私は「とまと」 Ⅰ

私は無職です。


自己紹介がてら私の話をすることをご了承くださいませ。


私は、現在無職の、姉の家で居候しているものです。私が居候するに至った経緯をご説明致します。


私はごく平凡な家庭に生まれ、幸運にも愛情いっぱいに育てられ、ほどほどの容姿とほどほどの性格を手に、ほどほどの学歴を重ねてきました。私は順調に人生を積み重ねていたと思います。

家族との関係は良好で、人間関係に悩みながらも友人に恵まれ、いたって普通。そんな中、「普通」に慣れきってしまった私は、「普通」に幸せを感じることができなくなっていました。

友人や家族との関係はさほど悪くはなかったものの、私の中にはいつも、「誰も自分を理解してくれない」という想いがありました。自分を理解することは愚か、相手の理解もできていない私が、傲慢にもそんな想いを抱いていたなんて、お恥ずかしい限りです。


大学を卒業し、新入社員として晴れて社会人となった私は、初めて生まれ育った故郷を離れ、一人暮らしを始めました。

学生の頃の私は、社会人という大人の世界に少なからず憧れと不安を抱いていました。しかし、実際の「社会人」の姿は、私の想像したものと程遠いものでした。アルバイトもさほどしたことのなかった私にとって、「働く」という行為そのものがプレッシャーで、その責任に押しつぶされそうでした。

自分で事をこなさなくては何も始まらない現状に、新人の私は絶望したのを覚えています。私は社会を知りませんでした。その頃の私には、「無知」という言葉がよく似合っていると思います。(とは言っても、今の私もまだまだ無知ではあるのですが…笑)

それまでの私は知らないことがあっても人に尋ねることが苦手でした。それでも日々不自由なく過ごせていたのですから、答えを率先して教えてくれる人が周りにいたのだと思います。気づかぬ間に助けられ、図々しくも感謝さえ忘れていたのです。

しかし、そんな日々も「社会」という大きな世界に出ると、通用しなくなるものなのです。人に尋ねることの知らない私は、混乱しました。

混乱しながらも少しずつ、ですが確実に、私も順調に、「尋ねる」ことにも慣れていきました。

しかし、慣れてはいくものの、ひどく疲弊するようになった私は、助けを必要としていました。

虚しくも私は助けを求めることもできませんでした。求める術を知らなかったのです。これまでぬくぬくと過ごせていた私は、助けを必要とする前に、誰かに助けられていたことを知りませんでした。だから、求め方を知らなかったのです。これには応えました。

もちろん何をするのも初めての職場に頼るものはなく、配属先の田舎には、私の知り得る居心地の良い場所なんてありませんでした。同僚や同期は愚か、これまで関わっていた人との交流はほとんどと言っていいほどありませんでした。

寂しがりやの私にとっては、これはたいそうな痛手です。あの頃の私には「孤独」しかありませんでした。仕事が休みの日にすることはなく、何をやっても面白くありません。愚かにも、平凡な時間に魅力を感じることができませんでした。

「孤独」を飼い慣らすことを知らなかった私は、何を血迷ったか、不要に人と合う日々を送りました。何かを求めて、もしかしたら、どこか居場所を求めていたのかもしれません。「助けて」と言えない代わりに、寂しさを埋めるものを探していたのでしょう。

それでも、どんなに人に会っても、どんなに身体が満たされても、どんなに優しくされても、私の「孤独」はどこにも行ってくれませんでした。「孤独」がいなくなることなんてないのかもしれませんが…


「孤独を飼い慣らす」という言葉は、よく言ったものだと思うのです。どんな人にでも存在する感情。人と会い、話をし、充実した時間を過ごしている人にでも「孤独」を感じることがあると言います。そのどうしようもない感情を人は「飼い慣らす」という言葉を使って簡単そうに感情を完結させるのです。


私にはその「孤独」をどうすることもできなかった。それが私の最大の弱点でした。空虚なものを感じながらも、手に負えず、私はただひたすら癒しを求めました。求めた先は、最も簡単に繋がることの出来る人たちでした。相手の素性も、相手の過去も、相手の思考も、相手の価値観さえも理解しなくていいのです。

