ch.6 Lie

 親というのは一体どういう生き物なのだろうか。

 私はその正常な親というものを知らない。知り得ることができない。父親も母親も内側の私から見て、異常そのものでしかなかったから。

 育児放棄とまでは行かずとも私を全く顧みない父親に、子供なんていないとばかりに夜な夜な若い男を連れ込み姿を消す母親。そしてそれを暗黙の了解とする家そのもの。

 異常さの塊でしかなかった。

 しかし、その異常さの中に私自身も含まれていたのだから、こちらからいうことは何もなかったりする。

 私の特異性。人を惹きつけ無意識に魅了する魔性。時に人間を狂わせ、時に抜け殻のようにしてしまう私の特性をそう言い表したのは、後に私を保護した聖女だった。

 その特異性のせいで私自身も振り回され、周囲から異物として認識されていた。

 だからこそ、私を異物とせずに周囲と同じように接し、狂い壊れないあいつのことが私は好ましかった。


 ♦︎


 あいつと聖騎士様に救助されてから数日後、私を拉致した男たちに預けた伝言は案の定というか、残念ながらきちんと母親に伝わったようで、今度は直接私の母が孤児院を訪ねてきた。

 あいつがいない時に、見計らったかのように。

 今度来た時にはついていくと自分で言った手前、母親と見える覚悟はしていたがそれでもいいしれない不気味な予感は警鐘を鳴らし続けていた。


「こんにちは。オルドレット。久しぶりね」


 会えて嬉しい、と今まで私が散々この女から逃げ回っていたことなどなかったかのように、しゃがんで私と目線を揃えることもなく私の母と呼ぶべき人は妖艶に微笑んで見せた。

 未だかつて、家にいた時でさえ、こんなに面と向かって母と話したことなどあっただろうか。なぜ今更。


「あの人があなたを勝手にここへやってしまったから、随分と心配したし、探したのよ」


 はて、探したとはどういうことだろうか。父は母に私を孤児院に預けることは伝えていたかったばかりか、場所も知らせていなかったらしい。どうして。


「ここに来ることにも随分と反対されたわ。ふふ。夫婦喧嘩なんて初めて」


 まるで恋に浮かれる乙女のような恥じらった顔を見せる母親に、頭の中の警鐘が音を増す。

 あの父と母が言葉を交わすなんて。しかも、私のことで。


「さあ、では行きましょうか。あなたに一緒に来て欲しいところがあるの。そのためにあなたを探していたのだから」


 終始押し黙っている私を尻目に、ぽんぽんと話を進めていく母親。

 下から睨みつけている私とは対照的に、母はずっとコロコロと表情を変えながらも笑顔を絶やさなかった。


 正直に言えば、対峙してすでにこの女が恐ろしかった。この後自分に何が降りかかるなんて想像もしたくなかった。

 けれど、もう決めたことだからと諦めと共に差し出された母親の手を取った。


 母と共に孤児院から馬車に乗り、数時間後には建てられたばかりの新しい教会の前に立っていた。

 周囲は森で囲まれており、建物はこの教会以外には見当たらない。まるでここだけ隔離されているかのようだった。

 馬車からスカートを捌き、しゃなりと音がしそうなほど優雅に降り立って見せた母の後を嫌々ついて行く。

 降りた途端、馬車はどこかへと走り去っていく。

 そして母が教会の扉に手をかけた。

 もしできることならば、私はそれまでにここから逃げるべきだったのだろう。

 後から思えば至極真っ当な正論、選択でもその時には考えもつかず、また諦めの方が勝っていた。


 ♦︎


 開いた扉から入ってきたのは光だった。真昼の太陽光が正面に飾られているステンドグラスを通して差し込んでいた。

 一見普通の新しい教会のように見えた。もちろん教会らしく、すでに並べられた長椅子には信心深い信者たちが所狭しと座っていた。

 警戒していたほどの恐怖心を煽るようなものはなく安心しかけたその時、この場の異常さに気づいた。

 その信者たちは全て若い男だったのである。

 全員が全員、入り口の扉から正面の教壇へと歩いて行く私と母を凝視していた。

 その時に見ていたあいつらの目は言うまでもなく、母が連れ込んでいた男たちと同じ欲に塗れた目をしていた。

 

