ch.5 Cat

 自分の身の振り方の癖というのは、なかなかどうして自身では意識しづらくまた直しにくいものである。


「お前は何か予期しないことが起こると、必ず瞬間的に頭の中が全て飛ぶだろう。それをまず自覚しろ。直せとは言わん。というか無理だろう。その代わり、自分は何かあると思考が止まるということを念頭に入れて、飛んだ時でも自然と体が防衛反応を起こせるようになるまで叩き込め」

「お前は私を軍人か何かだと思ってる?」


 あの星見の日から、アイズは私に外からの害意への対処を教え込もうとしている。

 対人ではどこを念入りに観察箇所として見ればいいかに始まり、いざとなった時の所持品での防衛方法、逃げ道の確保の重要性など、とにかくこんこんと説かれた。

 しかし、なぜあいつがそんなことを教えられるほど知っているのだろう。騎士の家系の教育なのか、あいつ自身の極めて鋭い観察眼といった素養からきているのか。

 まあ、あんな場所で、あんな理由で。私のことを気にかけて教えてもらうからには、全て身につけるつもりではあるが。

 それにしたって無茶を言う。


「人と対峙する時は必ず退路を確保しろ。それができないなら、そもそも対峙するな」

「殺人鬼とやり合わせる気?」


 必要なことだとも、言っていることも正しいとわかる。わかるのだけれど、11歳がやるにしてはハードルが高すぎないか。

 

「人の観察と警戒を怠るな。それぞれの人間の言動の特徴を掴んで、いざとなったらそれを利用して言論を誘導しつつ退避しろ。そうならないために、まず警戒線を何重にも張って置くことも必要だが」

「すぐにできたら苦はないだろう。というか、お前はできるのか」

「できる。多少だがな」


 あーそう。

 こればかりは流石というか、こいつならそれはそうか、と聞いたこちらが馬鹿らしくなった。


「だから、お前にもできてもらわなければ困る」

「何でお前が困るんだ」

「言っただろう。いつまでもお前から目を離さずにいる、というのは難しい」


 俺はいなくなるから。

 そう言われるとこちらが黙ってしまう。優しいのだと思う。根本的に。こいつは善人だ。それが他人に拠った偽善をよしとしていたとしても。

 こいつの行動が全て私のためだなんてそんなこと、最初からわかってる。


 ♦︎


「オルドレット。なぜ逃げる。しかもそれで、逃げてるつもりか?」

「逃げてない。だいたいなんでお前から逃げないといけないんだ」


 あの星見の日から変わったことといえば、あいつが私に対人警戒の仕方を教えるようになったこととと、私があいつから逃げ回るようになったことだった。

 嘘だな、と軽くいなされそのまま担当の掃除場所に引き摺られていく。

 前から少し思っていたけれど、こいつには私の嘘は効かないらしい。悪戯の言い訳にこいつに嘘をつくことはままあったが、それらは全て看破された。他の人に嘘がバレたことはないのに、なぜ。

 話を戻して。

 私があいつから逃げ回るのにはちゃんとした理由がある。ちゃんとしてもしなくても、逃げ回りたいことには変わりはないのだけれど。

 決して、あいつからの講義に嫌気がさしたとかそんな理由ではない。もっと内的なもの。私だけの、絶対にあいつには知り得ない理由がある。

 

 あの星見の日。あいつの言葉を、顔を、見て聞いてしまって。それから私はおかしくなった。

 あいつの顔を見ると目を逸らしたくなって、こっちにくるとわかるとくるりと方向転換して逃げたくなるし、捕まると前よりもびくりと反応してしまう。別にあいつに怒るようなことは何もされていないのに、無性に何かあいつに投げつけたくなる。

