第二章

第一話

花山天皇(1)

 師貞もろさだ親王が叔父である円融えんゆう天皇の皇太子となったのは生後十ヶ月のことだった。これは当時の摂政せっしょうであった藤原伊尹これただが師貞親王の外祖父に当たることから、伊尹が裏で動き師貞親王を皇太子としたのだったが、伊尹は師貞親王が即位する姿を見ること無くこの世を去っていた。

 十七歳で即位した師貞親王には、朝廷内に強力な後ろ盾となるような身内がいないままの即位となった。

 父である冷泉上皇は冷泉院と称し、まつりごとからは遠ざかっており、先帝であり叔父の円融上皇も肩の荷が下りたとばかりに詩歌管絃の遊楽を楽しむようになっていた。


 帝となった師貞親王は花山天皇と呼ばれるようになったが、関白は先代の円融天皇の頃と変わること無く藤原頼忠が引き続き着任した。ただ、朝廷内の実権を握っていったのは、花山天皇の外叔父となる藤原義懐よしちか乳母子めのとごであった藤原惟成これしげだった。義懐は藤原伊尹の五男であり、花山天皇としては唯一血の繋がりのある人物であることから義懐に対してはかなりの信頼をおいていた。その証拠に、花山天皇となったと同時に義懐を蔵人頭に任じ、その翌年には従二位権中納言ごんちゅうなごんへと昇進させていた。

 ただ、これが朝廷内の揉め事の火種となった。政策においては絶対的な権力を持つ関白の頼忠がおり、その頼忠の考えは古いと革新的なことをしようとする義懐と惟成がいる。また皇太子である懐仁親王の外祖父である右大臣の藤原兼家もそこに絡んできており、朝廷内は頼忠派、義懐派、兼家派の三つ巴の状態となっていた。


「晴明よ、あの話は聞いたか」

「あの話と申されますと、どの話でございましょう」


 桂川で編笠を被ったふたりの男が釣り糸を垂らしながら何やら話をしている。

 ひとりは名前が出たように、陰陽寮の天文博士・安倍晴明である。もうひとりは、老人ではあるが背筋はピンと伸びており、いかにも武士もののふらしい佇まいをしていた。


のことよ」

「ああ、五黄土星ごおうどせいでございますな、満仲殿」

「五黄土星?」

「陰陽道では帝の星をそう呼びます」

「なるほど」


 そう言って満仲と呼ばれた老人は笑ってみせた。この老人の正体、それは藤原兼家の家来であり多田源氏の祖である源満仲であった。満仲は晴明よりも八つほど歳上であり、よわい七〇を過ぎていた。


「それで五黄土星がどうかされましたか」

「どうもこうもあるか。あのお方の奇行といったら……」


 時の帝である花山天皇の奇行は問題視されることが多かった。父である冷泉上皇もかなりの奇人だとされていたが、花山天皇はその上をいくような人物だった。


「高御座の話ですか」

「あれを聞いた時、わしは驚いたぞ」


 それは花山天皇が即位する前の出来事であった。紫宸殿には、帝の玉座である高御座たかみくらと呼ばれる倚子いしがある。花山天皇はその高御座の中に、朝廷に仕える美しい女官を連れ込み、性行為を行っていたというのだ。高御座は玉座の周りにとばり(垂れ布)が張られており、中が見えないようになっており、それを利用して花山天皇は女官の身ぐるみを剥がして、行為に及んだというわけだ。


 その噂を聞きつけた晴明は、あのお方ならばやりかねないと思っていた。晴明は花山天皇の父である冷泉上皇に気に入られており、よく冷泉上皇のもとに顔を出していた。そのため、花山天皇のことは幼き頃から知っていたのだ。気難しい冷泉上皇に比べ、花山天皇は陽気な少年だった。しかし、ひとつの物事に対してのこだわりが強い人物だった。特に女性関係に関しては、それが突出していたと言っていいだろう。幼き頃から自分の世話周りをする女官は選り好みしていたし、気に入らないことがあれば女官を裸にして折檻していた。晴明は一度、その折檻の場に立ち会わされたことがあるが、あれほど異様な光景というのは見たことがなかった。着物をすべて脱がされ一糸まとわぬ姿とさせられた女官は、幼き帝に叩かれたり、唾を吐かれたり、時には小便をかけられたりといった折檻を受けていた。その時の帝は興奮で上気した顔をしており、耳まで真っ赤になっていたということを晴明は覚えていた。

 だから、帝が高御座で行為に及んだと聞いても晴明は驚くことはなかった。あのお方ならばやりかねないと思っていたからだ。


「即位式の話は聞いたか、晴明」

「ああ、その話ですか」


 ため息を吐くように晴明はいうと、川面の浮きへと視線を向けた。

 それは花山天皇の即位式の際に起きたちょっとした事件だった。順調に進んだ即位の儀であったが、最後に帝のかんむりを被るという儀式があるのだが、その際に花山天皇は突然大声をあげた。


ちんは、このような重い物は被らぬ!」


 そう叫んだかと思うと、花山天皇は頭に載せられた冠を脱ぎ捨てたのだ。

 これは前代未聞の事態だった。

 儀式に参加していた朝廷の重臣たちは慌て、何とか花山天皇を説得して儀式を終えたという話だった。

 この話を晴明に聞かせたのは、藤原兼家であった。酒の席での話だったので、どこまでが本当であるかはわからなかったが、儀式には右大臣として立ち会っていたことは確かだ。


「兼家様はあのお方に近づけと、わしに」

「それはまた無茶苦茶な話ですな。我らとは孫ほどに歳が離れておりますぞ」

「すでに子である道隆様と道綱様は、帝に近づきつつある。その結果次第では三男の道兼様も、帝の近くに置くつもりのようだ」

「なるほど、兼家様は帝を自分の意のままにしたいというわけですな。しかし、摂政や左大臣が黙っていないでしょうね……。おっと、満仲様の竿が引いておりますぞ」


 晴明の言葉に満仲は我に返り、慌てて竿を持ち上げようとする。水面には、大きな魚影が見え隠れしており、かなりの大物が掛かったのだということがわかった。

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