ch.2 king

 私がいる国ではよく雨が降る。

 雨といっても土砂降りのようなものは稀で、霧雨のようだったり、細く静かに降っていつの間にか止んでいるようだったりと弱い雨が多い。晴れていても見上げる気も起きないし、目に入ると日差しのせいで目も肌もひりつくから、昼間はずっと雨でもいい。代わりに夜だけ晴れててくれれば、月も星も見られるのに。

 別に見られないならそれはそれで構わないし、ただそれだけなのだけど。


 ちりん、と鈴の音がした気がして窓から目を離す。今日は夕方からずっと雨だった。腹が立つほどに日中散々主張してきた太陽はとうに黙って、雨雲に頼らなくても街には黒々とした影が満ちている。

 真夜中の2時過ぎ、ただでさえ体力のない私が仕事を終えた後もまだこんな時間まで起きているのは、目の前にいる奴のせいだった。


 ちりん、とやはり鈴の音が目の前の毛玉からしたような気がした。ヴェールについている鈴に舌は入ってなかったと思ったのだけど。

 触り心地の良さそうな尻尾を一度ゆらめかせ、半分クッションに埋もれながらもそいつは変わらず静かに私を見ていた。

 

 ♦︎


 目の前の黒い毛玉もとい、猫の姿をとった吸血鬼。初めてこの猫を見つけた時から、約3ヶ月が過ぎた。その間、こいつは数日に一回だったりそうでもなかったり、不定期に私がいる博物館に来館していた。

 来ても絵画を眺めるでもなく、ソファーに埋まって眠っている。私が構いに行くと目を覚まして、その後は私が好き放題してるのを眺めている。そして、ふと目を話した隙にいなくなる。


 他の従業員や客がその猫を全く認知していないことから、大方私に用があるのだろうと思った。

 そのことを何度も本人に聞いたのだけどムッとするだけだったので、人型を私以外の人目に触れさせたくないのかと思い、猫を私の家まで拉致ってみたのだった。

 拉致というよりは普通に、ついてこいと言っただけだが。

 人型になれないと意思疎通は取れないし、人目がないなら人型になってくれるだろうと想定してのことだった。あまり他人を自分の家に招きたくは無かったが、博物館では埒があかないので仕方ない。


 用があるなら早く済ませて欲しいし、私が預かり知らぬところで何か変な感情を抱えられてても悍ましいだけ。そもそも猫でなかったら、こんなに何度も会ってない。

 本当にいつも通りに相手が人間だったら、一方的に認知されて何かしらの感情を持たれていることが気持ち悪すぎて、どうにかしてそいつを壊そうとしただろう。


 家のドアを開けてやると、猫はこてりと首を傾げたまま座り込んで動かなかった。吸血鬼は招かないと家に入れなかったことを思い出し、どうぞと促してやると一振り尻尾をゆらして中へと入った。

 

 ♦︎


 黒猫は人型になる気はなさそうだった。モフモフしながら尋ねても、相変わらずムッとするだけで、おまけにだんだん手が出る様になってきた。

 そのまま撫でていると前脚でてしてしと抵抗し始めた。尻尾に手を向けるとふわふわの尾でぺしりとされる。全く痛くないけれど今日はダメらしい。諦めて撫でていた手を止めた。機嫌悪いのかこいつ。


 家に帰ってからずっとこんな調子で、意思疎通も何もあったものではなかった。

 もう一度時計を確認してもやはり深夜2時をとっくに回っている。

 いい加減眠いかもしれない。本当は眠いと感じる前にベッドに入らないとまずい。私は体力もないが、後天的な理由で体が弱い。病弱ではないが健康体からも程遠かった。眠くなると寝ようという意思がなくても、体が限界を迎えてその場で昏倒してしまう。だから、眠いと感じる前に横になっておく必要があった。


 しかし客人はまだクッションの上で丸まってるし、聞きたいことも聞き出せていない。  

 が、自分以外のものが家の中にいる状態で眠ることなんてできない。

 吸血鬼にはもう今日は帰ってもらおうと、黒猫に向かって一歩踏み出した途端。

 ぶつん、と意識が途切れた。


 ♦︎


 雨音がする。ひやりとした空気に目が覚めた。なぜかどこも痛くなかった。そのことに思わずゾッとする。頭をよぎったものに吐き気がする。自分が昏倒したことは自覚している。立っていた状態から一瞬で意識が飛んで、容赦なく床に倒れるはずなのに体のどこにも鈍い痛みを感じないのはやはり妙だった。


