転章
移り変わる時代
冷たい風が吹いていた。すでに梅の季節になっているというのに、今宵は肌寒さを感じさせる。寒の戻りというやつだ。
雲に覆われた夜空を見上げながら、安倍晴明は吐き出した息が白くなっていくのを見つめていた。
半月ほど前、ひとつ星が落ちた。
その現実を受け止めきれず、晴明は呆然としていた。
星の主は、師であり、友であった。
皮肉なことに晴明に星の詠み方を教えたのは、保憲だった。陰陽道の中でも星を詠む天文道は最も難しいとされ、陰陽寮の中でも天文博士となれる人間は限られている。保憲も晴明も天文博士を務めており、時には帝に星を詠んだ内容を天文密奏と呼ばれる方式で伝えたりもしていた。陰陽寮における両雄と呼ばれていたふたりであったが、その片方が欠けてしまったのだ。
保憲が病に臥せっていることは知っていた。しかし、こうなるとは晴明も思ってはいなかった。
どうやら、保憲は自分の最期を随分前からわかっていたようだ。だから、遺言書を残していた。その遺言書は陰陽寮の長である陰陽頭に預けられており、もしも自分が没したら自分の家族と陰陽寮の幹部たちを呼んで遺言書を開示してほしいと頼んでいた。
保憲の遺言は、加茂家の家督を長男の賀茂
賀茂家に伝わる陰陽道というのは、古くより存在していた陰陽道を保憲の父である賀茂忠行がわかりやすいように変えたものである。この陰陽道を保憲と晴明は忠行より伝授されており、その陰陽道を引き継いだのが保憲であった。
そして、その陰陽道を保憲もまた引き継がせるために、遺言を残したのだ。
保憲の遺言には、陰陽道の暦道を長男である光栄に継がせ、天文道を弟子である安倍晴明に継がせると書かれていた。
この遺言に対して、保憲の妻と光栄は猛反発した。賀茂忠行より続く陰陽道は賀茂家の人間が継ぐべきであり、弟子の安倍晴明が継ぐようなものではない。そう陰陽頭に訴えたが、陰陽頭は遺言は絶対であるとして、保憲の妻と光栄の異議を受け付けなかった。
この時すでに、晴明は天文博士の役に就いており、陰陽寮の中では天文道において晴明よりも秀でている者は誰ひとりとしていなかった。また、天文博士としての晴明は、帝からの信頼も厚く、事あるごとに陰陽寮を代表して帝からの勅命を言い渡されたりもしていた。そういったことから、陰陽頭も晴明の実力を認めざるを得ず、保憲の遺言は守るべきだと保憲の妻や光栄に言い聞かせたのである。
「あの男は、陰陽師の役職を利用して己の出世を企む、悪賢い狐のような男だ」
遺言に納得のいかない保憲の妻は、口汚く晴明のことを罵っていたそうだ。
そんな遺恨もあったが、次第に光栄は態度を軟化させていった。そもそも、光栄に晴明を恨んだりする理由もないのだ。陰陽道において晴明の方が自分よりも兄弟子であったし、歳は二〇近く上だった。それに狭い陰陽寮の中では嫌でも顔を合わせることが多く、口のうまい晴明に乗せられるようにして、光栄はいつの間にか晴明に心を許すようになっていっていた。
しばらくの間は陰陽寮の仕事に追われ、賀茂保憲のことなど思い出す余裕もなかったが、ふと夜空を見上げていると、あの男のことを思い出している自分がいることに晴明は気づいた。
「保憲、私は寂しいぞ」
雲に覆われた夜空を見上げ、白い息を吐き出しながら晴明は呟く。
その年は、星がもうひとつ落ちた。
賀茂保憲の死は陰陽寮に大きな影響を与えたが、もうひとつの星は朝廷に大きな影響を及ぼすものだった。
その星の主。それは関白・太政大臣の藤原
兼通は帝の良き理解者として、朝廷に身も心も捧げてきた男である。ただ、実弟である藤原兼家との仲は悪く、兄弟の仲の悪さを朝廷内にまで持ち込んだことでもよく知られていた。
関白・太政大臣となった際、兼通は兼家の出世を妨げるために、異母弟である為光を筆頭大納言として兼家の出世の妨げをしたり、
そんな兼通の行いに対し、兼家も反発するかのように先の帝であった冷泉上皇に肩入れをして、娘の超子を女御として入内させるなどして対抗していた。
ふたりの仲の悪さの極めつけとなったのが、兼通が病に倒れた時だった。
兼家は兼通の死が近いことを悟り、帝に対して後任の関白を早々に決めるよう
この時ばかりは兼通の鬼の形相に兼家も驚き、反論することも忘れて、内裏から裸足で逃げ出したそうだ。
そして、その数日後に兼通はこの世を去った。
兼通の死後、兼家はしばらくの間は大人しくしていたが、次第に関白・頼忠へと近づき、言葉巧みに歩み寄って頼忠を操ることに成功した。そして、右大臣の座に就くことが許され、廟堂に返り咲くことにも成功した。
さらに兼家は娘の詮子を帝へと入内させ、兼家は朝廷内での力を着実につけていくのだった。
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