二振りの剣(2)

 内裏で火災が起きたのは、一年ほど前のことだった。

 夜中に発生した火災は、あっという間に燃え広がり、内裏の建物を次々と飲み込んでいった。

 内裏には帝の寝所しんじょである清涼殿せいりょうでんがあり、帝は眠っていたところを少納言である藤原ふじわらの兼家かねいえに起こされた。慌てた帝は、衣冠をつけて清涼殿を飛び出し、侍臣たちに宝物ほうもつを避難させるように指示をだした。

 火の勢いは凄まじかった。あっという間に内裏の殿舎でんしゃは炎に包まれてしまった。


 この火災は平安京遷都以来、一七〇年目にして初の内裏火災であった。火災は建春門けんしゅんもん方面より始まり、内裏内の殿舎を全焼させるほどの凄まじいもので、多くの神具、宝物、武具、文書などを灰にしてしまったと記録が残されている。

 当時の消火活動というのは、単純に水をかけて火を消すというものであった。下級武官たちが井戸や川から水を汲み上げて、たらいなどで水を運んで消火活動を行う。それ以外には、読経僧による鎮火の修法などが行われたという記録も残されており、特に火災時の消化方法や対策といったものは考えられていなかったようだ。


 その日、宿直であった晴明は陰陽寮の建物から、赤く染まった夜空を見つめていた。


「おい、晴明。なにをぼさっとしておる。すぐに内裏へ向かい、火を消し止めるぞ」


 そう声をかけてきたのは、賀茂保憲であった。

 保憲は晴明のほか陰陽寮の宿直の者たちを集めて内裏へ向かおうと考えているようだった。この時、晴明はまだ天文得業生であり、普段であれば内裏に入ることは許されていなかった。しかし、いまは緊急時である。普段であれば内裏に入ることの許されない晴明が内裏に入ったとしても、誰も咎めることは無いだろう。これはまたとない機会かもしれぬ。そう考えた晴明は保憲の指示に従い、すぐさま陰陽寮を飛び出した。


 風は東から西へと吹いていた。そのため、火元の左衛門陣のある内裏東側から内裏内の殿舎へと次々に燃え広がっていっているようだ。

 大内裏と内裏を繋ぐ門である建礼門けんれいもんから内裏内に入った晴明たちは、その向かいにある承明門しょうめいもんに火の手が迫っているのを確認した。


「晴明、お前たちは宜陽殿ぎようでんの方へ向かえ。私たちは清涼殿へ向かう」

「わかりました」


 晴明は陰陽寮の同僚たちと宜陽殿の方に向かい走り出した。火の手は東側から上がっているため、内裏の東側にある宜陽殿の方からは真っ黒い煙が立ち上っている。


温明殿うんめいでんから宝物を運び出せ」


 誰かが叫んでいる。すでに辺りには煙が充満しており、着物の裾で口元を覆いながら大勢の官人たちが走り回っていた。温明殿は宜陽殿よりも奥にあり、そのあたりはすでに炎に飲み込まれているように思えた。


「晴明殿、温明殿へ向かいましょう」


 そう言ったのは、若い陰陽おんみょう得業生とくごうしょうであった。同じ陰陽寮の得業生であっても、天文得業生である晴明とは学ぶ分野が違っていた。なお、陰陽寮の得業生は陰陽、天文、暦と三種あり二名ずつが選出されており、各博士職や陰陽師職の後任候補とされていた。

 晴明はこの陰陽得業生と共に黒煙の中を走り抜け、温明殿へと向かった。

 この時、晴明たちは気づいていなかった。火元は温明殿に近い左衛門陣であり、すでに温明殿は炎に包まれていたのだった。


「晴明殿、この先が温明殿でよろしいのでしょうか」

「わからん。私も内裏に入ったのは初めてだ」

「きっと、あの殿舎だと思うのですが……」

「燃えておるな」


 晴明と陰陽得業生は目の前で燃え盛る殿舎を見つめて佇んだ。殿舎は完全に炎に包まれており、近くにいると自分たちも焼かれてしまうのではないかと思えるぐらいに熱を感じていた。


「温明殿の中に、宝剣が……」


 燃え盛る殿舎から逃げ出してきた束帯姿の貴族がそう口にする。誰であるかはわからないが、着ている着物が束帯であることからして、上級貴族であることは確かだった。


「晴明殿、どうしましょうか」

「とりあえず、行けるところまで行くしかあるまい」


 晴明はそう言うと、近くに置かれていた盥の水を被った。もはや、水を被った程度では気休めにもならないくらいであったが、被らないよりかは多少マシであろうと思えた。

 無謀であるとわかってはいた。しかし、宝物を救い出さなければならないという気持ちの方が勝っていた。

 燃えていないところを進みながら晴明たちは温明殿の中へと入っていったが、炎の熱と黒い煙が晴明たちの行く手を阻む。


「晴明殿、あれは」

「おお、つるぎ二振ふたふりあるな」

「あれを持って行きましょう」


 そう言って若き陰陽得業生が剣に近づいたところ天井の梁が炎に包まれながら落ちてきた。


「危ない」


 晴明が慌てて陰陽得業生の腕を引く。

 梁は陰陽得業生の目の前に落下し、大きな炎が立ち上った。もしも、晴明が彼の腕を引っ張っていなければ今ごろ梁の下敷きとなっていただろう。

 天井からは火の粉が降り注ぎ、熱風が吹き荒れる。梁が落ちたことにより建物の強度が失われ、殿舎の崩壊がはじまる。

 先ほどまで目の前にあったはずの剣は煙のため、見えなくなってしまっていた。


「あなやっ!」


 陰陽得業生が叫ぶ。

 近くにあった柱が、陰陽得業生の方へ倒れてきたのだ。その柱は陰陽得業生の顔にぶつかり、陰陽得業生は炎の中に倒れ込んでしまった。

 晴明は気を失って倒れた陰陽得業生を炎の中から引っ張り出すと、そのまま抱きかかえる。陰陽得業生は完全に意識を失っており、顔に酷い火傷を負っていた。

 早くここから脱出しなければ、崩落に巻き込まれて死んでしまう。晴明は意識を失ったままの陰陽得業生を背負うと、来た道を戻ろうとした。

 その時、炎の中に光り輝く二振りの剣の姿を見た。剣の刃に輝く北斗七星と南斗六星の模様。しかし、手を伸ばす間もなく、その二振りの剣は炎の中へと姿を消してしまった。晴明はその模様を脳裏にしっかりと刻み込むと、温明殿から脱出した。


 温明殿が崩れ落ちたのは、晴明たちが脱出したのとほぼ同時だった。崩れ落ちた殿舎からは火柱が上がり、漆黒の空を赤く照らす。


「ここは危険じゃ、内裏の外まで逃げよ」


 武官の格好をした官人が叫んでいる。

 晴明は気を失ったままの陰陽得業生を背負ったまま、建礼門まで引き返した。

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