 どうやら自分は床ではなく、昨夜いたリビングのソファに寝ていたようでそのまま頭だけを動かして部屋をぐるりと見ていく。窓の外を見ると、時々覗く晴れ間の奥は淡い紫色と水色が混ざり、日の出は近いようだった。 

 他に体に異常がないか点検するために少しずつ体を動かしていくと、ぽすっと頭に柔らかくて冷たいものが当たった気がした。

 頭上に手を伸ばすと案の定、もふもふした毛並みとつるりと滑らかな布の手触りを感じた。


「_____」

「み?」


 人間の言葉とは思えない何かしらの鳴き声を発して、そいつはぴょんとソファの背もたれに逃げていった。

 背もたれの上からこちらを見下ろしているのは、昨夜呼び込んだ黒猫だった。くわりとあくびを一つして、いつもよりも眠そうな目を向けていた。


 注意深く点検してみても、私の体には特に変化も異常もなかった。本当にただ単に私の昏倒にこの吸血鬼をつき合わせてしまっただけらしい。

 しかし、それでもだ。


「ねぇ、これはお前がやった?」

「___」

「ならどうして放置しなかった」


 思いの外自分から低い声が出た。正直ぶっ倒れてそれを放置されても、それはそれでよかった。なんならその方がよかったとまで思う。そのままさっさと帰って欲しかった。知らないうちに介抱されても嬉しくもなんともない。


ここでお礼でも言えればまだ可愛げはあったのだろうけど、生憎自分にはそんなものは無かったし、今は知らない間に誰かに触れられたという事実からの悪寒で手一杯だった。

自然、口調も詰問のようになってしまう。物言わぬ黒猫相手に横暴もいいとこだったが、それほどに自分の中で突発的に膨れ上がった拒絶感で余裕がなかった。


「お前、ずっと何のために私に会いに_」

「食べてしまうよりかは、良いと思って」


 返ってこないとたかを括っていた答えと知らない声に、思わず口から空気が漏れる。瞬きの間に目の前にいた黒猫の場所には、月色の髪を持つ吸血鬼がいた。


 ♦︎


 初めて声を聞いた気がした。いつも猫の姿でだんまりを決め込んでいるし、人型の時でも黙って人間を捕食してる姿しか見てなかった。

 ようやく聞けたそいつの声は夜に溶けるような心地のいいものだと思った。それと同時にひどく胡散臭い声だとも思った。


「それとも、喰べて欲しかった?」

「……いいえ」


 目を細めて薄く笑うそいつからは猫の時よりもかなり威圧感を感じたが、最初に見た時と同様美しい鬼だった。

返答にもどこかはぐらかすような含みを感じる。質問したとてはなからまともに答える気はなさそうだった。

 いや、吸血鬼の思考なんて人と違うと言われてしまえば、今の回答もそのままの意味だったかもしれないが。


「もう帰って」

「僕に用があるのに?」

「話す気もない奴が何を言ってるの」

「無理矢理聞こうとしてるのは君だよ」


 殺人鬼も逃げ出すほど無惨に人を喰い殺しているくせに、思いの外穏やかな口調だった。黒猫の時に何度聞いてもムッと顔を顰めてたり、前足でてしてしと抵抗していたのは本当に私に何も聞かれたくなかったからということだろうか。

 はてと拒絶された内容に首を傾げる。聞かれたくないも何も、私は何の用かとだけ聞いていたはずだったがそれが気に入らなかったらしい。訳がわからない。


 人型でも眠そうなそいつはソファの背に寄りかかってうとうととしている。頭が少し揺れるたびに長い髪が肩から落ちていく。無駄に美人なことに腹が立ってきた。眠いなら早く帰って欲しい。私も眠い。お前がいると眠れない。本当にどうしてこいつは眠気を殺してまでここにいるんだ。

 私の目つきがだんだんと険しくなっているのを見たのか、んー、と眠たそうながらもそいつは口を開いた。


「君も僕の質問に答えてくれるなら、君が知りたいことをちゃんと教えてあげる」


 僕も聞きたいことがあったことを思い出した、とくすりと笑う。


「眠いから早く答えてね」

「私からなの」


 意思疎通出来たから少し油断したがこの吸血鬼、かなり傍若無人なんじゃないだろうか。人の話を聞いているようで聞いていないし、おそらく聞く気もない。独裁や専制君主にこういう奴がいるととんでもないことになるだろうな、とあらぬことを考える。本当に眠い、今夜もう一回昏倒したらどうしようかな。