 分かれよこのやろう、と。

 いや、わからなくていい。一生。私だってわからないしわかりたくない。

 だって、どうしたって過ってしまう。あの母を取り巻いていた男たちの様子が。欲目を隠さず陶酔したかのように母に侍り、愛を囁くあの無様な姿。

 あいつがあれと同じなんて間違っても思わない。けれど重ねて見てしまうことにはどうしようもない。もしかしたらと思ってしまうし、そう思う自分がもう嫌いだ。

 しかしここまでは自意識過剰で片付けられる。それはそれでいいだろう。私があいつに関して考えすぎただけのことだ。

 もっと問題なのは私自身だ。

 あいつに母や、あの男たちのような感情を自身が向けることを許すわけにはいかなかった。そんな悍ましいことを、浅ましい感情を、清廉なあいつに向けたくなんてなかった。

 だから、この感情は私は知らない。認めない。

 そう、嘘をついた。

 きっとこの嘘は、あいつにだって絶対バレない。


 そんなことを考えていたら、いつしかあいつの名前を呼べなくなった。

 アイズ。

 そう呼んでしまったときに、その名前に乗ってしまう自分の感情が許せなかった。


 ♦︎


 いくらあいつから逃げ回ったとて、私の行動なんてあいつには筒抜けなものだからすぐさま捕まり講義を受ける毎日だった。

 結局は無駄な抵抗。取るに足らない逃走劇だった。

 今日も花壇近くの木の上に隠れていたら、やっぱりすぐに見つかり図書室へと連行された。ちなみに今回は自分でちゃんと木から降りた。

 

「お前の母親がまた来ている」


 そして図書室に着いた途端。そいつは相変わらずの無表情でそう言い放った。

 自ずと身体が硬くなる。それを見てそいつは一つ息をつくと、またいつも通り極めて冷静に話し始める。


「俺はこれから一旦家に戻らないといけない。今日はお前といてやれない」

「え……」


 こいつから逃げ回っていたくせに当然のように頼りにしていたものだから、思わず目を見張る。

 

「お前、いないの……」

「ああ。いない」

「なら、私。どうしたら」


 そいつの手が伸び、無意識のうちに握りしめていた私の手を開いてほぐしていく。


「一緒にはいてはやれないが、避難場所ならば用意してやれる」

「避難場所?」


 まさか一緒にこいつの家に連れていってくれるわけでもあるまい。なら、この狭い孤児院に逃げ場所なんて。

 開かれた手にちゃりんと、小ぶりの古い鍵が落とされる。


「これって」

「寮にある俺の部屋の鍵だ」


 この孤児院は男子と女子とで寮の棟が分かれており、それぞれに個室があてがわれていた。だから当然、私自身も自分の部屋を持っているし、こいつにも自室がある。しかし、男子寮と女子寮の行き来は互いに禁止されていたはず。


「お前の部屋は鍵をかけていても、もう安全地帯だとはいえない。いざとなればお前の母親に頼まれて、院長先生が開けることだってできる」


 むしろここまでさんざん逃げ回っていたから、そろそろ強硬手段を取ってもおかしくないだろうというのがそいつの見解だった。


「基本、女子も男子もお互いの寮には入らない。罰則があるからな。でも、お前はあの母親に会いたくないんだろう。ならばもう手段は選んではいられない。男子寮に忍びこむなんてお前にとっては余裕だろうから、そこは俺がいなくてもいいだろう」


 つらつらと説明される事柄にぽかんとしたまま耳をかたむける。さぞ、締まらない顔をしていただろう。しかしそれほどまでに私では思いつかない手段だった。

 前からなんとなく思っていたが、こいつ頭が硬いわけではないからルールを破ることに案外躊躇いがなかったりするよな。悪ノリもするし。


「母親が来たらおそらく日の入りまではお前を探し回る。先生方も今度はそれを手伝うかも知れない。もう複数の大人相手に隠れ鬼を続けるのは危険だ。俺の部屋を使え。そこに隠れていれば、少なくとも今日は凌げる」


 もらった小さな古鍵を大事に握りしめる。まるで大切な命綱のようだった。

 嬉しかった。ここまでしてくれることが。ここまで私を気にかけてくれていることが。


「ありがとう」


 いろいろな思いを込めた感謝の言葉も、受け取った方はいつも通り無表情のままで。


「俺が戻るまで。せいぜい、上手くやれよ」


 ♦︎


 結果から言えば、あいつの作戦はうまくいった。

 あいつが昼前に出ていく頃には、私もあいつの部屋に避難した。

 出発する直前にあいつが教えてくれたことだが、やはり先生たちもあの女と一緒になって私を探しているとのことだった。

 やめてくれ。厄介極まりない。それに何の得があるんだと言いたいが、私の家は孤児院に寄付もしているし、純粋に子供に会いたがっている親を蔑ろには普通しないだろう。

 私にとっては迷惑でしかないが。


 あいつの部屋には初めて入ったが、なんというか想像通りの殺風景な部屋だった。

 書き物机に椅子、ベッドと最低限ものしか入っていないクローゼット。あいつがいつも読んでいる本も図書室のものだけらしく、部屋の中にはあいつ自身が持ち込んだ本は一冊もなかった。

