第21話:処罰と後始末

 一橋民部卿と島津薩摩守は、処刑される事も切腹を命じられる事もなかった。

 一橋民部卿は、越前敦賀藩一万石に預けられた。

 藩主の酒井飛騨守忠香は家基付の若年寄なので厳しく見張ってくれると思われた。


 一橋豊千代と寧姫は、出羽松山藩二万五〇〇〇石に預けられた。

 藩主の酒井石見守忠休は、家重家治の二代に渡って若年寄を勤める忠義の士だ。

 危険な一橋豊千代と寧姫を安心して預けられた。


 一橋民部卿の子女は、全員が厳しく処分された。

 次男の力之助、生まれたばかりの三男雅之助も敦賀藩預けとなった。


 一橋民部卿の兄弟姉妹にも影響があった。

 越前福井藩三〇万石の養嗣子となっていた、一橋民部卿の三兄は強制隠居させられ、世継ぎだった松平於義丸は廃嫡とされた。


 福井藩三〇万石は、新たな藩主が決まるまで家老達が治める事になった。

 だが、家老達が思い上がる事がないように、幕府が国目付を送り込んだ。


 普通は小姓組番と書院番から一名ずつ国目付が選ばれるのだが、まだ誰が送られるか分からない。


 筑前福岡藩四七万三〇〇〇余石を継いでいた一橋民部卿の長弟、黒田筑前守治之も隠居させられたが、子供がいなかったので、後継者が見つかるまでは家老達が筑前福岡藩を治める事になった。


 福岡藩にも幕府から国目付が送り込まれる事になった。

 他の兄弟姉妹は死んでいたので、これ以上の処分はなかった。


 島津薩摩守は陸奥仙台藩六二万石に流罪となった。

 側室や愛妾の同行は許されず、子孫を残させない扱いだった。


 次女敬姫と長男虎寿丸も仙台藩に流罪とされ、死刑にはされないが血脈を断つ処分になったのは、家基が殺されていたら家重家治の子孫が絶えていた事に対する意趣返しだった。


 それと、仙台藩伊達家は長年薩摩藩島津家をライバル視していた。

 ほぼ同等の官職を与えられる立場だったので、互いに負けまいと競争していた。


 現仙台藩藩主の伊達重村は、三歳年下の島津重濠が先に官位を上げる度に猟官運動を行い、幕閣や大奥に賄賂を贈り手伝い普請を願い出て、従四位下美作守、陸奥守、左近衛権少将、従四位上左近衛権中将と官職を上げて行った。


 だがその悪影響で、莫大な借金をする事になった。

 領民だけでなく藩士も扶持を返上させられて苦しんでいた。

 その元凶である島津重濠が御預けとなったら、どんな扱いになるか……


 島津重濠と家族の処分が決まったので、泥沼の包囲攻城戦となっている薩摩藩領には、大減封にはなるが御家存続を認める正使が送られた。


「籠城している者達に言って聞かせる。当主島津薩摩守と世子の虎寿丸は捕らえられた。その方達がこれ以上無駄な抵抗をすれば、両人ともに斬首となるだろう。だが素直に降伏すれば、両人ともに一命を許され仙台藩お預かりとなる。その方達も、良く主家のために戦った事を賞して、一命は許される。百姓か郷士としてならこのまま薩摩大隅に残る事が許される。よくよく戦友と相談して答えを出すが良い」


 全ての麓で同じ事が伝えられた。

 ほとんど全ての薩摩藩士が、主君の助命を心の言い訳として降伏を選んだ。


 年貢を納めなければいけないとしても、郷士と認められるのなら今と変わらない藩士がとても多かったからだ。


 一部の藩士が、幕府に一泡吹かせようと、存続を許された島津家一門の元に身を寄せた。


『薩摩国一円』


 出水郡:四万四九七五石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 伊佐郡:五万〇六六四石は、三万四六六四石が幕府の蔵入り地にされた。

 伊佐郡宮之城に八七〇九石を領していた、宮之城島津家一万六〇〇〇石の島津図書久郷は、薩摩藩士を召し抱えて監視する事を条件に、薩摩藩領を整理して伊佐郡から一万六〇〇〇石分の領地を与えられた。

 旧薩摩藩島津家から与えられた領地ではなく、新たに幕府から与えられた領地とするためだった。

 これにより、島津図書は幕府将軍家から恩を受けた事になる。

 これは存続を許された他の島津一族や名門藩士も同じだった。


 薩摩郡:三万七四三一石は、三二二六一石が幕府の蔵入り地にされた。

 平佐の二五七〇石は都城島津家の飛び地と認められた。

 入来五九四五石と百次一二四一石の内、二六〇〇余石を領していた入来家は、薩摩藩士を召し抱えて監視する事を条件に、当主入来院定馨の領地と認められた。


 高城郡:一万三二一一石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 日置郡:四万八五八六石は、三万六九八六石が幕府の蔵入り地にされた。

 日置郡日置に三一七五石を領していた、日置島津家九〇〇〇石の島津久尹は、薩摩藩士を召し抱えて監視する事を条件に、領地を整理して九〇〇〇石を与えられた。

 吉利二〇九九石を領していた小松家の小松帯刀清香は、薩摩藩士を召し抱えて監視する事を条件に二六〇〇石が与えられた。


 鹿児島郡:三万〇六一八石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 谿山郡:一万三八六五石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 揖宿郡:一万五六七一石は全て幕府の蔵入り地にされた。

