陰陽少属(3)

 その日は朝から雨が降っていた。

 晴明は陰陽寮の中で天文学生たちが、別々にあげてきた記録をひとつの書物に書き写すといった作業に没頭していた。


「少属殿、客が来られていますぞ」


 そう使部じぶ(陰陽寮の事務職)に言われ晴明が顔をあげると、陰陽寮の入口に菅笠すげかさみのといった姿の背の低い男が立っていた。見覚えのない男だった。一体、誰だろうか。そう思いながら、晴明は腰を上げると、その男へと近づいていった。


「私が安倍晴明ですが……」

「晴明様、ご報告が」


 その声を聞いて相手が誰だか初めてわかった。式人のまとめ役の男である。式人たちは姿形を自由に変えていた。ある時は庶民、ある時は武士、ある時は物乞いなどと様々な人々に変装するのである。


「行方知れずだった二名ですが、一人は化野あだしので死亡しているのを見つけました」

「なんと……」

「背中に、刃物のものと思われる傷が」

「そうか。相手は何者かわかるか」

「調べておりますが、まだ……」

「人を増やして、相手を探し出せ。あと、行方の知れないもう一名も。お前たちも用心して掛かれ」

「わかりました。それと、例の呪符ですが」

「何かわかったか」

「藤原兼家様の屋敷に出入りしている女が、洛外にある廃寺の辺りをうろついていたという情報があります」

「それは道摩がいるという?」

「はい」

「なるほど。わかった。そちらは、私がケリをつけよう。化野の件を頼む」

「承知しました」


 男は頭を下げると、雨の中を小走りで去っていった。

 行方知れずとなっていた式人の一人が、何者かに殺された。ここ数年、洛中であっても治安が悪化している。貴族たちは屋敷を守るために武士を雇入れたりしているが、その武士たちが力をつけ始めているのだ。その一番いい例が源満仲だろう。満仲は兼家の下で力を蓄え、より強力な武士集団を形成しつつあった。それに、武士たちの中には朝廷の指示に従わない者たちも出てきている。平将門や藤原純友のように大きな反乱を起こすようなことまではしないものの、武士による貴族へのかどわかしや追い剥ぎといった犯罪行為が横行していることは確かだった。


「どうかしたのか、晴明」


 声をかけられ、晴明は我に返った。

 振り返ると、そこには加茂憲保が立っていた。どこか具合が悪いのか、顔色があまり良くない。

 ここのところ、憲保は忙しそうにしている。帝が変わり、色々とあるようだ。


「いや、なんでもない」


 晴明はそう言うと、雨を降らせている鉛色の雲を見上げた。この様子だと、今日一日は降り続きそうだ。


「この雨は、なかなか止みそうに無いな」

「夕暮れには止むだろうよ」


 分厚い雲を見上げながら晴明は言った。ただの勘で言ったわけではない。上空の風の強さと雲の流れの速さを見て、頭の中で雨がいつ頃になれば止むのかを計算して話しているのだ。天気を予想できるのも、陰陽師のひとつの才能であった。


「そうか、止むか」


 意味ありげに憲保は呟くと、建物の中へと戻っていった。

 その背中はどこか寂しげに感じられた。本当は何か話したいことがあったのかもしれない。晴明は憲保の背中を見つめながらそんなことを思っていた。


「少し出掛けてくる」


 夕刻になり、晴明はそう使部に告げると、陰陽寮を出た。

 向かう先は決まっていた。化野である。雨は少し前に上がっている。

 晴明は牛車に乗り込むと、牛飼童に化野へ向かうよう指示をした。

 雨上がりの平安京みやこは、むんとした熱気に包まれており、肌に空気がまとわりつくような気持ち悪さがあった。

 雨がようやく上がったということもあって、多くの人が出歩いている。

 朱雀大路をまっすぐに抜け、羅城門を超えると、そこは外界となる。外界に出ると途端に人気ひとけはなくなり、空を飛ぶからすの姿が目立つようになった。


「ここで良い。二刻ほどしたら戻るから、その時にまたここへ迎えに来てくれ。もし、私がいなかったら、そのまま屋敷に戻ってくれ」


 晴明はそう牛飼童に告げると、ひとり化野に向かって歩きはじめた。

 山の向こうに夕日が沈んで行くに連れて、辺りは闇に包まれていく。時おり、ぼうっと青白い炎のようなものが闇の中に見えたりする。燐火りんか鬼火おにびなどと呼ばれたりするものだ。その炎は雨上がりによく目撃されており、鬼や物怪、あやかしなどが出現する際に現れるものだと伝わっている。しかし、その根拠はあまりに乏しい。その証拠に、晴明も何度か鬼火を目撃してるが、鬼や物怪といったものは見たことがなかった。そして、いまも燐火が遠くの方に見えたが、鬼や物怪が現れるような気配はどこにもなかった。

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