 向けられる視線がつらくて俯いて、母のドレスの裾だけを見て追いかけた。

 終点となる教壇へとついた母は、男たちに向き直り声高々に、私と同じ人間を狂わせる甘い声で語りかけた。


「この子が私の娘。今日から、私と同じくあなた方のお世話をする子です」


 どうか可愛がってあげて、と艶然と微笑む母を見て、私は両腕を体に巻き付けて震えるのを堪えるので精一杯だった。

 子供でもこの後待ち受けている母が考えていることが、手に取るようにわかって恐ろしくて仕方なかった。

 無意識にスカートのポケットの中に入っていた、いつも通り今朝預けてくれたあいつの部屋の鍵を、意味もなく握りしめていた。


 その後は案の定、散々だった。散々と言う言葉ですら甘い表現だったのかもしれない。私に取っては壮絶で凄惨ですらあった。だけど、正直記憶ははっきり克明であった。

 人間には記憶を薄れさせることで、それを防衛本能として働かせる機能があるという。しかし私にはそれは働かなかった。働かせなかったと言ってもいい。

 その場にいた男たちの挙動、顔。全て具に思いだせる。忘れてなどやるものか。許すものか。

 覚えているのは母に突然、知らない男たちの中に放り込まれ嬲られたこと。服の中に手を入れられ、股を割開かれ、得たくもない感覚を嫌と言うほど植え付けられた。

 怖くて悍ましくて気持ち悪くて死にたくて、誰かに助けて欲しくて、許せなくて、でも母は。

 母は、そんな男に揉まれる私を見ても相変わらず色気を含んだ笑みを向けて、自らも男の波の中に消えていった。

 消えた母の後ろ姿を見ながら、泣く気も失せて、もうどうでも良くなった私はそのままたくさんの手に身を任せてただただ己の行く様を凝視していた。


「さあ、帰りましょう」


 死ぬまで終わらないのかと思われた陵辱は、あの女の声で突然パタリと止んだ。

 その頃にはもう、何も感じないように全ての感覚を閉ざしていた私にはすぐにはそれが終わったのかどうかもわからなかった。

 母親として家ではまずやったことがなかった、私の服を着せると言う行為ののちに、自分の身なりをとっくに整えていた女は再び手を差し出す。

 

「もう、帰る時間でしょう?あなたの友達も戻る頃よ。続きはまた今度にしましょう」


 これが今後も続くのかと言う絶望感はもうなかった。それもそうかと。

 もうどうでもよかった。きっとこの一度で私は壊れてしまったのだ。

 子を助けるべき母は喜んで娘を男に捧げた。理由はわからないが、それがあの女がしたいことなのだろう。私はそれに巻き込まれた。

 巻き込まれたも何も、あの女の娘である以上仕方がなかったようにも思える。逃げようがなかった。実際私が家から出て孤児院にきても逃げられなかったように。

 もう、諦めた。

 

 私は何事もなかったかのように孤児院に返され、あの女は来た時と同様妖艶な所作で帰っていった。

 その後、家の訓練から帰ってきたあいつに私はいつも通り鍵を返し、それこそあの女のように何事もなかったかのように眠りについた。


 ♦︎


「お前、どうした」

「なにが?」


 あの女に連れて行かれたあの日から何度か、またあの場所に連れて行かれた。同じことをされた。

 狙い澄ましたかのようにまた、あいつがいない時に。あの女はあいつのことを知っているのだろう。

 もし、知っているのだとしたら。やはりなんとかしてあの女をあいつから引き離さなければ。会わせてはいけない。あの女があいつがいない時に来るのは私としても都合が良かった。

