルトは、

「ジルの雄っぱい! ジルの雄っぱい!!」

 とはしゃぎ続け、ジルが二個目の木箱を持って戻ってくる時まで暴れていた。

 ジルが室内に入った瞬間にスン、と冷静な態度をとり始めたタルトを見て、ツイとミラが何とも言えない微妙な気持ちになったことは言うまでもない。

 弟子二人は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべていた。

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