一万円分のセックスを終えて、父親は風呂場に消えて行った。俺は仰向けになったまま天井を眺め、じっと動けずにいた。

 目に浮かぶのは、俺の上で腰を振っていた父の姿ではなくて、一粒の涙を流した父の姿だった。どんなに貶めようとしても、平然と笑っていたくせに、なぜ、涙まで。

 父親は、すぐに戻ってきた。あっけらかんと、裸のまま。

 「風呂、お湯溜めときましたから。休憩時間はあと二時間くらい残ってるし、ゆっくりしてってください。」

 そう言って、ひょいと下着を拾い上げる父親の手首を、俺はほとんど無意識に掴んでいた。

 「なんで、泣いたんだよ。」

 ぎすぎすと掠れる声で問いかけると、父親は、なにを訊かれているのか分からない、と言いたげに首を傾げた。俺は、その仕草に苛立つ。あのとき確かに父親は涙を拭った。気が付いていないとは、言わせない。

 「なんで、泣いた。女抱けないのかって訊いたら、あんた、泣いたよな?」

 問いを重ねると、父親は困った顔をした。それはどこか芝居がかった表情で、面倒くさい客にはそれを向けることが、父親の中で決まりになっているみたいだった。

 「一回一万円。それが私の値段だし、私にとってのあなたの値段ですよ。」

 困ったな、と言いたげに肩をすくめた父親。俺は、鴨居にかけたコートのポケットから一万円札をもう一枚引っ張り出して、父親の胸に押し付けた。

 「答えろよ。」

 金なら、出すから。

 父親は、躊躇いも見せずに札を受け取り、ハーフコートのポケットにねじ込んだ。俺は、その動作に傷ついたはずだ。一回一万円が、私にとってのあなたの値段。その言葉にも、確かに。だって、目の前にいる男は、実の父親なのだ。この世に、たった一人の。その価値は、この男にとっては、値段がつけられるようなものだったのか。無償の愛、なんてねぶたいことを言う気はないが、それでも、一回一万円、は即物的すぎはしないだろうか。

 「女、抱けないんですよ。ほんとに。」

 金を受け取った父親は、水が高いところから低い所に流れるみたいにあっさり、そう言った。 

 「泣くほどのことでもないと思ってるんですけど、泣きましたね。」

 「……この商売、はじめてから?」

 「いいえ。以前から。」

 あなたの母親以外は、と、ごく低い声で父親は言った。それは、短い祈りの言葉にも聞こえた。俺は、その祈りの密度と言うか、重さというかに押されるみたいに黙り込んでしまった。すると、父親はひっそりと微笑み、俺のこと、殺すつもりだったでしょう、と言ってのけた。

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