 あの女からあいつを離すためにも、あいつの邪魔をしないためにも、私はもうあいつの近くにはいないほうがいいのだろう。


 そんなことを考えていたからか、ただでさせあいつに嘘を見破られるのに、観察眼に長けたあいつにはもうお見通しのようだった。

 あいつには私がどう見えたのだろうか。そんなにいつもとかけ離れた挙動はしていなかったはずだけれど。

 それに、私は嘘や演技は得意な方だ。そのおかげで対人警戒が杜撰でもここまで生存できてこられたと言える。

 もちろんバレたことはない、はずなのだが。


「何があった」

「何もないってば」

「嘘だ」


 やはりこいつに私の嘘は見破られる。嘘がダメならばしらばっくれるか、誤魔化すしかない。


「何かあったとしても、言いたくないから言わない」


 ダメだった。貫かれた目に気圧された。もうこうなったこいつ相手には正直に言って突っぱねるしかない。


「言いたくないほどのことがあったのか。俺がいない間にお前の母親に会ったんだな」


 これだから、こいつにはなるべくバレたくなかったんだ。

 鋭い観察眼と正確な推測。

 読まれたくないことでも、言いたくないことでも他の言動から読み取られてしまう。


「……」

「それでどうした。どこに連れて行かれた。そこで母親は何をお前にしたのだろう。もう一度聞く。いったい、何があった」


 なぜそこまで読み切れる。本当に友人ながら空恐ろしい。

 だけれど、流石に私がされたことに関しては情報が少なすぎたらしく、バレることはなかった。それはそうだ。あんなこと。バレたらバレたで私が死にたくなるだけだから、それはそのままでいい。

 こいつは知らないままでいい。


「これ以上は、言いたくない」

「言えない、言わない、ではなく言いたくないと言うんだな」


 やらかした。また情報を与えてしまったらしい。もう何も口をつぐんだ方がいいのかもしれない。

 

「……」

「何かがお前にあったことはわかった。俺にそれが言える状況にないことも。ただ、手遅れになる前に俺に言え。いいな」

「わかった」

「嘘だな」


 淡々と冷たい目に貫かれる。

 でも。だって。あれをこいつにどう言ったら良いんだ。

 それに私はもう諦めたんだ。散々逃げてこいつに助けてもらったくせに諦めた。

 こいつから離れるために諦めた。こいつの邪魔をしないために諦めた。

 あの女と関わらせないために。あの女はこいつに本格的に目をつけたら、間違いなく気に入って手を出すだろう。気にいるも何も、あの女は節操がない。若い男ならば誰だって良いのだ。それが青年前だとしても。

 それだけは。自分が凌辱されたことよりも、それだけは許せなかった。

 あいつがあの女の毒牙にかかることだけは、止めなければならないと思った。

 あの女の注意が私に逸れている間に少しでも。


 取るに足らない意地。今までこいつに守ってもらってばかりだった私の、精一杯の恩返し。とでもいうのだろうか。

 いや、そんな殊勝なものではない。ただ、あの乱れた女から清く正しいこいつを引き離したいだけ。そんな私の唯一の見栄。やるべきこと。


 私が断固として話さないことをようやく悟ると、そいつは息をひとつ吐いて渋々と言った体で私への尋問を解いたのだった。


 ♦︎


 あいつが清廉潔白で品行方正ではあるが、その上で必要ならば多少のことは歪めるという柔軟性も持ち合わせた奴だということはすでに言ったことだ。

 悪ノリもするし喧嘩もする。なんだかんだルールも破る。なんなら私とつるんでいる時点で悪い子だ。完全無欠の優等生、良い子ではない。

 しかしその上で言わせてもらうが、やはりあいつは清廉潔白であった。

 その高尚さはあったばかりの頃から見受けられたものだが、騎士の鍛錬を始めてからそれに拍車がかかったように思える。

 ここで間違ってほしくはないのが、あいつは自己犠牲をしない。しないというよりかは進んでは行わない。

 自分自身にできることの範囲をよくよく理解しているやつだからこそ、自分がいなくなった時の損害をわかっている。けれど、それしかやることがないのならやるのだろう。必要ならば。

