ch.3 Alternative

 オルドレットという自分の名前は、特に好きかと問われたらそうでもなく、嫌いかと問われれば嫌いと答える程度のものだった。

 命名したのはその頃から狂っていた母親らしく、その時点でもう嫌いだった。

 自分で名乗る時も、わざわざ自分から名乗ることはせずしぶられた場合にのみ、アイリーンというファミリーネームの方だけ名乗るようにしている。

 嫌いな名前だとしても、余計な相手に自分の輪郭の一部分である名前を呼ばれるのは気持ちが悪くて仕方なかった。


 そんなことをしてはいても、オルドレットという私の名前をわざわざ呼ぶ奴らはいる。

 一人は昔馴染みの友人で、子供の頃からずっと私を知っている奴だった。名前なんて、それぞれの個体を識別する手段の一つに過ぎないと本気で思っているような奴だから、なんの感慨もなく機械的に私を呼んでいた。それこそ番号のように。

 それはそれで別に構わないし、事務的でなんの感情も伴わない声音は私にとって返って心地よかった。


 問題はもう一人の奴だ。

 そいつはもうなんというか、毎回私を呼ぶたびに流れ落ちそうなくらい溶けた目をしてこちらを見る。400歳の吸血鬼がしていい顔ではないだろう、というくらい表情が緩んでいる。多分一緒に頭も溶けているのだろう。

 私の名前を呼べることを嬉しいと思っているのだと、嫌でもわかるような声音で呼ぶ。

 実際、さっきのやつに比べたら呼ばれる頻度はこっちの方が遥かに多い。名前を呼ぶだけなのになんなのだろう。

 一方私はというと、どちらも名前なんて絶対呼んでやる気はないが。


「オルドレット」


 あの吸血鬼に呼ばれるたびに、耳を塞いで顔を逸らして、その場から逃げ出したくなる。

 もしくは、うるさいと言ってあいつの口を塞いでやりたい。

 もう1人の方だって、射るかのように真っ直ぐ私を見て名前を呼ぶ。感情はのっていないくせに、逸らすことは許さないとばかりに。

 面と向かって名前を呼べない私に比べ、何度もこちらを見据えて私の名前を呼ぶあいつらを、酷く憎らしく思う。


 私があいつらの名前を呼ぶことができないのは、それに乗る感情が許せないからだ。


 ♦︎


 自分の名前を、ファミリーネームどころかファーストネームまであの吸血鬼に教えてしまったすぐ後のこと。

 吸血鬼は相変わらず、私の家に頻繁に出現していた。もちろん黒猫の姿のままで。


「抱っこしたい」

「み゛……」

「なんで?」


 何故か抱っこは未だに許してもらえない。撫で回したり枕にするのは許されるのに、本当にどうして。猫の姿では軽いことがわかったから、別に落としたりなんてしないのに。

 最近はもう、こいつが家にいることに慣れてきて、目の前で寝落ちてしまうことにも抵抗がなくなってしまった。

 するとだいたい目が覚めた時には枕もとにモフモフがいるから、そいつに構いながらまた寝落ちる、なんてことも珍しくなくなってしまった。

 それが良いことだとは思いたくはない。


 私が猫の姿であっても吸血鬼が家にいるという状態に慣れたのだとそいつも感じたのか、前まではソファかクッションの上から微塵も動かなかったのが、家の中を割と自由に動き回るようになった。

 それでも、吸血鬼がその本来の姿である人型になることは滅多になかった。


 ♦︎


 この街でも珍しい、博物館の大きなガラス窓を激しい雨粒が叩いている。

 ザァと勢いが落ちることなく、夜の雨は降り続いていた。


 私が働いている博物館は、基本的に昼から夜にかけて開館している。その理由としては、ただ単に現館長が朝が苦手だというだけのことなのだけど。夜分の危険性よりもおのれの生活リズムの方が大事らしい。まあ、実際夜に出歩く恐れ知らずの人間はこんな大きな街中では割と多いものだ。