「君の名前が知りたい」

「嫌」


 即答だった。よく知らないやつに名前を知られるのは悍ましすぎて嫌だし、人外に名前を尋ねられて自分から名乗るのも危険で嫌。まずどうして聞いた。


「だめ?」

「嫌」

「なら、君が聞きたい答えも内緒」


 会話が不毛すぎる。帰らないならせめて猫に戻ってくれ。気が遠くなってきた。頭が痛い。原因の相手はもう目がとろんと溶けており、眠気が限界のようだった。


「寝ていい?」

「ここで?」


 だって眠くて、と遂には幼児のようなことを言い出す始末。次に私が何か言い出す前に、吸血鬼の姿は黒猫に戻っていた。そのまま私が倒れるまでいたであろうクッションの上で丸まり動かなくなった。


 これ以上他人が近くにいるのを許したくはないけれど、どうにかしようとしても目の前の姿は猫で無碍にも出来ずため息をこぼす。

 カーテンからは朝日が差し込み始め、確かにこの時間では吸血鬼は眠いのかもしれないなとぼんやり黒猫を眺める。

 家の中に日が差し込まないよう、きちんとカーテンを閉め直して仕事に行く準備を始めた。 


 ♦︎


「イザベラ」

「違うよね」

「ガレッタ」

「ロザリオから聞いた気がする」

「マリー」

「君のものではないね」


 もう何度このやり取りを繰り返しただろう。


「ヘレナ」

「君のは?」


 私があの黒猫を家に招いてからというもの、猫の出現場所が博物館から私の家に変わった。数日に一回の頻度でちりんと鈴の音と共に尋ねてくる。尋ねると言っても、クッションの上かソファの上に突然現れるので毎回必要以上に驚いてしまうが。

 おそらく一度招いたせいだとは思う。あの吸血鬼が神出鬼没にどこでも現れることができるなんて知らなかった。とはいえ、やはりやらかしてしまった感がある。吸血鬼にそんなことができる奴がいるなんて聞いたことなどなかったはずだが。


 吸血鬼は来て何をするでもなく猫のまま丸まって寝てるだけの時もあれば、何の気まぐれか人型になって私の名前を聞き出そうとしてくる時もある。人型の時も無理矢理聞き出すことはなく少し話して飽きるか眠くなるかすると、猫に戻って眠ってしまう。

 そして活動時間は夜の間だけ。朝、昼になるといつのまにかいなくなっていた。カーテンをきちんと閉めてはいても日光は入ってくるもので、それはいただけなかったのだろう。


 結果的に言えば割と無害だった。猫の時は撫でさせてもらえるし、まずリビングのクッションやソファの上から動かなかった。いる時には必ず鈴の音がする。人型の時も基本は猫の時と同様動かず、私と会話だけしていた。


「君は体が弱いの?」

「そうね」

「何度も倒れたことが?」

「ええ」

「危ないとは思わないの」


 それが危ないなら人喰いの吸血鬼を招いてしまった今は危なくないのかと、問いただしたいところではあった。こんなような割とどうでもいいことを質問してくる時もあるが、名前を教えない限りは吸血鬼が私のあの質問に答えることはないようだった。

 吸血鬼は少し思案した後、テーブルにことりとどこから取り出したのか小さな鈴を置いた。黒猫の時にそいつがヴェールにつけているのと同じもののように見えた。


「どうしようもなくなったら鳴らして」

「どうしようもって」

「死んでしまうかも、とか」


 死にたい時にも鳴らしていいよ、とゆるく微笑みこちらを見る。どこまで本気でいっているのだろう。


「鳴らすとどうなるの」

「様子を見にきてあげる」


 言葉を交わしたここ数週間でこいつの性格はなんとなく把握したが、やはりなかなか性根が歪んでいそうだった。というより暴君の適性がありすぎるように思える。個人的に助けてあげると言われるよりかはいい気がするが、様子を見にくるってなんなんだ。単に他人が苦しむ様子を見たいだけに聞こえるし、なんならそれで合ってる気もする。

 試しにその場で鈴を動かしてみる。揺らしても音は鳴らず、舌もない。これでどう鳴らせというのだろう。しかし、吸血鬼は目を細めて笑んでいた。


 ♦︎


 その日は気分が悪かった。昼間から頭痛が治らず足元が覚束ない。結局、昼までには帰ってきて、カーテンを閉め切った薄暗い部屋をそのままにバスルームに向かった。吐き気と悪寒がひどくてひや汗が気持ち悪かった。

