ちびっ子妖怪博士、世にはばかる!

古森真朝

プロローグ



 本当に辛うじて、うっすらと覚えている風景がある。うんと小さい頃のことだ。

 夜中に恐ろしい夢を見て――ただただ背後から足音がついてくるというだけのものだが、その歳の自分にとっては凄まじい悪夢だったんだろう。ボロボロ泣きながら目が覚めて、ひとりでいるのは怖すぎて、すぐ向かいの部屋で寝ている祖母のところに転がり込んだ。

 両親が忙しくて留守がちで、毎日面倒を見てくれていた彼女は、そんな時でもやっぱり優しかった。すぐ目を覚まして布団に入れてくれ、べそをかく孫の言うことをうん、うんと頷きながら最後まで聞いて。暖かな手で頭を撫でてくれながら、教えてくれたものだった。

 『それはいけんかったねぇ。怖い夢を見たらね、正夢にならんように、このおまじないをするとええよ。

《見し夢を 獏の餌食と成すからは――》』





 「心も晴れし、暁の空。祓い給え清め給え……って、唱えたはずだったんだけど」

 懐かしい思い出にならって復唱した拍子に、ぐきゅうううう、と間の抜けた音が響き渡る。おなかへった。

 「……ねえシーナ、伯父さんたちってばケチ過ぎない? いちばん安いやつで我慢してるんだから、黒パンくらい山盛り食べさせてくれても罰当たらないよね?」

 「そそそそそそんなことおっしゃってる場合じゃありませんよエレノアお嬢様ぁ!! 足音っ、聞こえてますか足音ぉ!!」

 「聞こえてるって。そんなにわめかないの、あっちまで怖がっちゃうでしょ」

 「お化けを気づかう余裕なんてありませんんんんん!!!」

 ぎゅううううう、と必死の形相で二の腕にしがみ付いてくる世話役にして友人の姿に、そりゃまあそうだなとひとまず納得して、エレノアは背後を振り返った。

 ――日もとっぷり暮れた、古い屋敷。その二階、普段はほとんど人気のないゲストルームが並んでいる辺りの廊下だ。その空間に、


 ……ぺたぺた、ぺたぺた……


 本当にかすかなものなのに、すぐ耳元でしているような明瞭さで届いているのは、濡れた裸足で床を歩くような音だった。だが廊下には絨毯が敷いてあるし、ここ数日ずっと晴天だったから壁も床も乾いている。しかも現在、エレノアたち以外に人影は見当たらない。

 結論。完全なる怪奇現象である。

 「シーナ、これっていつからするようになったの?」

 「しししし知りませんよう! 私だって二日前に掃除の担当が回って来てから初めて気づいたんです!! 前にしてた人に訊いても知らないっていうし、もうどうしようもなくなったからお嬢様に頼ったんですうっ」

 「うん、それは大変だったと思うよ? 思うんだけど、きみ今年で何歳だっけ」

 「ぴっちぴちの十六です!! 花も恥じらうお年頃です!!」

 「自分で言っちゃうんだ、それ……わたしはそれより五つも若いんだけどなぁ」

 「わかってますよう!! だからお嬢様が一人で行く、っておっしゃったの全力で止めて、私も付いてきたんじゃないですかぁ!! 旦那様たちが言うみたいに気持ち悪いくらい大人びてらっしゃるけど、まだまだお小さいんですから無茶なさらないで下さいっっ」

 「うーん、一部納得いかないところがあるけど、とりあえずお礼言っとくね。ありがと」

 「どういたしましてー!!!」

 自分より小さいエレノアに、半ばすがるような体勢で歩きながら、器用にも囁き声で絶叫しているシーナである。何故なら今は午前零時、邸のみんなが寝静まった後だからだ。毎度ながら、この律義さは大したもんだと思う。日々の仕事も不器用ながら決して手を抜いたりしないし、エレノアが雇う立場だったら、もうちょっと待遇を良くしてあげたいくらいだ。

 (……なんて、年上目線で見ちゃダメだよね。子どもなんだから)

 軽く頭を振って気持ちを切り替える。シーナを引きずって廊下の端に寄り、振り返る寸前くらいの体勢になると、そうっと背後に呼びかけた。

 「――《べとべとさん。お先へお越し》」


 ぺたっ。ぺたぺたぺたぺた……


 その一言を合図に、ずっと背後をついて来ていた足音が加速した。相変わらず姿を見せないまま、ペタペタいう音だけがエレノアたちの前を通り過ぎて、廊下を直進していって――壁の手前でふっ、と消えた。それきり、何の気配もしなくなる。

 「はい、おしまい。これでもう大丈夫」

 「あああああありがとうございますうううう!!! ……て、あの、ベトベトサンて何ですか?」

 「それは企業秘密です。ほら、明日も早いんでしょ? 寝不足でミスったら、また伯母さんにご飯抜きの刑にされるよ?」

 「はっ!? はいっ、お休みなさいませ!! あの、ホントにありがとうございましたーっっ」

 何か聞きたそうにしていたシーナを、半ば無理やり押しやるようにする。わりとすぐそこにある危機を思い出し、飛び上がった世話役の彼女は、極力足音を立てないようにしながら小走りで退散していった。途中で何度も頭を下げている辺り、やっぱり律儀で真面目な良い子だ。

 「……って、やっぱやっちゃうなあ。何かこう、部活の後輩っぽいんだよね、高校とかの」

 相手にならって片手をぱたぱた振り返して、またぞろこぼれた呟きに自分でツッコミを入れる。実はこっそり生まれる前のことを覚えていたりするエレノアは、十一歳の見た目にそぐわない所帯じみたため息をついた。



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