クーデレさんは、こっそり元奴隷の青年を溺愛している

宙色紅葉(そらいろもみじ) 週2投稿中

朝からデレデレ

 春の道をコツコツと歩く。

 この国で奴隷は合法だ。

 厳しい冬からの解放を喜ぶ浮かれた町の市場で、場違いにも奴隷商人が声を張り上げて汚い客を呼ぶ。

 商品が視界に入った。

 首輪に手錠、足枷。

 ボロ布をまとわされた青年はうつろな目をしている。

 その姿を一目見て、心臓が鳴った。

 心を奪われた。


 町医者、タルトの朝は早い。

 彼女は一応内科医だが、正確には薬学を専門とした医者で薬剤師に近い。

 そのため、日が昇る頃には起床し、テキパキと身だしなみを整えて長い髪を一つに括ると、さっそく机に座って薬学の勉強と研究を始めた。

 早朝の澄んだ空気が寝惚けた脳を叩き起こして、永遠に続く黒い文字列の塊に意識を集中させてくれる。

 研究熱心な彼女は学生だった頃から勉学に励み、様々な時間に医学書と向き合ってきたが、その中でも早朝はタルトにとって最も好ましい時間だった。

 一時間ほど薬学の専門書を読み進め、町も少しずつ起床し始めてきた頃、コンコンと木製の扉が控えめにノックされた。

「失礼します、タルト様。お飲み物をお持ちしました」

 ドアの外からは男性の優しい声が聞こえてくる。

 タルトが「どうぞ」と声を掛けると、片手にお盆を乗せた青年が照れ笑いを浮かべて室内に入って来た。

 あどけない笑顔と男性にしては低い身長の影響で少し幼く見えるが、年齢はタルトと同じ二十五歳だ。

 青年は丁寧に切りそろえられた黒い髪と穏やかに微笑む灰色の瞳を持っており、身に着けている上等な衣服や健康な白い肌も相まって品の良い様子だ。

「おはようございます、タルト様。タルト様は早起きですね。俺なんか三十分前にやっと起きたんですよ。本当はタルト様よりも早くに起きて、朝の準備をお手伝いしたかったんですが。俺、朝弱いんでしょうか」

 青年は薄っすらと傷跡の残る頬を掻いて窓の外を眺めた。

 窓から差し込む光は白く美しい。

 早朝と称するには色味が強いが、朝日と呼んで全く差支えの無い光だ。

 散歩以外の目的で町を歩く者も少なく、各家庭では通勤、通学のために準備を進めている段階だろう。

「町の皆さんも今くらいに起きだしたところのようですから、ジルが寝坊助ということもないでしょう。それよりも、早く飲み物をお渡しなさい」

 タルトが机の空いた箇所を長い指でコツコツと叩くと、ジルが、

「あっ、はい、すみません」

 と、透明な飲料の入ったティーカップを置いた。

 ジルがタルトに出すのはコーヒーか紅茶が基本だ。

 一度、珍しいものが手に入ったと東の大地から来た緑茶を淹れてくれたことがあったが、色のついていないものを渡してきたのは初めてだ。

 これはただのお湯なのか? と首を傾げていると、ジルが悪戯っぽい表情で笑った。

「朝は白湯が美容にも健康にも良いと聞いたので、今日はそれを用意してみました。手抜きじゃありませんよ」

 なるほどとカップの中を覗き込むタルトを楽しそうに眺めると、それからジルはティーカップの隣に可愛らしい柄の紙で包まれた飴玉を置いた。

「ジル、これは?」

 タルトは白い指先で飴玉をつつくと、うんざりとした表情になった。

 毎朝用意される飴玉に対して出された言葉は、正確には問いではなく「またか?」という文句だ。

 だが、機嫌の悪いタルトに対してジルは朗らかに笑っている。

「飴玉ですよ、いつもの。タルト様は甘いものがお好きだから。ちゃんと自分の給料から出したので渡された食糧費で勝手なことをしたわけじゃないですよ。だから、その、この飴玉は俺からのプレゼントみたいなものです。お勉強、頑張ってくださいね」

「ジルの給料なのですから好きに使えばよろしいのに、毎朝ご苦労な事です。ジルに言われずとも勉強しますよ。町の数少ない医者ですから。ですが、まあ、本音を言えば糖分は助かります。脳の栄養補給になりますから」

 ため息交じりに文句を言うタルトは指先でコロコロと飴玉を転がして頬杖をついている。

 ジルに視線を向けないどころか顔の方向さえ正反対を向いており、随分と態度が悪い。

 現在が、特別機嫌が悪いわけではなく日常的にジルに対して冷たいタルトだが、鈍感なのか、あるいは強かなのか、彼は特に気にした様子を見せることもなく、「助かる」という言葉に「良かった」と笑みを溢した。