ただ、お互いが「寂しい」という感情を抱いていればいいのです。「虚無感を抱いている」その共通点だけがお互いを引きつけ合って意気投合したかのように感じるのです。不思議なもので、その中ではお互いの感情や素性を知ろうとすることはタブーです。知ろうものなら引きつけ合っていたものが簡単に切れてしまうのです。


初めてその世界に足を踏み入れた私は、そんなことなど知らずに、一喜一憂していました。その傷心は、新しい誰かを求めることでしか、「孤独」を埋めることができなかったのです。そうやって感情を麻痺させることで、自分を保っていたのだと思います。

私はこの世界の深く深くまで沈んでいきました。


ある朝自分のベッドで目を覚ましました。


静かな朝でした。


仕事に行こうと準備を始めようとしていました。(この世界に足を踏み入れても、仕事は休まず順調だったと思います。)


最初、私は自分が泣いていることに気が付きませんでした。頬をつたう涙のこそばゆさで頬を掻いた時、手に冷たさを感じました。


「あ、私は泣いている。」


そう思った途端私の感情は爆発しました。私は既に限界を迎えていたのだと思います。声をあげて、子どもが泣くように、絵に描いたような鳴き声でひたすら泣いていました。


過呼吸になり、正気が戻ってきた時、私は自分でも危機感を覚えたのでしょう。上司に電話をしました。何という理由で休みますという言葉を言ったかはもう覚えていません。体調がすぐれないとでも言ったのだと思います。

泣き止むことができませんとは口が裂けても言えませんでしたから。


その日から、私は仕事を休むようになりました。


静かな部屋で一人、ベッドから起きない日々が続きました。ベッドに横たわっていると仕事のことが頭をよぎりました。これまでさほど苦しさは感じていませんでした。それでもなぜか、いつか誰かが言った言葉を思い出し、私のしたことや終わらせることができていないことを思っては自分の不甲斐なさを痛感しました。

何もしていないのに涙はこれでもかと溢れてきました。自分の中にこんなに水分があったのかと思うほど。涙を拭うことも諦めていましたが、頬の涙は自然に乾きました。頬に残った塩分でヒリヒリとするのがわかりました。

実際、そんなことはどうでもよかったのです。

流れ出る鼻水をかむと元々弱かったのもあり、鼻血が出ました。

その時は、鼻血なんてどうでもよかったのです。

過呼吸になってもどうでもよかったのです。

いっそのことこのまま呼吸が止まってしまえとさえ思うほどに、私は壊れてしまっていました。それでも自分では解決策を、自分を救う術を知りませんでした。


ただ覚えた方法は一つでした。

ついこの間見つけた、この怪しげな、でも魅力的で刺激的な世界。

この最も簡単に入っていける世界にはまっていくことでした。

私がどっぷりとこの世界に染まり、抜け出せなくなった頃でした。


私はある人に出会いました。(電話だけで繋がっていた私たちなので、私がその人と直接会うことはこれから先もなさそうに思えてならないのですが、)

その人は他の誰よりも私の心の異常さに警告を出してくれました。「病院いきな。」その一言が私を救いました。これ以上一人でいたら、危なかったかもしれません。

その人の言葉で私は人生で初めて精神科を受診しました。


「精神科」。この響きはこれまでの人生であまり身近ではありませんでした。ましてや自分が通うことになるとは思ってもみませんでした。これでも福祉系の仕事をしていたので、特に負のイメージなどは持っていませんでしたが、別世界の存在だと思っていました。


私は幸運にも一つ目の病院で長くお世話になりました。個人で経営しているような比較的小さな病院だったと思います。

私のこの状態に先生は名前をつけました。

私は自分のことを変だと思っていても、これは私の落ち度であり、弱いからだとしか考えきれませんでした。「私の異常さに先生が病名をつけた」それでどれだけ救われたでしょうか。

私は病気だったのだと少し安堵したのを覚えています。「あなたは病気」と断定されることがこんなにも私にとって必要だったとは思いもしませんでした。


それからは病院に通う日々が始まりました。週に一回先生に自分の異常さを話すのが、一番の安心した時間になりました。

私はこれからいい方向に向かっていくと思っていました。しかしながら、そう簡単にはいかないことを思い出さされました。


私はどっぷり使った世界にいながら、薄い人間関係を築いてきたつもりでした。深追いせず、深追いされず、ただ「来るもの拒まず、去るもの追わず」の精神で日々を過ごしてきたつもりでした。