 どうしてこんなに体調が悪いのかと問われれば、いつも通りとしか言いようがない。頻繁にとは言わずともよくあることではあった。最近は自分の家に他人がいることもあり、慣れてきてしまったとは言え環境的に負荷がかかったのだろうと思う。

 いくら無害でも今までずっと他人を警戒して自分の周りから排除して生きてきたのだから、急に厳重警戒の対象が近くにいたら体調も壊すだろう。猫じゃなかったら本当に許してない。猫でも人間だったら許してない。


 なんとかシャワーを浴びてバスルームを後にする。しかしいつも通りとは言っても、さらにいつも通りに冷水でシャワーを浴びたのが悪かったのか悪寒がひどくなったような気もする。温水を使うのと悪寒がぶり返すの、どちらがマシかと言われたら悪寒の方がずっとマシだからこれでいいけど。

 頭痛で眩暈がする。意味はない気もするが薬を探し、そしてないことに苛つく。悪寒は止まない。

 ふと薬と同じ棚に鈍い光を見つけた。吸血鬼が置いていった鈴をここに放り込んだことを忘れていた。見つけたからなんだというんだ。いつも通りの体調不良で他人を呼びつける必要なんてないと、雑に鈴を薬箱に投げ込む。鳴らしたところで来るのはあいつだし、まず鳴らないし。いや鳴ったとしても来ない気もする。絶対来ない。


 ベッドに向かおうとして、玄関からノックと配達員の声が聞こえる。この際無視しようかとも思ったが、しつこいノック音と配達員の男性の大声が不快すぎて嫌々玄関に向かう。こめかみを抑えながらドアを開けると、中から聞こえた声のイメージと寸分違わぬ若い男性がにこやかに立っていた。昼過ぎの日光が目と肌に痛い。

 配達物を受け取り扉を閉めようとすると男性の手でそれを阻まれる。瞬間的に頭がはっきりして心が平坦に冷えていく。手を取られ、感じた人間の体温に殺意が湧く。男性から女性への挨拶としては別にこんなことよくあることだが、それを私に当てはめないで欲しい。男性はフレンドリーに私との会話を続けようとしているが、こちらはそんな気は毛頭ない。そもそも誰だお前は。

 黙れ触るな殺すぞ。


 今代の聖騎士の腕が吸血鬼の王に吹っ飛ばされてそろそろ引退するだろうとか、この季節の見頃の花とか頼んでもいないのに配達員は勝手に話し始める。苛つきがピークになってきたので、ハキハキとした大声でペラペラ喋る男性を睨みつけて舌打ちをすると、案外素直に扉を閉めることができた。

 施錠した途端悪寒と吐き気と頭痛が倍になってぶり返す。本当勘弁して欲しい。

 大声は嫌い。無理矢理なのも嫌い。暑いのも熱いのも嫌い。人間が嫌い。太陽が嫌い。

 ただでさえ具合が悪いのに、殺意と嫌いなもので頭が溢れてどうにかなりそうだった。


 ガンガンと痛む頭を抱えてうずくまる。どうしようとも痛いものは痛いし不快なものは不快だった。息苦しい。さっさと死ねたら楽だろうかと考えて、あの吸血鬼が思い浮かぶ。

 本当に死にたいと言って呼んだら、あいつはどうする気なのだろうか。

 意味のないことを考えて余計に疲れた。せめてベッドに向かおうと体を動かすも、もうまともに自分の体を保つこともできなかった。

 まずいと思ってもすでに遅く、倒れた痛みを感じる前に私は意識を手放した。


 ♦︎


 寒気がする。ぼんやりとした視界で窓を見ると晴れていた空はなく、しとしとと雨が降っていた。

 またソファに寝ていた。今度は純粋になぜ、と思う。寝室に向かう途中で倒れたはずで、前回自分を運んだと思われる吸血鬼は今はいない。鍵を閉め忘れることなんてない。ならどうして自分は移動している。

 回らない頭で考えても埒があかなかった。寒気はするのに額は熱い。このまま静かにぼーっと天井を見ていると、緩やかな悪夢に堕ちそうになる。それでもいいかと目を閉じた時、自分以外の寝息が聞こえた。


