第24話 最初の女
志乃は記憶を消す前『幸子』という名前だった。
実家は銀座に店を構える呉服屋で、当主の次女として生を受けている。
女ばかりの4人姉妹で、長女が婿を取って家を継ぐことは幼いころから決められていた。
三女は奔放な性格で、大学をでてすぐに駆け落ち同然で家を出てしまう。
末っ子の四女は人見知りで、いつまでたっても母から離れないような子だった。
父が決めた相手との結婚を、戸惑いながらも受け入れた幸子だったが、その相手がとんでもない男だった。
実権を握っていた義父が亡くなると、病身の義母を施設に入れて、結婚前から囲っていた女を家に入れた夫。
妻妾同居は嫌だと泣く妻に、容赦なく拳を振るい幸子は右耳の聴力を失った。
店の仕事は番頭に任せ、昼間から愛人と庭に面した座敷で痴態を繰り広げる。
まるで自分の方が立場が上だと言わんばかりに、裸で抱き合ったまま正妻に酒を持ってこさせる愛人と、それを咎めようともしない夫。
番頭に言われるがまま店頭で客を迎える幸子の心は、どんどん疲弊していった。
里帰りは許されず、出掛けるにしても必ず丁稚がついてくる。
店の宣伝のために贅を尽くした着物を纏い、使用人を連れて歩く幸子の姿に、友人たちは賞賛の声を上げつつも、隠しきれない妬みを浮かべる。
誰にも相談さえできない。
夫との閨を拒む幸子が懐妊などするはずもなく、従業員にも『石女』と陰口をたたかれ、店での立場も悪くなる一方だった。
顧客に誘われて出掛けた歌舞伎座からの帰り、その日もついてきていた丁稚に小銭を握らせて老舗和菓子店の最中を買いに走らせた。
そのまま皇居の濠に身を投げるつもりだったが、思いのほか早く丁稚が戻ってきてしまう。
顔中に汗をかき、焦った表情を浮かべる丁稚の懐に、幸子は自分の財布を差し込んだ。
「あんた、このまま帰ったら酷い目に遭うかもしれない。それが嫌ならこのままお逃げ」
ふらふらと歩き始めた幸子の後を、泣きそうな顔でついてくる。
まだ幼い顔立ちのこの子が、自分の我儘で折檻されるかもしれないと思うと、申し訳なさで胸が押しつぶされそうになった。
それでももう戻りたくない。
あの地獄に戻るくらいなら死んでしまいたい。
思いを定めて濠端の柵に手をかけた幸子を引き止めたのが、徒然の父である本田松延だった。
「危ないよ。死ぬには早い。それに心の内を全部吐き出してからじゃないと浮かばれないぜ」
松延の声が幸子の疲弊した心を揺さぶる。
懐かしいような気分にさせるその声に、幸子は全てをぶちまけていた。
「そりゃきついね。ひどい仕打ちだ」
「もう全部終わらせたいのです。後生ですから死なせてください」
「ご実家には頼れないの?」
「実家は……姉の代になって傾いてしまって。うちの店に借金をしているような状態です」
「そうか、それじゃあきっと頼っていっても戻されてしまうね」
「ですから!」
「いや、止めた方がいい。そうだ、私と一緒においで。助けてあげられるかもしれない」
「でも……」
「この子も一緒に引き取ろう。そうすれば君も安心だろう? 死ぬほどの決心をしたんだもの。何を怖がる必要がある?」
導かれるように幸子は松延の手を取った。
本田松園はタクシーを拾って、後部座席に二人を押し込み、自分は助手席に座る。
走り出したタクシーのシートに身を沈め、幸子はボロボロと涙を溢した。
到着したのは千鳥ヶ淵の手前を左に入った閑静な住宅地で、大きな門のある日本家屋。
書生らしき若い男衆が出迎えた。
本田松園と名乗ったその男性は『先生』と呼ばれているようだ。
「家族は家内だけだが、あと4人ほど住んでいる。部屋は余っているから遠慮なく使うといいよ。さあ君はこちらにおいで」
そう言うと玄関に幸子を残して、丁稚の少年を連れて庭の方に行ってしまった。
「どうぞ、こちらへ」
自分の母親くらいの年齢の女性が、真っ白な割烹着で志乃に声を掛けてきた。
言われるがまま通された座敷は、立派な日本庭園に面しており、優雅にたなびく藤の花房が印象的だ。
「先生もすぐに来られます。どうぞゆっくりなさってくださいませ」
放心状態で藤の花を見ていたら後ろから声がかかり、一気に現実に戻された。
「家内を紹介しておこう。彼女は体が弱くてね、ほとんど床に臥せっているんだ」
そう言うと幸子の手を取って立たせ、離れに続く渡り廊下へと導いた。
大きな桜木が縁側に木陰を作り、病人にとっては居心地の良い風を吹かせている。
「小夜子、入るよ。お客さんだ」
松延に続いて入室すると、青白い顔色の女性が儚げな微笑みで出迎えた。
「いらっしゃいませ。こんななりで申し訳ありません」
幸子は慌てて名乗り、死のうとしていたところを松延に助けてもらったのだと言った。
「そうですか、どうぞごゆっくり滞在なさってくださいね」
半身を起こしているのも辛いのか、小夜子と呼ばれたその女性は小さく咳き込んだ。
「今日は随分顔色がいいよ。でも無理はいけない。もう横になりなさい」
松延に促がされ退出すると、廊下に控えていた書生が音を立てずに障子を閉めた。
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