 そんなことは絶対にさせないけれど。


 だが、あいつはそんな私を知ってか知らぬか。知らないだろうが。

 聖人のような振る舞いを続けていた。困っている人がいれば助けるのは当たり前ですらなく、私から見れば作業的に。

 これは私が後からあいつ自身から聞いた話だが、孤児院近くで怪異に襲われた人がいたらしい。近くで対応できる教会の騎士がいなかったのか、遅かったのかは知らない。

 けれど誰よりも早くその怪異を退け、取り憑かれた人を助けたのはあいつだった。しかも単独で。

 まだ正式に騎士にも騎士見習いにもなっていない、ただの子供のはずのあいつが。

 孤児院に帰ってきたあいつは無傷だった。怪異は以前のレーシーよりランクが高い中位のものだったらしいが、その退治を難なくやってのけた。

 しかも、困窮者がわかってからの対応が早すぎた。即断即決もいいところだ。ここまでくると条件反射とも言える。

 私にはそのすぐさま助けに行く姿勢とその実行力が不思議でならなかった。怪異のことだけではない。普段の生活で困ったことがあれば、あいつはすぐに解決の助けに向かった。

 だから直接あいつ自身に聞いたことがある。なぜそこまで他人に尽くせるのかと。

 あいつの答えはこうだ。


「俺には中身がない。自身の軸がない。どうやらそれは生まれつきらしいが、他人が持っているような感受性や精神性が乏しいんだ。そしてそれを俺ははっきりと自覚している。これが問題であることはわかっている。人の社会に溶け込むためにはこの状態では困難だ。だから、社会に受容されやすいよう好ましいとされる善人を模倣しているにすぎない。そもそもで言えば、俺には達成すべき目標もなりたい理想も何もない。だから、自身の中身を他人に依存することで、他人を助けることを自身の軸とした。そうすることで俺は自身を保っている。そうでもしないといけないくらい、俺には何もない」


 どうやらこいつは、自身の中身の無さを自覚しすぎるあまりに人間に擬態するような形で自軸を保っているらしかった。

 聖人のような言動も行動と結果は伴っていても本質は見せかけであり、付随する感情や心情は何もないのだと。

 それは偽善ですらなく、あまりにも人間離れしていた。

 これでは、あいつの異端性を隠すために聖人を演じ人間を隠れ蓑にして皮を保っているようなものだ。

 私の友人の中身は、私が考えるよりも空虚だった。

 だとしても、その空虚さを埋めるために擬態先として善人を選択し、それを実行せしめている時点でそいつにも何かしらの指針はあるかとは思うが、それすら生存のための擬態なのだろう。