 夜の方が過ごしやすい私にとってもそれは都合が良かった。だからこそ、吸血鬼もふらりとこの博物館に訪れたのかもしれない。

 私は博物館の閉館の施錠を任されているため、他の者より遅くまで残ることが多い。人がいない時間の方が気が楽だった。


 施錠を終えて、館内の点検をしていると最近では珍しく吸血鬼が猫の姿で丸まっていた。博物館で見たのは久しぶりな気がする。


「何?もう帰るのに」

「__」

「一緒に帰るのなら、もう行くわよ」


 本当になんとなくだけど、心なしか黒猫の機嫌がいつもより良さそうに見えた。何故だろうか。

 どうせ夜はあいつも私の家で寝てるのだから、一緒に帰るのだろうと思ったが、外がひどい雨だったことを失念していた。

 猫は濡れるのは良くなかったような。

 1人分の傘を持ってどうしようかと思案していたら、黒猫はそのままスタスタと裏口から出て行ってしまった。

 つられる様に追いかけると、そいつは雨に打たれたまま立ち止まって私を待っていた。


「思いきり濡れているけど」

「__」

「やっぱり機嫌よさそうね」


 雨が好きなのだろうか。黒猫は濡れることも厭わず軽やかに、私の前を先導して歩いていく。

 家に着いた後も、しばらく外にいたがったそいつを半ば無理矢理家の中に引き込んだ。


「に゛」

「拗ねないで、もう十分でしょう」


 案の定びしょ濡れになっている黒猫にタオルを被せて拭いていると、中から不満そうな声が聞こえた。そんなに雨が好きだとは思わなかった。

 冷たい雨のせいで黒猫は冷え切っているようにも感じだが、そもそもこの猫体温がなかったと思い直す。でも流石に猫が雨に濡れるのは良くないのでは。


「お風呂入る?」

「__」


 きゅっと顔を顰めて拒絶を隠そうともしない猫。

 仕方がないので、いつもそいつが被ってるヴェールの代わりに新しいタオルを被せて放置することにした。

 よほど雨が好きなのか、今も窓際で機嫌よさそうに雨が降る街を眺めている。


 そして私はというと、機嫌がいい猫を横目に見たくもない手紙と対面しようとしていた。この前届いたものだが、嫌すぎて放置していた。猫を愛でてでもいないとやってられない。

 このまま開封せずに火にくべても私は一向に構わないのだけれど、放置し続けて差出人に家まで人を差し向けられる方がよっぽど嫌だった。

 気の進まないまま封を切る。前見た時は差出人の名前を見て、そのまま破り捨てそうになったのを思い出す。

 その時は吸血鬼がいたから、意識がそっちに逸れたおかげで手紙は無事に残ったようだったが、今からでも破り捨ててやろうかな。

 放置する方がよっぽど面倒だと思っても、嫌なものは嫌だった。内容が予想できるから尚更に。


 ため息と共に、手紙を開いていく。

 差出人はヴェレーア。

 私の恩人と呼べるだろう者。私だけが知っている、今代の聖女の名前だった。


 ♦︎


 聖女とは教会に属し神に一番近いところで仕える者のことで、聖騎士及び騎士団はそれを守護する者とされている。

 ちなみに、神も聖女も聖騎士も、その頻度に差はあれど代替わりをする。

 聖騎士はあいつに腕を吹っ飛ばされたから、今の老騎士からそろそろ代替わりをするのかもしれない。実際、一番代替わりの頻度が高いのが聖騎士。その次が聖女、神と続く。 

 今代の聖女は100年ほど代替わりをせずにいる。神の方はどうだっただろうか。どうでもいいけど。

 神、聖女、聖騎士の三者を中心とした教会が夜より這い出る怪異から人間を守護している。

 はずなのだが、その怪異の頂点である吸血鬼の王様が、私の膝で丸まっているので私はその守護される範囲には入っていないようだった。

 どしゃ降りが小雨になったことが気に食わなかったのか、黒猫は外を眺めるのをやめて私の膝の上で寝始めてしまった。別にいいけど。


 ヴェレーアは今代の聖女であり、母親に嫌気がさして家出した私を拾った奴だった。

 実質的な私の保護者とも言えるが、言ってたまるかと心から思う。こいつのせいで色々と面倒な目にもあったし、こいつがいるから余計によりまずい方向に向かってしまった場面ばかり思い出す。