 なんだあいつ。ミニマリストでも目指しているのか。

 いや、ただ必要ないというだけなのだろう。あいつにとって。

 寂しいというより、あいつらしくさっぱりしていると、そんな感想を持ちながらとりあえず近場のベッドに座る。

 これから日の入りまで長い時間ここで待っていなければならない。今日はまず大丈夫だとあいつが言っていたから、きちんと鍵を閉めていれば誰も入ってくることはないだろう。

 さて何をして時間を潰そうか。中に入っていいからと言われたと言っても、他人の部屋を漁るのは色々とどうなんだ。

 あいつのことだから日記なんてつけてないだろうし、人に見られて困るようなものも持ちあわせてはいないだろう。

 つまらん、とベッドに転がるとふわりとあいつの香りがした。

 新緑と青空の中の風の香り。

 思わずベッドに頭を押しつけて、湧き上がってきた感情をどうにか抑え込んだ。

 そのままぼぅっと天井を見て、あいつは今頃どうしているだろうかとか、騎士の稽古とは何をするのだろう、聖騎士ってどんな人だろう、なんて考えていたらいつの間にか眠っていたようで。

 こんこん。というノックの音で目が覚めた。窓の外を見ればもう夕方も過ぎて夜闇が忍び寄ってくる時間になっていた。


「オルドレット。ちゃんといるか」


 なんとはなしに警戒はしていたが、あいつの声に安堵して飛びついてドアを開ける。


「ちゃんと凌げたな」


 私の無事を確認して部屋に入ってくると、テキパキと身につけていた防具やら模擬剣やらを片付け始める。


「今回はこれでどうにかなったが、また別の手も考えないとな」

「またお前の部屋を借りるのではダメなの?」

「ダメではないが、安心はできない。あちらも何回も諦めずにお前に会おうとしてるんだ。何度も同じ手を使ってくるとは思えない」


 言ったろ、今日は凌げると。

 そう言って頼もしい友人はまた考え込んでしまった。


 それからというもの、あいつは自身が騎士の稽古で孤児院を離れる際には必ず私に部屋の鍵を預けてくれるようになった。

 実際、あいつがいない間に母親が尋ねてきたことが何度かあった。その度に私はあいつの部屋に隠れてやり過ごしていた。


 ♦︎


 私にはある特性がある。らしい。これは私自身もよくわからないし、あいつに聞いても尚のことよくわからないと言われたので、本当にわからないとしか言いようがないのだけれど。

 それは私の容姿に関してだ。

 私は容姿に恵まれている。あの母親に似ているせいで。

 そのためなのかなんなのか知らないが、私を見た相手はだいたい惚けてしまうのだ。惚けて、私が話しかけても話半分で聞いているんだがいないんだか、と言ったような反応になる。

 それだけならばまだいい。だが男女問わず他人と一度知り合うと、最初はまともに話してくれた相手がどんどんおかしくなっていくのだ。

 なかなか会話を切り上げてくれない、常に監視される、持ち物を取られる、意味がわからないまま贈り物をされ続けるなど。挙げ句の果てにどこか人気のないところに追いやられて、襲われかけたなんて数えきれない。

 そんなことをする奴の顔は皆一様に、母に侍っていたあの男たちと同じ陶酔したような欲目を晒した顔をしていた。

 皆私に見惚れていた。

 これは自惚ではなくそう思う。

 最初はそうでなかったとしても、そのせいで、私を見たせいで、狂ってしまった人間が大勢いた。

 それは家にいた時の大人に限った話ではなかった。孤児院の子供達でも同様だった。

 遊び相手を取られる小さい子の独占欲と思えば可愛いものの、明らかに他の年長者に対する目と私に対する目が違っていた。

 私と歳が近いとなるとさらに行動はエスカレートした。

 許してもないのに体に触れてくる、私の自室に入ってこようとする、なんて当たり前のようにほぼ毎日繰り返された。

 子ども相手だろうが大人だろうが、嫌で怖くて気持ち悪くて仕方なかった。その嫌悪感と不快感は孤児院でも家でも消えることはなかった。いくら泣きそうに嫌でも、でもそれに対する対抗手段なんて私は持ち合わせていなかった。できるだけ息を潜めて、逃げ回るので精一杯だった。