 思わず跳ね起きて、揺れる頭を押さえつける。そのままぐるりと部屋を見渡しても、自分以外はいないように思えた。しかし確かに近くで聞こえた気がした。

 もしやと思いソファの背から裏を覗き込む。するとソファを盾に昼間の光から隠れるようにして、暗い金髪が床に散らばっていた。今はまだ夜ではないというのにあの吸血鬼が人型のまま、ソファの裏にもたれて眠っていた。


「なんだお前か……」


 改めて警戒したのが馬鹿馬鹿しくなり、ため息と共に気が抜けていく。そのまま眠ってしまおうと思いかけて止めた。

 今度はゆっくり起き上がって吸血鬼の近くに座り込む。瞼はしっかり閉じられて、寝息は規則正しく小さかった。


「起きて」

「ん……」

「ダメ。起きて」


 何度か声をかけるとうっすら目を開けて、こちらを見たかと思えばすぐに目は閉じてしまった。しかし少しは完全な睡眠からは覚めただろう。


「お前が私を運んだ?」

「……うん」

「昼間なのに?」

「……おと、が」

「音?」

 

 こいつから音と聞いて出てくるのは、あの鈴の音しかないが私は鳴らした覚えなんてない。もう一度薬箱に戻って鈴を拾い上げると、あいつが薄く目を開けてこちらに目をやった。すぐに閉じたが。

 どうやらこの鈴は普通には鳴らないが、あいつにだけはその音が聞こえるらしい。さっき乱雑に薬箱に放り込んだ時にでも鳴ったのだろう。私は当然聞こえなかったが。

 吸血鬼はその音を聞いて昼間なのにわざわざ出向いてくれたらしい。事前に聞いていたものより随分と穏やかな対応だと思った。


「どうして」

「……ん……?」

「どうしてお前は私に会いにくるの」


 眠りに落ちそうな今なら答えてくれるだろうか。なんとなくはわかってる。原因はわからないけど理由はわかる。だから言ってくれれば。


「……内緒」


 言ってくれれば拒絶できるのに。こいつはそれを多分わかってる。だから教えてくれない。教える気がない。

 眠いながらも静かに言葉を落としてくれた吸血鬼は、もはや完全に寝息を立て始めていた。

 ふと思い至ってそいつの手にそっと触れてみると、やはり人間ではありえない冷たい温度だった。


 大声を出さなくて、無理矢理でなくて、暑くも熱くもない。人間でもない。太陽というよりは月のようで本人も太陽が苦手。

 そしておそらく私の中身を察して黙ってくれている、猫になれる吸血鬼。

 そいつからは少し離れて同じくソファの裏にもたれかかる。隣から聞こえる静かな寝息と日陰の冷たい温度がやけに落ち着いて、そのまま目を閉じた。


 ♦︎


「カタリナ」

「違うよね」

「サブリナ」

「手抜き?」

「リーゼロッテ」

「よくそんなにたくさん思いつくね」


 よくやるね、とこちらを伺う吸血鬼に今の言葉をそのまま返してやりたい。私の質問に答える気がないのに、こいつもよくやるのもだと思う。むしろ私が答えないのを分かりきって遊んでいるのか。私が答えないならあいつも答える必要はないし。

 あの後、昼間から深夜まで眠ったらだいぶ体調は戻った。今は眠くないそいつに背を向けて手紙を開封していく。


「イリス」

「また違う」

「ルージュ」

「君の名前を呼びたい」

「オルドレット」


 しれっと本名入れてもバレないだろと、言ってみたものの返答がない。流石に疑問になるくらい沈黙が続き、思わず後ろを振り返る。

 すると、目を丸くして微かに頬を上気させた吸血鬼がこちらを見ていた。


「何をそんな驚いて」

「いや、うん……だって」


 オルドレット、と嬉しそうに目を細めるのを見るとやっぱりそうか、と思ってしまう。溶けた瞳を直視できなくて顔を逸らす。でもなんで私の名前を言ったとバレたんだ。


「ねぇ、どうして私の名前だってわかった」

「内緒」

「知ってたの?」

「どうだろうね」

「どうしてお前は私に会いにくるの」


 吸血鬼は先ほどの溶けた瞳のまま口を開く。


「食べてしまうよりかは、いいと思って」

「答え変わらないじゃない」


 ちゃんと答えるって言ったくせに、と文句を言うと静かにくすくすと笑って流される。


「名前、私だけ知られるのは癪」

「いいよ、僕のも君にあげる」


 ギルベルト、とそいつは名乗った。私は教会にしばらくいた時期もあったけれど、やはり知らなくて首を傾げる。

 街一つ被害が出るほどの怪異なら名前も容姿もわれて討伐対象になっていてもおかしくはないのに、なぜこいつは野放しにされているのか。

 ただ普通の怪異とは別に被害は災害級だが名前は割れていなくて、聖騎士以外が対敵するのが危険すぎて討伐対象にはならない。だから何も情報が出ないし知られていない。そんな要件に当てはまる対象がこの世に三体、存在することはするが。