 恩を感じたくない。感じたとしても仇で返したい。

 もはやこいつのことを考えるだけ面倒なので、さっさと手紙に目を通す。

 どうせ一回顔を見せに来いとか、そんなところだろうと思ったらその通りだった。

 芸がないというか、それ以外に言うことはないのか。他に何か言われても嫌だが。というか、そもそも手紙をよこすな。接触を図ろうとするな、煩わしい。

 日付と時間、場所を指定されこちらが来る前提で話をしているところも絶妙に腹が立つ。行かないと後でうるさいし、すでに何回もボイコットしているのでいい加減行くけれど。


 色々と嫌になってきたので、膝で勝手に寝てる猫を無理矢理抱き枕にしてそのまま固く目を閉じる。

 私がいつもよりきつく抱きしめたせいか、今夜ばかりは黒猫は逃げ出そうとはしなかった。こちらをしばらく胡乱げに見た後、静かに寝息を立て始めた。


 ♦︎


「オルドレット!久しぶりね!もう、どうして会いにきてくれないの?あんなに手紙を出しても返事が返ってきたことなんて一度もないし。私がここから動けないこと知っているでしょう?私に寂しい思いをさせないでちょうだい!ひどい子ね。ねぇ、顔をよく見せて?やっぱり綺麗ね!良かったわ!貴女しか私の後ができる子いないのだもの!」


 最悪だった。

 すでに会って数秒でとてつもなく帰りたくなった。

 目を合わせるのも億劫で、どこか遠くを見る私をよそに、とにかく笑みを絶やさずに毒を織り交ぜた歓迎を捲し立てる今代の聖女。

 無駄に無邪気で少女じみているのが、ひたすらに面倒だった。


 教会の中でも一際高く作られた塔の最上階付近。病的な白さで覆われた塔の内部も、やはり目に痛い白さを放っている。

 ステンドガラスで採光しているからか、余計に視界が眩しくてくらくらする。

 そんな痛々しい白の中央に置かれたベッドに鎖で繋がれ、まるで花嫁が被るようなヴェールのみを体に纏った女性がヴェレーアだった。

 この光景を常人ならばどう形容するのだろう。神々しいとでもいうのだろうか。冗談。

 私からすればただただ気味が悪くて、いるだけで体調に差し障りが出るような空間だった。


「もういいでしょう。顔は見せた。帰る」

「あ、そんな待って!いいこと教えてあげようと思ったのに」


 こいつが言う、いいことが本当に私にとってのいいことであった試しがない。

 軽い散歩だと言われて連れて行かれたところが、邪教のミサの真っ最中であったり、良いところだからと連行された場所が悪魔と信徒の乱交場であったり。もうとにかくこいつに関わると散々なことしか起きない。一体私に何をさせたいんだ。

 確かにこいつに救われたことはあったはずなのに、それを上回る最悪な思い出が全てを上書きしていく。

 自身に投げかけられる言葉を全て無視して出口に向かう。


「全く、前はもっと可愛げが……なかったわね」

「本当黙って」


 白い手で顔を覆い被りを振るヴェレーアを再び睨みつけて扉に手をかける。思わず反応してしまったことに舌打ちをする。何があろうと、もう二度と来たくない。こいつは騒ぐだろうが。

 恩人の皮をかぶるなら最後まで被っていて欲しい。せめて恩を感じさせたままにしてくれ。


 扉を押す手に力を込めた時、すぐ近くでちゃりと鎖が擦れる音が聞こえた。


「アイザックがね、次の聖騎士なの」


 いつの間にそこまで来ていたのか、私にしなだれかかりながら耳元で囁く。繋がれた鎖を限界まで伸ばしてまで、愉快そうに目を歪めて私の顔を覗き込む。

 こいつがこういう奴なのは、はなから知っていたのに。やっぱり来るんじゃなかった。


「知らないわ」


 呪詛を吐くことすらも面倒だった。もはや嫌悪感しかない。

 気持ち悪く追い縋るヴェレーアを振り払って、一刻も早くここから離れようと足を動かした。

 背後でニヤつくヴェレーアの顔が容易に想像できた


 最高に気分が悪い。


 ♦︎


 アイザック、というのは私の幼馴染だった奴の名前だ。

 子供の時から騎士団にいて、今代の聖騎士から手解きを受けていた。


 あの醜悪な性格をジャムになるまで煮詰め切った女がわざわざ私を呼びつけて言ったのだから、聖騎士になったのは同名の別人ではなく私が知る幼馴染本人のことなのだろう。


 私の名前を、それこそ個体識別のための番号の様に呼ぶ奴だった。

 私と言う個人を説明するにあたって、欠かしてはいけない、欠かしたくないと思える唯一の人間だ。

 なにより、大事な友人だった。あいつはそうは思っていないだろうけど。それでも近くにいたくて、そいつの強い核が何者にも侵されることなく高潔であることを常に願っていたほどには入れ込んでいた、と思う。