 拳銃や閃光弾を持ってはいても、それを人間相手に使うなんて度胸はその時は持っていなかった。たとえもし何かあれば使おうと思っていたとしても躊躇ってしまって、結局対処に間に合わないことがほとんどだった。

この容姿でよかったことなんて一度もない。あの女の生き写しと呼ばれたって嬉しくもなんともなかった。己の容姿もその元となった母も、対処できない己の未熟さもすべて憎悪の対象となった。

 だからだろう。私は長い時間、鏡を見続けることができない。一定時間以上見続けると、鏡をたたき割ってその破片で自分の顔面をめちゃくちゃにしたくなるのだ。


 孤児院の中で見知らぬ誰かから知らないうちに大きな感情を向けられていたなんて、そんな悍ましいことが一切起こらなかったのは、あいつだけだった。

 あいつの目は誰を見る時でも変わらず凪いでいて、欲と言ったものからは無縁に思えた。

 だからこそ、私は孤児院にいる間はあいつとずっと一緒にいた。あいつといると他の奴らは何故か私に近寄らなかった。

 あいつの隣が私の安全地帯であり、唯一安らげる場所だった。

 あいつが必要以上に私に対人警戒の術を教え込もうとしているのも、それを知っているのがあるからだろう。実際に害はもう出ている。

 だから、あの星見の日にあいつに言われたことの真意がわからない。わからなくて嬉しいのに困惑してしまう。もし他の奴らと同じならと、ぞっとしてしまう。

 そしてあいつを悍ましく感じた自分を嫌悪する。そんなことあるはずないのに、と。

 実際、あいつの態度は一貫して変わらなかった。星見の日だってさしていつも通りだったし。これは私の過敏さが招いた杞憂だと、そう思うことにした。

 思うことにしたのだけれど、自身があいつに向けたくない感情と、あいつから私に向けられたくない感情がこんがらがって、あいつから逃げ回るのを止めることはできなかった。


 ♦︎


 だからだろうか。


「俺以外のやつは全員警戒しろ」


 そう、ちゃんとあいつに言われていたのに。


 あいつが早朝に出かけて行った日。いつも通りあいつの部屋の鍵を預かったが、母が来ないならばと、私は1人自由に過ごしてした。

 その日は来客があるとお昼ごろ、大人たちから教えられた。この孤児院には礼拝堂がある。近隣には教会はないため、たまに近くの村の住民が礼拝に来ることがあった。今日もそれで客が数人来ると言われていた。

 昼過ぎに来た客人は2人。比較的平均的な身長の男と、それよりもかなり背の高い男。2人とも歳は若く見えた。

 遠くからその来客を見て、母ではないことを確認した私はわかりやすく言えば油断していた。

 その男たちからは、そちらを伺う私がはっきり見えていたのだ。そして礼拝室に向かうことなくこちらに向かってきていた。

 そんなことも知らずに、1人で図書室へ行こうと歩いていたら突然、前方と後方から道を塞がれる。

 なんのことかわからず当然思考は飛ぶ。

 誰。何。どうして。

 思考が飛んだせいで逃げ出すのが遅れた。だって、明らかに手を伸ばして私を捕まえようとしている。多少遅れたところで成人男性2人に挟まれた子供がどうにかできるような状況ではなかったが。

 それでも逃げようとすると口を塞がれ首を絞められる。相手の手を引っ掻いて抵抗するが床から足が浮く。

 怖い。苦しい。どうして。この状況もわからないし理由もわからない。

 増していく恐怖と圧迫感で涙目になりながら捉えたのは、母を見るように私を見る男たちの顔だった。


 ♦︎


 冷たくて、寒い。

 そう感じて目が覚める。

 見回すと私がいるのは埃っぽい古小屋の中の一室のようだった。

 横たえられていた体を起こして、ズキズキとする首を撫でると、うっと痛みが増した。頭がぼーっとする。何かモヤが脳全体にかかっているように感じる。

 そうだ、さっき何か考えていたような。そう、寒くて。

 薄闇の中、自分の手をさするといつもよりも冷え切っていた。心なしか寒気もする。ぶるりと両腕で体を抱いて震えていると、寒さからか頭がだんだんはっきりしてくる。

 孤児院で来客があって、その知らない男2人に首を絞められて。そこまで思い出した瞬間、意識と感覚が覚醒した。


 途端、バケツをひっくり返したような激しい雨音が聞こえた。

 聴覚が正常に戻ってきたようで、小屋の屋根をめちゃくちゃに叩く雨音が認識できた。外はどうやら凄まじい雨らしい。ついでとばかりに雷鳴も聞こえてくる。

 今更ながらきょろきょろと、自分の現状を把握する。

 手足は縛られていない。衣服も乱れていない。怪我も、締められた首以外はどこも痛くない。多分今は夜で、だから気温が下がって寒い。そしてここは、知らない小屋の中。一つしかないドアと窓。窓の外ではひどい雨が降っていて、閉じられたドアの隙間からは灯りが漏れ、何事か話し声も聞こえてくる。

