第3話 師匠 ①
標高二千メートルにも及び、霊山として崇められている
その麓には、数千人の人々が暮らす藤棚の里があり、近くを流れる大郷川を水源に、一面の田畑と豊かな自然に恵まれた土地が広がっている。
見渡す限りの大自然に囲まれた一方で、藤棚の里は国の指揮の元、ここ数十年の間に居住区や商業区、それに公共施設などの区画整理や、電気や水道の整備が進められて、西洋化の進む都市部にも負けず劣らずの発展をしてきた。
すでに里ではなく、街と言っても過言ではないだろう。
里の商業区には米や醤油はもちろん、仕立て屋、呉服屋、鍛冶屋、銭湯、銀行、診療所など、ありとあらゆる店が軒を連ねており、一次産業から二次産業、ちょっとした三次産業まで、この里だけで完結している。
その商業区から役所を望む大通りの方には、里の象徴でもある大きな藤棚が設置されており、卯月から皐月にかけて満開を迎えると、里内外の多くの人々を喜ばせる。
そんな遠の昔に旬が過ぎ去ってしまった藤棚の里に、私は二か月に及ぶ長旅を終えてようやく帰って来ていた。
未だに電気も水道もひかれていない場所にある、竹林に囲まれた茅葺屋根の愛しい我が家。そのボロ家でゆっくりしようと考えていた私に、白髪交じりの短髪の男性が
「さっさと行ってこい」
「どこに?」
「
我が家の狭い土間を、しかめっ面で占拠している青い
彼の名は
「お師匠。見てわかりません? 私、楽しみにしていた藤棚の旬を逃してまで仕事を全て終わらせて、二か月ぶりに自宅に帰って来たばかりなんですけど?」
不愛想な顔を向けてくる師匠に、私は疲れているんだとわざとらしく首と肩を回して見せる。すると、それを見た彼の眉が微かにつり上がった。
「六歳で俺に弟子入りして十年。なんの為にお前は『
「なんの為にって……それはまぁ、弱き者を理不尽な死より救うためですけど」
──
普通の人間では太刀打ちできない異形と呼ばれる存在、それと厄災と呼ばれる現象などを滅することを目的とした者たちのことである。
異形のモノたちはいつから存在し、なぜ厄災が起きるのかは未だに解明されてはいない。ただ、それらは容赦なく人々に襲いかかり、甚大な被害をもたらす。
私はそんな理不尽な暴力によって死を迎えてしまう人々を、少しでも減らすことが出来るならと、陰祓師という過酷な道を志した。
かくいう私も、小さい頃に出会った、ある陰祓師によって命を救われている。
生れ育った里を凶悪な異形に襲われ、何の力も持たない幼い私は、為す術なく目の前で両親を亡くした。
強くて頼もしい父と、美しくて優しかった母。
そんな大好きな両親を失ったショックで、私はその時に何が起こったのかを詳しくは覚えてはいない。だが、あの恐ろしい異形から私を助けてくれた陰祓師の後ろ姿だけは、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
そんな、尊敬して憧れる人に少しでも近づきたい。
その想いを胸に、私はここまで必死に鍛錬を積み、技を磨き、心を鍛え、そして日々精進してきた。
脇目もふらずに、一心不乱に修行に励んできた。
『私を助けてくれた陰祓師みたいに、弱きモノを救うため』
そう、それは絶対に曲げられない想い、私の信念なのだ。
「なら、返事は?」
そんな私の想いを知っていて、師匠はそれを逆手にとって反論するのを許してはくれない。心底、意地が悪い人だなと思う。
「はぁ……」
師匠から視線を外して、私は小さな溜息をつきながら
「ようやく家に帰ってきたばかり……」
彼は静かに紫煙を
私は昔から、師匠のその目が大嫌いだ。
人を威圧して、自分の意に反する意見を真っ向から否定する。その目が大嫌いだ。
「お前に話を持ってくるってことは、分かるだろ?」
汚れた草鞋を脱ごうとしていた手を止め、しばし心を落ち着ける。
……正直言うと、私は少し体を休めたいと思っていた。
この二か月の間、まともな食事も寝床にもありつけずに、ずっと移動と異形退治を繰り返す日々だった。
そんな精も根も尽き果てた私に今一番必要なのは、何者にも邪魔をされずにゆっくりと自宅の布団で熟睡することだ。
人手不足にも程がある!
とは思いつつも、話を聞いてしまったからには、苦しんでいる人を見て見ぬ振りをするなんて事は私には出来ない。
そんな事をすれば、それこそ何の為に陰祓師になったのだと、私は自分自身を一生許す事が出来ないだろう。生きている限り、ずっと後悔し続ける。
だから私は、体を放り投げて大の字で寝っ転がりたい気持ちを抑えつつ、いつも通りに返事を返した。
「わかりました、行きます、行きますよ。お師匠が言う様に、私に話が回って来るって事は、よっぽど厄介な話なんでしょうし」
そうして、脱ぎかけた草鞋を履き直し始めた。
「初めからそう素直に返事をすればいいんだよ、まったく……」
「ホント、誰に似たのやら。師匠の顔を見たいものですね」
「へへっ、さぞかし男前なんだろうな」
「あ~、はいはい。言っててください」
そんなやりとりした後、師匠はおもむろに薄汚れた紙幣を数枚差し出してきた。
「おう、忘れるところだった」
私はそれを一瞥してから、履き直している草鞋へとすぐさま視線を戻す。
「なんですか? それ」
「何って、二か月分の給料だよ。仕事で居ないお前に代わって、俺が頼まれて預かってたんだよ」
「あぁ……そっか」
しばしの間の後、私は再び草鞋を履き直すために指を動かした。
「そもそも、一体誰のせいで受け取れなったんですかね?」
「俺だってな、好きであんなに仕事を押し付けたワケじゃねぇよ。頭領が厄介な仕事はお前に回せって言うんだから、仕方ないだろ。いいから、さっさと受け取れ」
「……」
お金が無くても生きてはいけると、私は考えている。だがしかし、こと人間社会に於いては、お金が無ければ物事を円滑に進める事が出来ない。
仕事の為には道具がいるし、刃物だっている。人前に出るには着物もいる。
それに、家や身の回りの修繕、米や野菜、醤油や味噌、塩に砂糖、と挙げ出したらキリがない食品全般。それらすべてにお金が必要なのだ。
あと、最近、大阪でとても流行っている蝶と桜の絵柄が入った着物が欲しいと思っていたところだった。
この仕事が終れば、ゆっくりと買いに出かけたい。
「てか、多くないですか?」
「これは、頑張ってる弟子への小遣いみたいなものだ」
そう言って師匠は、紙幣を私の顔の前まで突きつけてきた。
──ホント、この人は素直じゃないなぁ。
と、素直じゃない私が、やれやれと首を振る。
「そうですか、ではありがたく」
私は感謝の言葉を口にして、師匠なりの気持ちと紙幣を受け取ると、再び出かける為に必要な物を道具袋に詰め込み始めた。
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