しかし、この魅力的で刺激的な世界で、不覚にも私は失脚してしまいました。


ある日ある男性に会ってしまったのです。


その時はこんなにも彼に魅了されるとは思ってもいませんでした。私の壊れた心を最も簡単に修復し、最も簡単に壊してしまう人でした。

でも、人は不思議なことに、そんな人にほど執着してしまうのです。


彼はほどほどの容姿とほどほどの性格に、しっかりとした常識を兼ね備えた人でした。陽気で自然とグループの真ん中にいながら、周囲を笑顔にする、そんな人なんだと思います。休みの日に出かけようと誘ってくれる、そんな一面が私にとっては心地よかったのです。


これまで私がこの世界で出会ったのは、ただ欲求を満たすだけの人たちでした。しかし、彼に会って初めて、これが普通なのだと知りました。私にとっては一風変わった彼に、少し惹かれてしまったのでしょう。

私は「この人はいい人なのかも。」と少しだけ影の見え隠れする彼を、横柄ながら気になり始めてしまいました。私は彼をもっと深く探ってみたいと思ってしまったのです。


この関係に相互理解などは必要ないことは重々承知のはずでした。

これは痛恨のミスです。


最初の頃、彼は私に触れることは少なかったと思います。「手を繋ぐ」それくらいのことだけだったと思います。彼と深く関わるようになったのは、毎週のように会い、いろんな場所に行き、楽しい時間を共有した後でした。

彼との時間が、私にとって心安らぐ時間になった頃でした。

いつものようにお出かけをした後、日が沈みかけていたと思います。彼との時間が終わってしまうのに寂しさを覚えた私は、 「帰りたくない。」と言ってしまったのです。彼は拒みませんでした。そのまま私たちは彼の家に着きました。

彼の腕の中で眠りについてしまいました。彼の温もりを知った私は、もう救いようがありません。

彼に忠告されたのを覚えています。

深い関係にはならないと。

承知のはずでした。

しかし、私にはもう手遅れでした。


そんな日々の中、彼から転勤の話を聞かされました。以前から転勤のある職場で働いていることは知っていましたが、私は身勝手にも、会える場所にいて、会える人であると過信していました。

彼の転勤の話は、不安定な私にとって、心の折れてしまう話でした。彼のいない世界に生きる希望がないとさえ思えました。それほどまでに、彼の存在は私にとって大きなものになってしまっていたのだと思います。

元々自傷癖のあった私は、何度も剃刀を手に自分の腕を切り裂きました。彼が止めてくれた時もありましたが、誰の助けもない時の私を、自分では止めることができませんでした。


「寂しさ」だけが共通点であって、間違っても浅い関係のままであって、簡単に繋がる反面、簡単に切れてしまう関係であるだけの私たちでした。そんなことはよく分かっていました。この世界に沈んだ私ですから、痛いほど知っていました。

それなのに、私は彼のことを私の中に入れ込んでしまっていました。

忘れたくない存在として。


遂に彼は遠い地へと去っていきました。

彼が去った後の私は、これまで以上に悲惨だったろうと思います。

彼との思い出に浸りながら、私は部屋で一人、涙を流しました。自分ではどうにもできない事態に対応することができませんでした。腕の傷は癒える前に新しい赤みができ、消えることはありませんでした。

でもどうでもよかったのです、痛みも感じないほどに。


ある夜、私は自分の部屋にあるお酒と服用中の薬を見つめながら、正気の沙汰ではない考えに至りました。

生きる目的がなくなった私がとった行動は、「自殺」でした。

あるだけの薬(おそらく200粒ほどあったと思います。)を白ワインと共に喉に押し込みました。何度も嗚咽しながら、それでもただひたすら薬を口に運びました。半分ほど飲んだでしょうか。吐き気に耐えきれず、泣きながらトイレへと駆け込んだと思います。