 

 そいつは地頭と観察力が良すぎて物事を客観視する範囲がとにかく広く、そのせいでまるで人間味がない奴だった。

 自分が人の感情の機微を感じ取れないことや、自身にそもそもそういったものがないということに恐ろしく自覚的だった。そのため周囲を観察し、それを自身に後付けしていくことで人間に擬態していった。

 人間では間違いなくあるものの、擬態しなければ人間には見えない様な奴だった。

 自身の行動基準を他人に依存させることで自身の存在理由を作る、なんてことを幼い頃から自覚的に選択してやっている様な異様な子供。

 そのため、結果と行動だけを見れば聖人、中身は高性能な演算機の様な少年が出来上がった。

 あいつより頭の性能がいいと、言える様な奴には未だ会ったことはない。


 私はそいつと何故かよく一緒にいた。私がそいつの人間味がないところが気に入ったのかもしれないし、あいつの模された聖人性がレジスタンスの如き抵抗を見せて問題児すぎた私を放って置けなかったのかもしれない。

 

 家出した先の孤児院が母親に見つかり、連れ戻しに孤児院に母親が来た時に逃げるのを手伝ってもらったり、夜の森で怪異から一緒に逃げ回ったり、対人での警戒の仕方を教えてくれたり、お守りだとピアスを譲ってくれたり。

 思い起こせばキリがない程に、一緒に色んなことをして、私が言わずともたくさん助けてくれた。

 

 恩がある。ずっと、返せないほどの。

 あいつがその時どう思ってたのかは知らないし、対して何も思ってはいないだろうが、それでもあいつの無機質すぎた高潔さが好ましかった。自身の存在理由を他人に依存するとあいつが決めていたとしても、その強さはあいつ自身のためだけに使って欲しかった。

 だからこそ、ヴェレーアや神だとか言う狂った奴らのそばには行かないで欲しかったのに。使い潰されるなんてことはあってはならないのに。

 どこか私の知らないところで、自然なあいつのまま死んで欲しかった。


 聖騎士は怪異との戦争の最前線に出なければならない。魔女の女皇、悪魔の首魁、吸血鬼の王といった最上位の怪異の前でも立ち続けられるほどの強さを持っていなければならない。

 でも、あいつが望まれればそれができてしまうほどの奴だと言うことも私は知っている。

 そしてそれを望んでしまったのは私だ。私があいつをここまで追い立ててしまった。あいつは私が聖騎士になれと言ったから、聖騎士になってしまった。なれてしまった。いや私が何をするまでもなく、人に対して機械的に善性を向けるあいつならこうなっていたのだろうか。

 私のせいであいつの中に歪みを生じさせたくはなかったが、その生じた歪みの罪悪感は持っていたいという自分の中で捨て去りたい感情もあった。

 我ながら吐き気がする。


 あいつの善性を敷く範囲は今や、どこまで拡大したのだろうか。

 聖騎士が守護するのはこの国全土の人間だった。 

 どうして、そこまで強くなってしまったのか。

 わかっていたことではあった。あいつが人並み外れた強度を持った奴で、望まれたならばその通りに万人に与えてしまえる非人間性を持っていることはわかっていたし、それに惹かれた私もいたけれど。