 向こうの部屋に誰かいるらしい。おそらく先ほどの男2人だろうか。雨音がひどいせいで何を話しているのか全く聞き取れない。逆にこちらの音もかきされて、よほどのことをしなければ動きを気取られることもないだろう。

 しかしこれからどうしたものか。ドアを隔てたすぐ向こうには私を攫ってきた大人が複数いて、こちらは何も持たない子供1人。

 夜の散歩の時には家から持ってきた銃を持ち歩くこともあったが、小さい子もいる孤児院内で流石に拳銃を忍ばせている気にはなれずにいたことがここで仇となった。

 今は拳銃も閃光弾も、何も、持っていない。持っていたとしても人間相手にすぐさま使えたとは思えないが。

 ないものねだりでスカートのポケットを探ると、小さな鍵が入っていた。言わずもがな、それはあいつの部屋の鍵で、その鍵を見ているとあいつから言われたことが一気に思い起こされた。

 再三注意を受けていたはずなのにな。全く、何も、身になっていない。あいつから逃げ回らないでもっとちゃんと話を聞いておけばよかった。

 頼りにしていた友人の欠片を見つけたせいで余計に心細くなる。これからどうなるのだろう。何をされるのだろう。なんとなくだが、これには母が関係している気がする。ならばなおのこと、悪いことにしかならないだろう。

 ぎゅっと祈るようにその鍵を握りしめても、もう誰も助けてくれることはなく何も起こるはずもなかった。


 ♦︎

 

「雨宿りとしては、ここはお勧めはできないぞ。子よ」


 暗がりから突然声が聞こえた。私以外誰もいるはずのないこの部屋の中から。

 ぐるりと見回してもやはり闇しか見えない。得体の知れないものが自分と同じ場所にいる。その事実にぞっとして身が固まる。


「怖がらせたか。無理もない。ひどい目にあったものだなあ」


 声は闇の中から、しゃがれた老婆のように話しかけ続ける。思わず身を引きかける私を見て声は、

 

「待ちなさい。今、見せてやろう」


 そう言って、部屋の隅の闇からひょこりと出てきたのは灰色の体にアイスブルーの目を持った猫だった。しかしよく見ると尾は二又に分かれ、しかも人語を話している。

 私に話しかけていたのは怪異の猫、しかもかなり老練のケット・シーだった。

 ケット・シーは私の膝前までくるとちょこんと座り、まるで人間のようにこちらを伺うような素振りを見せた。


「怪、異。初めて見た」

「そうかい。わしらはお前さんらをよく見とるよ」


 怪異とは人間を害するもの。たとえそれが愛らしい見た目をしていたとしても。そんなことは幼い頃から散々聞かされている。

 ここに怪異がいる理由も、姿を私に見せた理由もわからずに黙り込む。

 そもそも怪異と話すこと、接触を持つことが危険であるし、自分の名前知られてはならない、約束事もするものではない、というのが親から子に教え込まれる基本である。

 私はそれをあいつから教え込まれたが。


「何。あまりにも哀れでな。人でありながら、子よ。お前は魔性に過ぎる」


 わしらに近しいかも知れん、と老猫は言う。何を言っているのかはよくわからないが、今のところ敵意がないことはわかった。


「あの、ここに逃げ出せるような場所はありませんか」

「出口ならば、そのドアを出てさらにドアをもう一つ開ければすぐさま外に出られるとも。今はひどい雨でお勧めはしないがね」


 この怪異は私の状況をどこまでわかっているのだろう。そもそも怪異とは根本的な思考が違うと言う。なんとなく噛み合わない会話をしながら、この現状からの解決の糸口がないか必死に考える。

 