その時、自分は死ねないことを悟りました。

こんなにも辛いのにどうして生きていかなければならないのか。

何度も吐き気を覚えながらそんなことを思っていました。

そして、トイレの前にうずくまり、また剃刀を握るのです。

何度も何度も腕に刃を向けました。

どんなに切っても痛くなかったのを覚えています。


持っていたタオルが赤く染まり、また吐き気が襲ってきた時、私はヒリヒリと腕が疼くのを感じました。腕の痛みを感じるようになってようやく私は剃刀を床に置きました。

そして気絶するように、私は眠りにつきました。


朝、私は吐き気で目が覚めました。

何もしたくない

ただ吐き気だけが私を襲いました。

血が滲んだ腕に、少しの痛みを覚えました。


私が助けを呼んだのは、薄情にも彼ではありませんでした。以前会った、私と同じような経験をした人でした。その人は私を好いてくれていたのだと思います。ただただ私に優しかったのです。その人は、2日ほど吐き気に襲われ動けなかった私をそっと支えてくれました。私はその人の優しさに甘えてしまいました。一時だけ。

しかし、彼を忘れることができなかった私は、その人の温もりに友情以上の愛情を感じることができませんでした。どんなに忘れようとしても私の中に居座り続ける彼に、その人は勝てませんでした。いや、私が勝たせなかったのかもしれません。


私が家族に現状を話したのは、そんな時だったと思います。何も頼るものも、依存するものも無くなった時、最後の砦として頼ったのは、やはり家族でした。それまで頑なに隠していたのですが、自分で命を絶とうと思った時、一人で決めてしまったことに罪悪感を覚えたのがきっかけだったと思います。

最初に話したのは姉でした。少しして両親に話しました。家族は私を咎めたりなんてしませんでした。

ただ、私の話を聞いて、

ただ、「辛かったね。」「痛かったね。」と。

それまで私は、自傷行為や仕事を休んでいることが、恥ずべきものだと思って、実際に恥じていました。しかし、家族が私を咎めることなく、ただそれだけの言葉をかけてくれたのです。最初は呆気に取られました。予想外でした。

今になってやっと、認めることも受け止めることもできなかったのは、自分自身なのだと気づきました。

強い私を見ていてほしかった。

私はできると思っていてほしかった。

ただ褒めて、認めてほしかった。

そんな陳腐な理由で、私は家族に相談すらしませんでした。

それでも家族は、そんなことはお見通しのように、ただ私を受け入れるのです。

私は改めて家族の愛に感動しました。


ですが、残念なことに、家族に話しても何も解決しないのは事実です。


私の心は傷ついたままで、

私の体は汚れたままで、

私の腕は傷だらけのままで、

それでも味方がいることは、少なからず私にとっては支えになりえました。


家族や先生の協力のもと、私は仕事を辞め、その地を去る決断をしました。この地で私は、さまざまな人に出会い、想い、考え、これまでにない経験をしたのだと思います。自分にとっての苦しみでありながら、楽しみでもあった土地でした。

他の人にとってはただの土地であっても、私にとっては、刺激的で魅力的な、辛さと温かさを兼ね備えた大切な場所になりました。

いつかまた、自分の足で歩けるようになった時、また訪れようと思いながら、私はその土地を後にしました。


実家に帰った私は、薬を飲まず、安定した日々を送りました。

家というのは、私にとっての居場所でした。

消えることのない場所。

しかし、甘えてしまえる場所。

自分の足で立ってみたいと思う私にとっては、傲慢にも、ここではないと思ってしまいました。


そんな私が選んだ場所は、姉の土地でした。迷惑なことに私は、姉の家に居候するようになりました。

そして、今の私、無職で居候の「とまと」が生まれるのです。


今の私には何もありません。

わがままの言える立場でもなく、身勝手に過ごせる立場でもなく、決定権や選択権もありません。

それでも生きている。

未だ私は、自分の価値を見出せずに、生きる意義がわかりません。

私は未だ無知のままです。

それでも生きている。

何が正解か分からない世界で、一日一日を確実に生きているのです。

生きていく中で見つけたものは、小さな幸せです。

何でもいいのです。

今日は姉の調子が良さそうで、

今日は晴れていて、

今日は好きな音楽を聴いて、

今日は甘いものを食べて、

今日はいつもより長く運転ができて、

その「今日」を少しずつ積み重ねていくのです。

今の私はそうやって生きています。

日々の一日一日が、今の私にとっての素敵な一日で、幸せというのだと思うのです。「幸せと思った時から幸せが始まる」と誰かが言っていたことが、今になって理解できた気がします。「生きる」ということが、今になってようやく実感できた気がします。


これから私の人生には、何が起こりうるのか分かりません。到底想像もできません。

それでも

「私は生きている」

それだけは確かなことなのかもしれませんね。


長々と失礼いたしました。私事でございました。

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