 そう思うとこの友人の方が特異で、特殊で怪異じみていた。

 何にでもなれて、何でもできる友人の中身は、そいつに言わせれば何もなかったのだ。

 だとしても、あいつが私の友人であることには変わりはないし、むしろその人間離れした精神構造が私には好ましく映った。

 そして納得もした。

 この友人の精神構造が根本から他と違うものであるがために、私といてもこいつは壊れずに平常のまま、こいつ自身のままでいられるのだと。

 友人の謎の中身の頑強さというか脆弱性のおかげで、私はこいつの隣に居続けることができていた。

 それはむしろ私にとってはありがたいことであるし、このままで居続けたいという欲も思い起こさせた。

 けれど、そんなあいつが。

 中身がないと言いながらも他人に寄り添うことを決めたあいつが騎士になるというのなら、それを邪魔はしたくはない。

 唯一の友人の、恩人の、意に反すること、妨げになることはしたくはなかった。

 あいつの人を助けるという行為が万人に及ぶ範囲であるのなら、その中の一人にすぎない私がそれを阻んでいいものではないだろう。

 あの星見の夜のように、全てに対して善性と公平を貫くあいつが私だけに何かを思うようではないけない。

 その行為自身があいつの邪魔になる。

 今の私の現状をあいつに洗いざらい話してしまえば、助けてと一言でも口にしてしまえば、あの友人は必ず助けてくれるだろう。

 その確信がある。絶対の自信と言ってもいい。

 しかしそれではダメなのだ。

 それは私の本望ではない。

 高潔で高尚を貫こうとするあいつに、そんな私という無駄なものはいらない。今すぐにでも排除しなければならない。

 もし、本当にこのままでいられたらなんて、何度も考えた。この先あいつとどうなりたいかなんて幾度も想像をめぐらした。

 けれど、だからこそ、やはり。

 私はあいつと離れるべきなのだ。

 私がいることであいつが歪むことを、その可能性が少しでもあり得ることを私は許せない。


 ♦︎


 あいつの孤児院から通いの騎士の訓練はまだしばらく続くようで、どうやらあの女についていくと決めた私の方がここを早く出ることになりそうだった。

 出ていく日はあいつが居ない日にすると決めていた。あいつは何も知らないままで良かったし、別れを告げるつもりもなかった。

 ある日、突然、呆気なく、あいつの前から姿を消したくなったのだ。

 友人との別れにしては無作法とはわかってはいるが、この別れ方を思いついてそれを少し楽しみにしてしまったのだからもう止めようがない。

 しかし、まだあいつと別れる前にやることがある。否、あいつにやってもらうことがある。


「ねぇ、ピアス。片方私にくれない?」


 こいつは孤児院に来た時から両耳に教会のモチーフをあしらったピアスをつけていた。近衞騎士の家系の子が安物をつけているわけなはずがないから、きっと高価できちんとしたものなのだろう。

 私はそれを片方ねだったわけだが、そんな突然の要求にもそいつは表情を変えず、ただ首を少し傾げた。


「これか?なぜ」

「お前はもうすぐいなくなるでしょう。そうしたらしばらくは会えなくなる。だから、選別というか、まあ、そんな感じ」


 厳密に言えば先にいなくなるのは私だし、もう二度と会えなくなる可能性の方が高くなる。だから、あいつから私への選別という意味の方が正しい。

 

「構わないが、お前にはピアス穴はないだろう。持っているだけでどうする気だ」


 家からのものをよこせという、結構無茶な要求にも予想通りすんなり答えてくれる友人。

 どうする気も何も、もらうものがピアスなのだからやることは決まっている。


「当然、私もつけるのよ。だから、お前がピアスの穴を私に開けて」


 そう言ってあらかじめ用意していた針と応急手当ての箱を差し出す。

 流石にこれにはこいつも何か思うところがあったのか、しばらくじっと差し出されたものを見つめていた。

 が、顔を上げた時には変わらずあの貫くような目だった。


「本来は医者に頼むべきだ」

「お前にやって欲しい」

「どうしてもか」

「どうしても」

「なぜ」

「お前じゃないと嫌」


 答えにもなっていない私の回答に、だろうな、とこれ以上の問答は無駄だとばかりにあっさりとそいつは引き下がった。

 こいつもこいつで私の強情さを、中身をよく見ているのかも知れなかった。

 長い間一緒にいたのだから当然か。

 それを嬉しくも感じ、それとは別にこいつにここまで目をかけてもらっている罪悪感とまた別のぞわりとした感覚を覚える。


「なら来い。やってやる」


 こいつに引っ付くのは初めてのことではないし、なんならいつも背中合わせで本を読んでいたりなんだかんだくっついてはいるが、平常時とは違う緊張感でもってそいつに近づく。

 慎重にゆっくりとあっちからも近づく顔に、勝手に心拍数が上がる。

 それが体に針を刺すことによる恐怖からということでないことは、もうとっくにわかっていた。


「少し耐えろ」


 その言葉と共に瞬間、ぷつりと右耳に痛みが走る。が、我慢できないほどでもないし、それよりも近いあいつの呼吸と耳に触れられていることでそれどころではない。

 顔が赤くならないように気をつけることで精一杯だった。

 そんな私を後目にさっさと針を抜き処置も終えたそいつは、自身の右耳からピアスを外しそれを私に握らせた。


「これでいいか」

「……うん。ありがとう」

「オルドレット、もう一度聞く」


 先ほどの距離と変わらない近さで、至近距離であの目に射抜かれる。


「俺がお前にできることは無いか」

「無いよ。何も」


 こいつはわかっているのだろう。私に何かが起こっていることを。それがこの先に降りかかり続けることを。

 けれどそれをいうつもりは毛頭ないし、いくらこいつに嘘を見抜かれると言っても、こいつが私にできることがないという言葉は本心だった。

 だって、こいつに本当にして欲しいことなんて何もない。

 何もこいつに望んでない。

 助けて、だなんて思ってない。


「そうか」


 こいつが納得しかねているのは流石にわかったが、私が嘘をついていないこともそいつはわかっているためにこれ以上はもう何も言ってはこなかった。

 