「私、ここから出たくて」

「そうかい」

「でも、人が向こうにいて、その人たちには見つかりたくないんです」

「そうだろうね。お前をここに連れてきたのはあいつらだからね」


 やはりこの怪異は私がここに連れてこられるまでの一連の流れを知っているらしい。


「あの人たちに見つからずにここから逃げ出すのを、手伝ってはもらえませんか」

「それをわしに頼むのかい?」

「ただでとは言いませんから」

「子よ。お前はわしを買い被りすぎだ」


 老猫はふるふると首を振って、小さい子をあやすような口調になる。


「わしは吸血鬼や魔女のような強力な怪異ではない。人ならざる力は、まあ年の功と言うやつだが、お前が期待するようなことはできまいよ」

「そうですか……」

「それに、哀れに思って声をかけたのはわしだが、お前を助けたところでわしに利はないしの」


 のんびりとあくびを始めてしまったケット・シー。これはもう打つ手がないかも知れない。そもそも怪異なんかに頼ったのがいけなかったか。

 気持ちがどんどん沈み込んでいく中、怪異がそうだとこちらを見やる。


「子よ。お前がわしらのように猫になってはどうだ?」

「え?」

「その魔性は人の身では辛かろう。子猫になってしまえば、その苦からも解放されよう。それに、お前のような同胞はいつでも歓迎しておるよ」


 そう、機嫌良さそうに尾を揺らす怪異。私が猫になるだなんて、そんなこと。


「できるさ。なんなら、いますぐにでも。どうだ?わしらと来るか?」


 所詮は怪異がいうことだ。不気味だし真に受けることはない。けれど、今自分が本当に猫になれるのであれば、この状況からの脱出は可能だろう。今後、母やあの私に向けられる目に悩まされることもなくなるかも知れない。

 でも、だけれども。

 ちゃり、と小さな鍵を握りしめる。


「ごめんなさい。とても魅力的だけれど、それは難しい」

「なぜ。苦しいだろう、己に向けられる醜いものはもう見飽きただろう。それから解放されたいとは思わないのか」


 怪異は夜より這い出て、人を惑わし歪めるもの。そして人の闇から形作られるもの。

 その通り、痛いところをついてくる。だって実際私は苦しいし、うんざりしてる。母にも自分にも、周りの奴ら全部にも。

 でも、あいつだけは。


「人のままで会いたい人がいるのです。人の言葉で伝えたいことがあるのです。私が猫になったらそれは叶わない。だから」


 ごめんなさい。

 そう言って老猫に頭を下げる。せっかくの提案であることは確かだった。とても魅力的だとも思った。

 でも、やっぱりあいつに会うために人でいたかった。

 そうかい、と老猫は私の足をてしてしと前足で軽く叩いて頭を上げさせる。


「魔性の子。哀れな子。お前はこのまま長らえることができれば、傾国にすらなるだろう。その時、醜さに呆れ人を辞めたくなったのなら、いつでもわしらはお前を歓迎しよう。今は、その気概に免じて手助けくらいはしてやろうか」

「本当ですか」

「しかし、ただとはいかん。お前も言ったろう。子よ。お前はわしに何を対価に差し出せる」

「私の全て、以外の全てを。誰よりもあなたたちを優先しましょう。何よりもあなたたちに尽くしましょう」

「よろしい」


 その言葉と共に、ズドンと地響きと共に耳を塞ぎたくなるほどの雷鳴が轟いた。どうやら相当近くに落ちたらしい。まだビリビリとその余波を感じる。


「なに。少しずらしただけさ」

「さっきの雷は貴女が?」

「先ほどから雷鳴がうるさかったのでな、いっそ近くに落として驚かしてやろうと思ってな」


 そういうと、すくっと立ち上がり尻尾を揺らして部屋の闇へと入っていく。


「ではな、子よ。お前の約束が守られることを、お前が長らえて再び会いまみえることを願っているよ」


 老猫は暗闇の中へ姿を消し、そしてあのしゃがれた声は完全に聞こえなくなった。

 怪異と話したという、今までにない体験にしばらく呆けているとドアの向こうから、これまた突然にバタンッと何かが蹴り破られる音がした。

 それと同時に男たちの声が騒がしくなる。何事かと身を縮こませていると、向こうが唐突に静かになり、きぃっと目の前のドアが開いた。


「オルドレット!無事か!」


 聞こえてきたのは紛れもなくあいつの声で、どうしてなんて言う間もなくがくがくと肩を掴んで揺さぶられる。

 濡れた髪もそのままに、柄にもなく慌てているようなそいつにこちらが冷静になる。一体何が、どうしてこいつがここにいる。あの男たちはどうなった?