 さて、朝の飲料と飴玉を手渡したら朝食を作りに台所へと行くのが通常なのだが、その場にとどまっている。

「あの、タルト様、朝食を作り終えてから他の家事やお手伝いをするまで空き時間ができたら、その、タルト様の隣で本を読んでもいいですか?」

 不機嫌で冷たい雰囲気のタルトの側にいてもリラックスして本など読むことはできないだろうに、ジルは期待を込めた瞳で問いかけた。

 照れ笑いを浮かべるジルに、やはりタルトは厳しい。

「駄目です。気が散りますから。仕事さえきちんと行うのであれば、いくら休憩しても構いませんが、私の隣は駄目です」

 毎朝のように提案しては断られている願いなので予想はしていたが、キッパリと断られるとへこんでしまって、ジルはしょぼんと落ち込んだ。

「そう、ですか。そうですよね。すみません……あの」

 お盆を持ったまままごつくジルだが、今度は少し迷った後にチョンチョンとタルトの肩をつついた。

 無視をするタルトに、

「あの、タルト様」

 と声をかければ、彼女は一切ジルの方を振り返らないまま、

「何ですか、ジル。用もないのにつつくなど、無礼ですよ」

 と、不機嫌に返事をする。

 恐る恐る触れた指先を叩き落していくような冷たいタルトの態度にジルは先程から落ち込みっぱなしで、とうとうガックリと肩を落とした。

「昨日はこんな風にしたら俺の方を向いてくれたから、もしかしたら今日も……って思ったんです。でも、朝からご主人様のお顔を見たいなんて、贅沢なお願いで下よね。すみません」

 取り繕って少し明るかった声もズーンと落ち込む。

 小さく出された溜息をタルトは無視した。

「別に贅沢な願いではありませんが、そもそも私の顔など、特別見たいと思うようなものでもないでしょう。ふざけていないで仕事をなさい」

 最後の最後まで言葉を無感情にして冷たくピシリと言い放てば、ようやく諦めたらしいジルが寂しそうに部屋から去って行く。

 だが、ドアが開く音は聞こえた物の閉まる音が一切聞こえない。

 締め忘れたのだろうかと不審がったタルトが後ろを振り向くと、開いたドアの向こうからこちらを見ているジルと目が合った。

 タルトと目が合うと、灰色の瞳が悪戯っぽく歪む。

 ジルは上機嫌に微笑むと今度は嬉しそうに去って行った。

 そして、ドアがパタンとしまったのを確認すると、タルトはずっと無感情だった表情をだらしなく崩し、机に突っ伏して悶絶した。

『ああ! もう! ジル!! なんて可愛らしいんですか!! 最期の最期にあんな悪戯をして! 大体、ジルみたいなかわいい子がご主人様なんてドスケベワードを使っちゃいけないでしょうが! エッッッッッですよ! もう! もう!!』

 タルトにとっての魂とも言える医学書の表紙をバシバシと叩き、真っ赤になった熱い顔面を机上に押し付けてグリグリと頬ずりをする。

 心臓が激しく鳴り散らかして、体内を血液が滝のようなスピードで駆け回る。

 流れる血液が血管を突き破って全身に溢れ、内側から身を溶かすようだった。

 頭にはジルのふわりと笑った長閑で穏やかな笑顔がこびりついて離れない。

 悶えて、悶えて、どうしようもなくなったタルトは落ち着くために白湯を飲んだ。

 大分ぬるくなっている白湯はタルトの喉を伝って静かに胃まで到達する。

 ゆっくりと数口飲み、深いため息を漏らすことで、タルトは少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。

 まあ、まだ呼吸も鼻息も荒く、口の端には涎がついており、髪も暴れた影響で乱れているが。

 おまけに、ジルのことを考えれば少し引き締まったはずの表情がデロデロと歪んで溶けた。

『駄目ですね、朝から見るジルの顔が尊くて、尊くて、つい我を忘れそうになります。特に朝は気が緩んでしまいますから、うっかりデレデレしないように顔を背けていたのに、あんな! あんな! うう、落ち着かねば勉強が手につかないどころか、また過呼吸になって死にかける羽目になります』

 ジルは一年前からタルトの自宅兼診療所で、住み込みで働いているのだが、働き始めた頃から彼女は毎日のように過呼吸になったり、眩暈でふらふらになったりして密かに死にかけている。

 タルトは過呼吸対策としてジルから貰った飴玉を口に放り込んだ。

 彼女の好きなイチゴ味の飴が舌の上で転がされるうちに少しずつ溶けて、優しいようで強い甘みが口の中いっぱいに広がっていく。

 本物のイチゴをイメージして作られた飴玉はほんの少し甘酸っぱくて恋愛の味がした。

 飴玉をゆっくりと味わうタルトは、ほわほわと幸せな表情を浮かべている。

『ジルから貰った飴玉。すなわち、これは実質ジル。ジル、美味しいです』

 至極気持ちの悪い感想だ。

 タルトはニヤけたまま机の引き出しを開けると一冊のファイルを取り出し、そこに飴玉の包装をファイリングする。

 ここにはジルが初めてくれた飴玉の包装を筆頭に、今日まで渡してもらった飴玉の包装が全てコレクションされている。

 他人には紹介しがたいタルトの宝物だ。

『随分と集まりましたね。ああ、これは外出中に貰った飴の包装ですね。捨ててきますよ、と笑顔で包装を回収しようとするジルから守るのに苦労したんですっけ。流石にコレクションしているとは言えませんからね。ああ、これは期間限定の。人気商品ですから、きっと並んでくれたんですね。ああ、愛しい』

 ジルの苦労もうかがえることから、人気菓子店の期間限定商品であるプレミアムイチゴ味の飴玉はタルトのお気に入りだ。

 彼女は何枚もある包装紙の中から、それを見つけ出すと丁寧に取り出し優しくキスをした。

 それから、少し精神の落ち着いたタルトは包装紙をしまい直し、ジルが朝食を完成させるまでの三十分間を勉強に費やした。

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