 決して、お前を消費させたかったわけじゃない。


 ♦︎


 夜遅く家に帰ってからも気分は最悪だった。

 どうしたら、あいつに聖騎士を辞めさせられるだろうか。聖騎士になってヴェレーアや神に仕えるくらいなら、今死んだ方がずっといい。

 だけど、私があいつに合わせる顔なんてない。直接会うなんてとてもできないし、もし会ったらいろんなものがぐちゃぐちゃになって私の自我が壊れる気すらする。

 あいつはあの人々の信仰だけで作り上げられた紛い物の神を見たことがあるのだろうか。見たとしても、そういう機構が必要だと判断したらそれに準じる奴だし。


 違う、そうじゃない。あいつのことよりもヴェレーアをなんとかすれば良くないか。

 どうにかして消せないか、あの女怪。わざわざ呼びつけて言うことが狙って私の地雷って、本当に腹が立つ。直接会わないで呪詛でも送り返せば良かった。


 深夜になればおそらく、吸血鬼が訪ねてくるだろう。猫を撫でれば少しはこの殺意じみた衝動も落ち着くだろうか。

 落ち着けずに今からあの女にぶつけても別にいいのだけど、もう疲れてしまった。

 吸血鬼を待とうとしたが、結局眠くてその日はあいつに会うことはなかった。


 最近一緒にいてくれた黒猫がいなかったからだろうか。久しぶりに酷い夢を見た。

 感情を表に出すことが滅多にないあいつに、笑わないのかと聞いた次の日。

 他の奴らと同じ様に笑う様になってしまったあいつを見て、やめてくれと取り乱しながら訴えた子供の頃の私がいた。


 ♦︎


 「オルドレット、もう休んだほうが良い」


 後で頭を抱えることになっても知らないよ、と昨夜に限っていなかった吸血鬼がこちらを見やる。私の惨状を見かねたのか、珍しく人型の姿をしていた。

 うるさいと手に取ったグラスにはもう何も入っていなかった。

 ウォッカ、ウィスキー、ワイン。めちゃくちゃに開けて飲み切ったボトルたちは、月と淡いランプを受けてゆらゆらと光を映している。

 

 本当に気分が悪かった。

 それは酒を飲んだからではなく、今朝起きてすぐ見つけてしまったヴェレーアからの手紙のせいだった。

 自分があそこから動けないからと、人で遊ぶことでしか娯楽を見出せない女の形をした何かしらは、まだ私で遊びたいらしい。

 二度と行かないつもりだったのに、やはり行かない方がより面倒だった。

 いつか本当に呪い殺してやろうかな。


 聖女を殺したら聖騎士になったあいつに怒られるだろうか。

 そこまで考えてしまって、泣きたいのか死にたいのか殺したいのか訳がわからない気分になる。


 安易に酒を飲んだわけじゃない。どうせ滅多なことでは酔わない。

 ただ私は酒を飲むと必ず体調が崩れるので、この際思いっきり体調を壊せばこのぐちゃぐちゃな頭をさらに悪寒で上書きして、考えてたことが消えてくれたりしないだろうかと、そう思っただけだった。

 

「一緒に来て」

「ん?」


 前に私の膝の上で丸まっていたのはこいつだったけど、今は逆だった。

 ぺしぺしと今は猫じゃない人喰い鬼を叩く。


「一緒に来て」

「……どこに?」


 教会が祀りあげているあの白い塔だと言えば、少し不思議そうな顔をする吸血鬼。

 何故と言わんばかりだったので、最上階付近に用があると補足する。

 話した後で思い至ったが、怪異は普通教会に近づけない。神の加護を嫌ってのことだとか、もう知らないけど。

 こいつもやはり教会内部までは行けないのだろうか。


「途中までなら一緒に行ってあげてもいいよ」


 最上階は無理だけど、と思いの外すんなり許諾してくれた。

 王様くらいになると加護だろうとなんともないのか。

 

「昼間だろうし、猫の姿でいるけど。終わるまで待っててあげるから、それで良い?」

「良い」

 

 教会よりも最大の敵は太陽なのかも知れなかった。

 それよりこいつ、本当髪長いな。結べないかな。頭痛い。手やっぱり冷たい。頭痛い。


「君、普段と表情変わらないしあまり話さないけど、酔ってるよね」


 完全にそいつの膝の上に突っ伏して頭痛に耐えている私を、くすくすと笑う吸血鬼。

 今それどころじゃない。頭自体が揺れてる気すらする。目眩を抑えるために目を瞑る。

 すると突然、氷の様な冷たさが首に触れてびくりとする。思わず目を開けると、とろけた金色と目が合う。


 首を、掴まれていた。

 首を掴まれていることよりも、溶けた目で見られることに耐えられずに再び目を閉じる。鬼は笑っているのか、笑っていないのか、読めない顔をしていた。

 私の首を掴んだ手は、そのまま緩く力を込めたりやめたり。何が楽しいのか、何がしたいのか知らないが、しばらくそうしていた。

 

 体温の感じられない手は特段不快ではなかったが、首を掴まれてしまえば大人しくしているしかなかった。疲れ切っていて首を引っこ抜きたいならそれでも良いかくらいにしか、思っていなかった。

 微かな緊張感も、今の自分の姿勢を思えばどうでも良くなって諦めと共に霧散した。

 