「アイザック」


 そして聞こえたのはもう一つの声。穏やかで落ち着き払っていながらも、しゃきりと背筋が伸びるような声だった。

 見ると、シルバーグレーの髪をし髭を蓄えた老騎士然とした男性が佇んでいた。


「落ち着きなさい。お前らしくない。その子の方がよっぽど落ち着いている。まずはその子が怪我をしていないか、障りがないよう見てあげなさい」


 聖騎士様、とそいつが言うのが聞こえた。 

 そうか、この人が今代の聖騎士。最上位の怪異にも退かない練達した技量と人徳を併せ持つかの老騎士。

 老騎士の言葉に従って落ち着きを取り戻し、私の状態を確認していくそいつを他人事のように見ていた。

 こいつはこの人について教えを乞いていたのか。 

 老騎士は一目でわかるほどの威厳と威圧感を放っていた。腹に力を入れていなければ、この人の前でまっすぐ立つことはできないだろう。背負うものが違う人間というのはこういうものなのだろうか。


「どうして、ここに聖騎士様とこいつがいるのですか」

「アイザックを孤児院に送る時にひどい雨にあってな。急いで孤児院に向かったのだが、着いた途端アイザックがお前さんがいないと騒ぎ出した。聞けば何やら事情もあるというからと、雷鳴の中探しに出たのだがその雷のうちの一つに違和感を感じた。もしや怪異ではないかと思い来てみたら、案の定お前さんがいたというわけだ」


 あいつ以上の経験にあいつ以上の技量。これは確かにすごい人だと、手放しでそう思った。友人が連れてきたこの人が気づいてくれたおかげで、私は助かったのだ。


「オルドレットと言ったな。何か怪異は見ていないか」

「……猫を」

「猫?」

「猫が雷で驚かしてやるって言って」

「なるほど、ケット・シーの気まぐれか」


 ふむふむと頷いたところでさらに問いかけられる。


「名前は渡したか?」

「いいえ」

「他に何か約束事は交わしたか?」


 この人に嘘をついても無駄なことは初対面でもわかる。なんならここにはあいつだっているのだから、嘘なんてすぐにバレる。

 だけれど。


「わかりません。話している時は気を付けていたのですが、何か言ってしまったかも知れません」

「そうか、何か障りがあればすぐに言いなさい」

「はい」


 あのケット・シーはおそらく近くに聖騎士とこいつがいることも、私を探していることも知っていた。知っていて、雷を落とすことで居場所を教えてくれたのだろう。

 あの怪異だって私の恩人だ。

 嘘を突き通すのは無理でも、自分が言ったことの責任くらいはきちんと取りたくて報告は誤魔化した。誤魔化されてくれた、の方が近いかも知れないが。


「オルドレット」


 橙の目が私を見る。いつもよりもひどく揺れているのがよくわかる。


「助けてやれなくて、悪かった」


 無事でよかったと、そいつは無表情ではあっても瞳は揺らしながらそう言った。

 私の首に残る手の形のあざを見て、らしくもなく苦しそうに顔を顰める。

 それを見た私も苦しかった。

 今までもずっと、今だってこいつに助けられた。今日のことはこいつの忠告を守らなかった私の落ち度だ。こいつが悪いなんてあるはずがない。

 それに、これからもこのままこいつに助けてもらってばかりと言うわけにもいかない。

 せっかくあの老騎士に師事する機会があるというのに、こいつからそれを奪ってしまうことになる。毎回私が攫われて連れ戻してもらう、なんて笑えない。

 これ以上、この優しく聡明な友人の邪魔をしては行けないと、そう思った。


 ♦︎


 友人と聖騎士が捉えた男2人はやはり、母から私を連れてこいと言われてやってきたようだった。

 縛り上げられた男たちを軍警に引き渡す前にこっそりと近づいた。どうせこの男たちも母の息がかかっているなら、すぐにでも釈放されるに決まっている。

 つまりは、今回の救出劇だって姑息療法でしかない。

 あの女のことだ、また手を替え品を替え、男たちでもなんでも使いどうにかして私を捕まえようとするのだろう。

 だとしたら、もうたくさんだった。呆れと失望と共に言葉を紡ぐ。


「次来る時は、母様に直接来いって伝えて。そしたら、今度はちゃんと、着いていくから」

 

 

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