「お前、最近聖騎士に会ったか?」


 確認のために尋ねると、そいつは今までの上機嫌を退げて途端にムッとなる。

 黒猫の時に抱っこしようとして嫌がっていたのと同じ顔をしている。そんなに嫌なこと聞いたか。


「……会った」

「会ってどうした。あと別に私はお前に怒っているわけではないから」

「……腕を引きちぎった」


 自白した。こいつが件の吸血鬼の王様だった。吸血鬼の王は天災と呼ばれるほど危険で、聖騎士以外が対敵することは禁止されている。その聖騎士も最近腕を吹っ飛ばされたらしいが、その原因が目の前にいるとは思わなかった。王様は猫なのか。 

 そいつはまだムッとしていたがわりかし素直に答えてくれた。こいつがはぐらかす質問の種類もなんとなく推測がついた。とりあえずは十分だろう。


「拗ねないで。私はもう寝るから」

「そう、おやすみ。オルドレット」


 そういうと吸血鬼はまた黒猫になってソファに丸まった。私はというと寝室に向かう前に眠ろうとしてる黒猫にそっと近づいて、丸くなった毛玉を勢いで持ち上げる。そして嫌がられて抵抗される前に抱きしめる。重さは思ったよりなかった。というより中身がないようにも感じた。こんな軽いなら前から抱っこしてみればよかった。


「____!!!」

「そうね、暴れないで。何言ってるかわからないけど」


 文字にすると「ミ゜」だろうか、相変わらず聞き取れない鳴き声を発して腕から脱出しようとする黒猫もとい吸血鬼。


「大人しくて、あんまり暴れると私が倒れるわよ」

「_____」


 ムッとした顔になって明らかに不満なのは感じ取れるが、それでもそういうと大人しくなった。ぎゅっと黒猫を胸に抱えなおしてそのまま寝室に向かう。


「__」

「降ろせって言ってることはなんとなくわかるけど、嫌よ」


 黒猫をベッドに下ろすと脱走する気配がしたので、抱えたまま潜り込んでそのまま猫を抱き枕のようにする。


「____」


 抱えたものからなんだかものすごく不満そうな唸り声が聞こえるが無視して、艶やかな毛並みを撫でながら目を閉じる。こいつがその気になればいつでも私の腕から抜け出せるだろう。


 ♦︎

 

 心地よかった。静かで人ではありえないほど冷たくて、そんなこいつの隣では自分でも驚くほどよく眠れた。

 あいつが私の中身を推して知っている様に、私もあいつの中身がわからないわけじゃない。名言はしなくとも本人の態度が隠そうともしていないし。私に対して色々配慮しているだろうこともわかる。人型になろうとしなかったり、分かりやすく鈴を音を鳴らしたり。抱っこを嫌がるのはどうしてかはわからないが。


 だから、余計にあの月の様な吸血鬼を嫌いにはなりたくなかった。私がもつ「好意を向けられることが嫌い」という感情のせいで、私を慮ってくれたあいつを嫌いにはなりたくなかった。

人間なんかよりずっと美しくて苛烈な鬼の感情を、どろどろ煮詰まった自分の感情を通して認識したくはなかったし、それを吸血鬼に向けたくもなかった。

 

 博物館で人を喰べていたあいつは本当に人間からかけ離れすぎて、恐ろしいほど綺麗だった。そして自分にも月に見惚れる感情くらいはあって、それがさらに厄介だった。

その上、自分の感情を他に向けることも許せないから、私の名前を呼ぶ時のあいつの顔をまだちゃんとみることができないし、教えてもらった名前を呼ぶこともできない。

 倒れた時に助けてもらったお礼も言えない。


「猫は好きなの」


 唸り声が止む。もう一度ぎゅっと黒猫を抱え直しその冷たさに安堵する。


「だから、今はこれで許して」

 

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