 不意に首にかかった手に先ほどより強い力がこもる。明らかに呼吸を潰そうとしている手。

 息が漏れる。

 じわりと強まっていく窒息感と先ほどまでの深い酩酊感、頭痛による悪夢の中にいる様な前後不覚の感覚。そんなものが入り混じって、緩やかに呼吸が閉じ心地良く意識が落ちそうになる。

 はぁ、と上から押し殺した様な熱っぽいため息が聞こえた。

 鬼の手が緩む。


「もう寝よう、オルドレット」


 ♦


「__」

「うるさい」


 腕の中からもがき出ようとする黒猫を強引に抱え直して、ヴェールの上からずり落ちた厚手の布を被せ直す。

 夕刻の塔内部は真昼よりも無駄に赤々と眩しく、流石にこの吸血鬼でも堪える様だった。

 辛そうというよりかは、嫌そうだった。ずっと太陽から顔を背けている。全面白い壁に日光が反射した中では歩くのも億劫そうだったので、無理やり抱っこしたがさらに機嫌が悪くなった。だから、どうして。

 こいつの機嫌がいくら悪くなろうと、行くと言ったのはこいつだし、精神安定剤を手放したくはないからこのまま連れて行くけれど。


 今日目覚めた時には朝という時間はとうに過ぎていた。

 案の定、枕もとに黒猫が丸まっていたのでそいつを起こしてここに至る。

 私は吐くほど酔っても記憶は全て残っているタイプだったので、昨夜何をしていたかははっきり覚えているし、そもそもそこまで飲んでない。

 

 着替えのためを立ち鏡の前に立つ。昨夜あいつに絞められた首には、何の跡も残ってはいなかった。

 今、あいつに同じことをされたら怒髪天どころではないくらい、激しく抵抗して呪うくらいはしただろう。


 酔ってはないと思っていたけれど。

 今更ながら頭を抱えたくなった。あいつが言っていた通りになって、尚のこと八つ当たりしたくてもできない様な燻った憤りが頭の中を占める。

 まだ頭痛がする。


 ♦


 この白い塔には、基本人間はいない。聖女の世話から何もかも、精巧に作られた自動人形が担っている。

 城化物という城に住む人間に奉仕する怪異を模して人間が作ったツギハギなものだけれど。人間を模すと言われている城化物を人間が模すとは、中々どうして皮肉だった。


 つまりは、ここでは人間の声なんて猫に話しかけている私以外には聞こえない。ヴェレーアはあの階層からはまず動けない。今私がいるホールの大階段には誰もいないはずだった。

 なのに。


「聖女様は、お前に何の様なんだ?」

「さてな。呼ばれたからには行くが、緊急ではないだろうな」

「聖騎士の叙任式の話とか」

「聖女様は参列されないだろう」


 いるはずのない人間がいた。若い男性が2人。

 そのうちの1人を、私は知っている。

 子供の頃より幾分か低くなった声だったけれど、抑揚のない無機質な声音は変わらない。

 ずっと昔のことなのに、それでもあいつの声をここまではっきり覚えていることが我ながら未練がましくて気持ち悪い。

 わかってしまった。わからないはずがなかった。


「俺はここで待つから、とりあえず行ってこいよ。アイザック」


 呼ばれた名前に体が冷えていく。

 吹き抜けの大階段の一つ上階。月夜とは相容れない青い髪が見える。

 記憶の中より髪も背も伸びてることに、骨格がまるで違うことに、気づいて目眩がする。当たり前だった。私と同い年なのだから、あいつだって成人している。

 どうして今まで、あいつが子供の姿のままでいるかの様に考えていたのか。勝手な罪悪感から考えたくなくて目を逸らしていたからだろうか。


 大事な友人だった。会うつもりはなくても、忘れたことなどなくて。私の知らない間に、ちゃんと大人になっていたことが嬉しかった。

 わからない。わからないけど泣いてしまいたい。会いたくないけど、声は聞いていたい。死にたい、死んでほしい。


 ほら、やっぱり。ぐちゃぐちゃになってしまった。

 せめてもの意地なのかどこか冷めた目で自分を見ても、崩れて行く感情はどうにもできなかった。


「__」


 布の中からのそりと眠そうに顔を出した黒猫がじっとこちらを見る。私以上に冷めた目で。

 機嫌はさらに悪くなっている様に見えた。

 浅く息を吐く。


「そうね、今日はもう帰りましょう」


 重さがないはずの黒猫を抱え続ける気力はもうなかった。

 



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