第23話 呟く男

 美咲を寝室へ送った後、徒然はテラスへと戻ってきた。

 飲みかけのグラスにワインを注ぎ足し、遠くで光る船の灯りを眺める。


 翻訳作家の三谷澄子から電話がかかってきた時、新しい連載を抱えていたこともあり、徒然は断る理由を探しながら話を聞いていた。

 あまりの必死さに断り切れず、会うことは承諾したが正直乗り気ではなかったのだ。

 今日なら時間をとると言ったのは、最後の抵抗のようなものだ。

 

 無理だと言うだろうという予想に反し、三谷澄子はすぐに向かうと言い徒然を困惑させた。

 しかし、約束は約束だ。

 来客があると志乃に伝え、徒然は書斎で読書をして待つことにした。


「いらっしゃいましたよ。昔の私のような目をした方ですわ」


 志乃の言葉に顔を上げた徒然は、急いで着替えてから客間に向かった。


「ようこそ。お久しぶりですね、三谷さん。どうぞお掛けください」


 おどおどと気まずそうに座るその女性を見た瞬間、徒然の体に電流が走る。


「本田先生、ご無沙汰しております。急なお願いにもかかわらずお時間を割いていただき、本当にありがとうございます。こちらがお話しした山﨑裕子です」


 あわてて立ち上がり挨拶をするその女性の姿に釘付けとなったまま動けない。


「山﨑……裕子と申します。本日はお時間をいただきありがとうございます」

 

 苗字を名乗った後、苦しそうに顔を歪めて、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 ああ、この人だ……徒然は唐突に理解した。


 この催眠療法は、父である本田松延が長い年月をかけて辿り着いた一つの答えだった。

 そのやり方を徒然に伝える時、松延は言った。


「実行するのは一生で一度だけになるだろう。もしかしたらそんな女性には出会わないかもしれない。でもね、もし出会ったら必ず助けてあげなさい。その相手は一目でわかるから。なんと言うか、体が痺れるような感覚になる。それが私にとっては志乃だったということだ」


 父の言うとおりだったと徒然は改めて思った。

 外国航路の貨物船だろうか、船が放つ光が点滅しながら少しずつ小さくなっていく。

 海風が少し強くなったテラスに佇み、徒然は回想を続けた。


 裕子の治療を始めるにあたり、様々な下準備が必要だった。

 その間は父のたった一人の治験者である志乃に世話を頼むしかない。


「お任せください。最初の催眠術をかけて貰えれば、後は私が進めておきますから。心配ですか? 私は経験者ですよ? ゆっくりと進めますからお任せください」


 確かに志乃はこの治療を受けている唯一の人だ。

 きっと裕子の状態は経験として分かるのだろう。


「ではお願いしよう。まずは浄化からだね。父の話によると浄化完了までの時間は概ね2週間だが、まあゆっくり進めよう」


「ええ、抱えている悲しみの深さや、辛さの度合いには関係ないって聞きました。その人の素直さが鍵らしいけれど、私は3週間もかかったから、きっと人間が素直じゃなかったのね」


 志乃が頬に手を当てて笑う。


「それはどうかな。父の机上計算では2週間ってことでしょ? 実践したあなたがそれだけかかったのなら、それが正しいのかもしれない」


 志乃はクスっと笑って藤棚の見える座敷に戻って行った。


 その日のうちに伝手を使って裕子の過去の調査を進めていく。

 報告書を読み、予想していたより随分悲しい思いをしていたことに衝撃を受けたが、一人の女性をここまで追い込んだ二人に激しい嫌悪感を覚えた。

 いろいろな準備が着々と進んでいく中で、改めて父の言葉を思い出す。


「実行できるのは生涯に一人だけなんだ。一瞬たりとも気が抜けないから、ずっとその人のことを考え続けることになるんだよ。惚れないわけがない。だから生涯で一人なんだよ」


 残りのワインを飲み干し、徒然は自分に問いかけた。

 いつの間に美咲を愛していたのだろう。

 今になっては思い出せないが、もしかしたら一目惚れだったのかもしれない。


「もし記憶が戻って、美咲が裕子に戻ったとしたら、お前は耐えられるか? さっきは偉そうなことを言っていたが、本当に実行できるのか?」


 後顧の憂いは取り払うと言った唇が薄寒い。

 あんな男の顔など見せたくもない。

 このまま二度と会うことが無いように、あの屋敷に閉じ込めて自分の腕の中で囲ってしまいたい衝動が徒然の中に湧き上がる。

  しかし、それではダメなのだ。


「この治療は彼女を自由にするためのものなんだから。自由を奪ってどうする」


 己の中に巣食うドロドロとした感情は、絶対に見せてはいけない。


「これほどまでに彼女に嫌われるのが怖くなるなんてな……ははは、父さん、恨みますよ。なんでこんな術を編み出したんだ」


 それにしても、安倍美咲の戸籍が利用できたのはいろいろな意味で良かったと思う。

 戸籍上は他人である美咲は、留学を目指していた時に知り合った外国籍の男に騙されて失踪してしまった。

 いつかは必ず帰ってくると信じている志乃には申し訳ないが、徒然はかなり早い段階で美咲の死亡を知っていた。

 信頼できる調査員の報告では、密航中の船から転落し、死体は上がっていない。


 生きていると信じているのか、そう思い込みたいだけなのか、探そうともしない志乃。

 年金や健康保険の金を払い続ける美咲の母親に、真実を告げることができなかった。


「でも裕子が美咲になって甦ったんだ。とうに気付いていた母さんにとっても、これで良かったのかもしれない」


 志乃は父松延が愛したただ一人の女性であり、徒然と美咲の母親だ。


「死んだ美咲と生まれかわった美咲、二人とも母さんのことが大好きだから」


 まるで海の底の砂になった美咲に届けるかのように、徒然の呟きを波が運び去る。 

 空になったワインの瓶とグラスをキッチンに運び、リビングの灯りを消した。

 大きく切り取られた窓のガラスに、もう粒のようになった船の明かりが浮かんだ。

 

「愛してる。心から愛してる……絶対に守ってみせるから」


 徒然は静かにリビングを出た。

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