 今和泉島津家の領地だったが、今年当主が死んで跡継ぎがいなかったので、一万五六七一石全てが幕府の蔵入り地にされたのだ。


 頴娃郡:九九五二石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 給黎郡:九六四六石は四一三八石が幕府の蔵入り地にされた。

 喜入四一八三石を含む五五〇八石を領していた肝付家の肝付弾正兼満は、薩摩藩士を召し抱えて監視する事を条件に、領地を整理して新たに五五〇八石が与えられた。


 阿多郡:一万八六〇四石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 川辺郡:三万〇八六五石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 甑島郡:甑島三五一七石は全て幕府の蔵入り地にされた。


『大隅国一円』


 菱刈郡:一万七二七〇石は全て幕府の蔵入り地にされた。

 加治木島津家一万〇二〇八石は、島津重豪の出身家だったので潰された。


 始羅郡:四万二六三五石は、二万八六三五石が幕府の蔵入り地にされた。

 始羅郡にあった重富島津家一万四〇〇〇石は、旧薩摩藩士を召し抱えて監視する事を条件に、新たに一万四〇〇〇石を当主島津周防忠救に与えられる事になった。


 桑原郡:二万五五四一石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 囎唹郡:七万二二二九石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 肝属郡:六万七四三九石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 大隅郡:二万九七六五石は、二万三〇四二石が幕府の蔵入り地にされた。

 垂水島津家一万七〇〇〇石は、大隅郡垂水に六七二三石を領していたので、当主島津越後貴澄に、旧薩摩藩士を召し抱えて監視する事を条件に、領地を整理して新たに一万七〇〇〇石が与えられた。


 熊毛郡:種子島一万〇〇六七石は全て幕府の蔵入り地にされた。


 馭謨郡:屋久島一三八四石は全て幕府の蔵入り地にされた。


『日向国』


 諸県郡:一五万八五七三石は、一二万四四四九石が幕府の蔵入り地となる。

 都城の都城島津家、島津久倫には旧薩摩藩士を召し抱え監視する事を条件に、領地を整理して新たに三万二一二四石が与えられた。


 もちろん琉球は取り上げられ、幕府が管理する事になった。


 薩摩藩七七万石の内、大名や旗本として残ったのは、大名家が四家合計七万九一二四石、旗本家が四家一万九七〇八石だけだった。


 実に八分の一にまで領地を減らされたのだ。

 関ケ原後の毛利家や上杉家を超える大減封だ。

 幕府が残したら危険だと思った家、利用価値がないと思った家は全て潰された。


 こういう処分に決まったのは、旧薩摩藩士を郷士と認めて領地に残さなければ、叛乱を起こすと思われたからだ。


 領内で叛乱を起こさなかったとしても、島津薩摩守を助けようと、全国各地で叛乱すると家治将軍や幕閣が判断したから、こういう処分になった。


 家治将軍は、普段はとても温厚だが、家基殺されかけた事で徹底的に一橋と島津を潰す気だったが、大名家を潰して巷に牢人が溢れる事も警戒していたのだ。


 由比正雪が起こそうとした慶安の変と、戸次庄左衛門が起こそうとした承応の変以降、幕府は出来るだけ大名家を潰さないようにしていた。


 特に大量の士分卒族を抱える島津家を完全に潰してしまったら、牢人を日本中に散らばらせてしまったら、何時何処で討幕の火の手が上がるか分からない。


 家治将軍が特に恐れていたのは、三国志で孫策伯符が刺客に殺されたような事だ。

 主君の仇を討とうとする薩摩浪人に家基が殺される事を極度に恐れたのだ。

 だからこそ、最初は殺そうとしていた一橋民部卿と島津薩摩守を流罪に止めた。


 家基を狙ったら、何とか助命された主君を殺す事になると旧薩摩藩士に思わせた。

 領地に残る事を許して、幕府の監視が届かない場所に潜り込むのを防いだ。

 薩摩本家を名乗れる血筋を数多く残して、仕えるべき主家が複数ある状態にした。


 分家大名である日向佐土原藩二万七〇〇〇石を全く咎めなかったのも、藩主島津淡路守久柄に旧薩摩藩士を召し抱え監視させるためだ。


 これで島津本家を名乗れる家が五つある事になる。

 それぞれが、血縁関係や家柄を自分に都合良く解釈して、我こそは島津本家二六代当主と名乗るだろうが、それを認めるのは他の誰でもない家治将軍だ。


 家治将軍に従わなければ島津本家を継ぐ事ができない。

 誰にも欲があり、立身出世がしたいのだ。


 彼らに仕える家臣達も、主人が島津本家二六代当主となる事を望んでいる。

 それでなくても元々当主の座を争っていた島津一族だ。


 家臣も多くの派閥に分かれて権力を手に入れようと争っていたのだ。

 彼らが先を争って家治将軍の命令に従い旧薩摩藩士を抑えるのは目に見えていた。

 どうしても抑えきれない藩士は、彼らが内々に始末してくれる。

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