第七話

冷泉天皇(1)

 その日は朝から曇り空だった。

 風がないため、生暖かい空気が渦巻いており、どこか晴明の気分も晴れなかった。


 藤原元方の怨霊を祓う儀式は、陰陽寮によって無事に行われ、内裏内も平穏な日が続いていた。

 いつものように晴明は陰陽寮の書庫に引きこもっており姿を見せてはいなかったが、誰もそのことを気にするような人間はいない。


 昼過ぎ、陰陽寮に使いがやって来た。格好を見る限り、その使いが内裏よりやって来たということはわかっていた。


「陰陽師の安倍晴明殿はどちらに?」


 使いの者が晴明を訪ねてきたということがわかると、陰陽師たちは顔を見合わせ、書庫へ学生がくしょうを走らせた。

 しばらくすると、晴明は姿を現した。どこか悪いのか、顔色があまり良くない。


「私が安倍晴明ですが、なにか御用でしょうか」

「蔵人頭、藤原兼家様からの伝言を持って参りました。すぐに内裏へ上がって来るようにとのことです。それとこちらも」


 そう言って兼家の使いは折りたたまれたふみを晴明に差し出した。

 文を受け取った晴明はその場で開き、目を通す。


「わかりました。すぐに向かいましょう」


 晴明は文を懐にしまうと、出かける支度をはじめた。

 兼家からの文には、帝が直々に晴明と会いたいと言っているということが書かれていた。

 何か嫌な予感をおぼえつつも、これはただ事ではないと直感した晴明は、すぐに内裏へと向かう支度をはじめた。


 元方の怨霊を祓う儀は確かに行われたが、帝に関する噂は絶えることはなかった。

 熱を出して床に伏せた際に突然大声で歌いはじめたといったものや、内裏内を牛車で移動中に牛車から飛び降りたというもの、神泉苑の池で泳いでいたといったものまで、様々な帝の奇行についての噂が飛び交っている。

 ただ、この話はすべて噂話に過ぎず、誰がどこでそれを目にしたといった話は残されてはいなかった。噂話には尾ひれがつく。晴明はそう思っていたが、それと同時に火のないところに煙は立たないとも思っていた。


 そんな帝に対して、朝廷内では「このようなお方が帝であっては朝廷もままならぬ」といった意見が出てきていることも確かだった。そのため、次期帝である皇太子選びが早急な課題となっていた。

 帝はまだ若く、子は無かった。そのため、弟である為平親王と守平親王が皇太子(皇太弟)候補としてあげられたが、そこで対立が起きていた。為平親王を支持する、左大臣のみなもとの高明たかあきらと守平親王を支持する関白の藤原実頼の対立である。

 源高明は自分の娘を為平に入内させており、為平親王が帝となれば高明は帝の外戚となり権力を手にすることができる。しかし、それをよく思わないのが、藤原実頼たち藤原の一族だった。実頼と、その弟である師輔の子、伊尹これただ兼通かねみち、兼家といった兄弟たちは、守平親王を皇太子とすべく裏で手を回し、これに成功し、朝廷内での藤原氏の力を見せつけたのであった。


 晴明が兼家より受け取った文には「共に清涼殿へ」と書かれていた。おそらく、何か裏があるに違いない。そう思いながら、晴明は牛車に揺られ、内裏へと向かった。

 帝より呼び出されたのは、内裏内の清涼殿である。清涼殿は帝が普段より過ごしている殿舎であり、紫宸殿のような公式な行事などで使われるような場所ではなかった。


「これは、どんな風の吹き回しでしょうか」


 清涼殿の一室に兼家と共に通された晴明は、小声で兼家に問いかけた。


「知らん。帝がお前に会ってみたいと言われたのだ。気をつけろよ、晴明。帝は気分屋だ」


 兼家はそう言うと、ちらりと正面にある御簾の方を見た。まだ帝はやって来てはいなかった。

 この時代、殿舎など建物の中は、大きな部屋がひとつあるだけであり、そこを御簾によって何部屋にも区切っていた。そのため、隣の部屋の様子などは、ある程度は見えてしまうのだ。

 しばらくして御簾の向こう側に人影が現れた。兼家が頭を下げたため、晴明も同じように頭を下げた。

 香と思われる良い匂いがした。その匂いだけで、現れた人物が帝であると晴明には察しが付いた。


「そなたが、安倍晴明であるか」

「はい」


 澄んだ声だった。とても噂に聞くような人物の声とは思えないような声だと晴明は思った。


「よい、頭を上げよ。晴明、そなたが元方の怨霊を祓ってくれたそうじゃな」


 その言葉に晴明は、隣りにいる兼家の顔をちらりと見た。兼家の顔は強張っていた。それは帝の機嫌を伺うような顔にも見え、気狂いの人を見るような目ではないように思えた。

 兼家は蔵人頭という役職についていた。蔵人頭はいわば帝の筆頭秘書のようなものである。朝廷内の役職では最も帝に近い存在といってもいいだろう。そんな兼家は帝のことをよくわかっているはずだ。

 なぜ帝は自分をこの場に呼んだのだろうか。そして、なぜ兼家を同席させたのだろうか。様々な疑問が晴明の頭を駆け抜けた。

 まさか……。その気づきに、晴明は思わず声を出しそうになってしまい、慌てて口をつぐんだ。


「よくやった」


 帝が、言葉を続けた。

 御簾越しに見える帝の顔は眉目秀麗びもくしゅうれいであり、男である晴明から見ても美しいと思えるほどの顔立ちをしていた。帝とは、これほどまでに美しい御方なのか。晴明は心の底からそう思った。


「これからも、よろしく頼むぞ、晴明」


 それだけ言うと、帝は部屋の奥へと行ってしまった。

 しばらくの間、晴明はその帝の後ろ姿を見送っていた。歩く姿も帝は美しかった。


 清涼殿を出た晴明は、牛車に乗り込む前に兼家を呼び止めた。


「兼家様、お話が」

「なんじゃ」


 面倒くさそうな表情をしながら兼家が足を止める。


「ここでは何ですから……」

「わかった。わしの牛車に乗れ」


 そう兼家は言うと、晴明を自分の牛車の屋形に乗せた。


「なんじゃ、晴明」

「もうおわかりでしょう。私が何を言いたいのかは」

「そうじゃな。お前の思っている通りだ。帝は狂ってなどおらん」


 帝は気狂いである。そう噂を流しているのは、兼家たちだったのだ。帝を退位させ、次の帝を立てる。それによって、自分たちの意のままに動かせる帝を作り出せる。


「晴明よ、勘違いをするな。これは帝が自ら選ばれた道なのだ」

「と、いいますと」

「あの御方は、帝などにはなりたくはなかったのだよ。しかし、先帝であられる村上天皇が思いのほか早く薨去されてしまった」

「だから、気狂いの振りをされている……ということですか」

「まあ、そんなところじゃ」

「そのようなことが許されるのでしょうか」

「許すも何も、すべては帝が考えた計画じゃ」


 ことの真相を伝えられた晴明は、どっと疲れを感じた。それと同時に、とんでもない秘密を自分は知ってしまったのだと気付かされた。


「まだまだ、お前にはやってもらうことがたくさんある。これからもよろしく頼むぞ、晴明」


 兼家はそう言って笑うと、晴明の肩にぽんと手のひらを置く。その手はひどく冷たいものに感じられた。

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