 ♦︎


「じゃあ、俺は行ってくるから。鍵はお前に預ける」

「ありがとう」


 あのさ、と話をもう少し長引かせる。出発時間だけど、今日でこいつに会えるのも最後なのだからこれくらい許して欲しい。


「騎士になるのなら、いっそ聖騎士になって。どこからでもお前の名が響くように。私がどこにいてもお前を見つけられるように」


 これから会えなくなるのだからと。普通ならば大それすぎた望み、ありえない欲だと切って捨てるだろう。

 だけどあいつは。私の唯一の友人は。

 聖人のような人の姿をした化け物は。


「わかった。お前がそう望むのなら」


 そうなんでもないことのように言ってのけた。

 あいつらしくて嬉しくて、そして自分が今しでかしたことを感じて苦笑いじみたなんだかわからない笑みが溢れる。

 いつものように鍵を私に預け、一度家に戻る友人の背中を見送る。

 その姿が小さくなり見えなくなったところで、預かった鍵を持ってそいつの部屋に滑り込み机の上にそれを返した。

 今日はこれからあの女が来る。

 私はこの孤児院から、出ていく。

 この部屋に来るのも最後だからと、あいつのベッドに寝転がる。

 最初にこの部屋に来て以降は、気恥ずかしくなってしまいこの部屋で隠れている時は床に座って待っていたが今日くらいはもういいだろう。

 ごろごろと友人のベッドで好き勝手にくつろぐ。

 あいつの香りにクラクラする。あいつがここを使うことを想像して顔が赤くなりそうになる。

 しばらくそんな悶絶を堪能した後に、ゆっくりと起き上がり振り返りもせず友人の部屋を後にした。

 もう、時間だ。


「こんにちは。オルドレット。とても良い天気ね」


 にっこりというよりにったり、という表現の方が相応しいのではないかと思うような艶のある笑みを浮かべる女の前に立つ。

 これから私はこいつと同じ末路を辿るのだ。逃げられない。助けも呼べない。

 もう逃げようとも思わない。助けも呼ばない。とっくに諦めて見切りもつけた。

 これが私が望んだことだ。

 これで私はあいつから離れられる。

 あの女があいつに手をかける前に距離を取ることができる。

 あいつの邪魔をしないで済む。

 あいつを私で歪めなくて済む。


「さあ、行きましょうか」


 差し出された手は武人を目指すあいつとは似ても似つかない。女性らしく柔らかで白魚のような手を取る。

 

 孤児院の門を出る時に、ちゃりと右耳につけたあいつのピアスが揺れた。

 思わずそれに触れる。

 諦めて、見切りもつけて、吹っ切れたというのに我ながら未練がましい。

 あいつにピアスを開けさせたことも、聖騎士になれと言ったことも、突然何も言わずに姿をくらますことも、どれもこれもあいつに私自身を忘れさせないため。

 忘却することなどありえない、あいつの中でも一際私の存在を刻んでおくため。

 自身であいつを歪めたくないと言っておきながら、なんという矛盾だろう。

 自分で自分が気持ち悪い。母親とその周囲の男たちのようなその執着に吐き気がする。

 でも、どうか許して。誰に許しを乞うてるのかもわからないけれど許して。

 これで最後だから。もう二度と会わないから。

 どうかそのままに、高潔で、高尚で、清廉で、潔白で。

 その身を誰にも消費されることなく、私の知らないどこかで安らかに死んでくれ。

 けれど、星見の日のあいつの顔を私は忘れることはないだろう。

 あの時見せてくれた表情とこのピアスで十分。

 私は大丈夫。あいつがいなくても、私だけで大丈夫。


 誓って、私はあいつに恋なんてしていない。

 私の嘘はあいつには尽くバレてしまったけど、本来私は嘘も演技も上手いのだから。

 この嘘はあいつにだって、誰にだってバレることはないだろう。


 こうして私は、成りもしない恋慕に振られたのだった。

 

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