第12話 決意した女
暫しの沈黙の後、本田が裕子の顔を見た。
「さて、妖精になりそうなお嬢さん。一番のあなたの望みは何ですか?」
裕子が顔を上げる。
「望み? 私が何を望んでいるかということでしょうか?」
本田は声に出さず頷いた。
「私は……もう消えてなくなりたいです。もし今死んで生まれ変わるのなら、海の底の……砂になりたい」
「なるほど。では本気だと捉えてよろしいのですね?」
「え?」
「記憶を消す件です。本気なのであれば、私の方も真剣に向き合う用意があります」
「あ……そうですよね……本気です。もう本当に……何もいらないのです」
「お友達も? 三谷さんとは仲が良いのでしょう?」
澄子が口を挟んだ。
「裕子の苦しみが消えるのなら、一旦友人はお休みします。裕子が楽になったら、もう一度こちらから声を掛けて『初めまして』から始めるつもりです」
「なるほど。これは本当に良い関係のようだ。でも三谷さん、そうだとしても数年は我慢してください。あなたの顔が解除トリガーになると拙いですからね」
「トリガー……数年は会えないということですか?」
澄子が裕子の顔を見た。
裕子は目線だけ下げて、顔色の悪いまま唇を嚙みしめている。
「わかりました。もう大丈夫と判断されるまで接触はしません。私は何よりも裕子に生きていて欲しいのです。今のままでは心配で仕事が手につきません」
「了解しました。その時が来たら必ずお知らせします。では詳細の説明からさせていただきますね。私の書斎に移動しましょう」
本田が立ち上がると、二人も慌てて腰を浮かせた。
客間を出て庭に面した廊下を進むと、中庭の上に古風な渡り廊下がある。
「すごいですね、時代劇のセットみたい」
澄子の率直な感想に、先を歩いていた本田が振り返って笑顔を見せた。
「なかなか雰囲気があるでしょう?でも台風の時なんて大変なんですよ。濡れるのを覚悟で走り抜けないといけない。今ではもう慣れましたが、幼い頃は滑ってよく転んでました。さあ、ここです。本ばかりで殺風景ですが勘弁してください」
案内された部屋は、本田の言うとおり床から天井まで、窓を除くすべての壁面が本で覆われていた。
机の上の小さなサボテンが所在なさげだ。
「すごい……」
「いつの間にかこんなになっちゃって。危うく床が抜けそうになって、慌てて補強したくらいです。さあ、こちらにお座りください」
モニターが二台置かれている大きな執務机が、部屋の真ん中で存在感をアピールしている。
その前に置かれている小さなテーブルと座り心地が良さそうなソファーが二つ。
ここに客を通すことは珍しいのだと一目でわかる。
「コーヒーと紅茶はどちらがお好みですか?」
コーヒーと答えた澄子の声に頷く裕子。
コーヒーメーカーをセットして、本田が執務机の椅子をゴロゴロと引っ張ってくる。
「どうぞ楽にして下さいね。まずは、私の方からお話をします」
本田はその椅子に深く座り、腹の前で指を組んだ。
「まずは、記憶を消すという作業は催眠療法の一種だとお考え下さい。私は医師免許を持っていますが、催眠療法に医師免許は要りません。なんせ民間療法ですからね。しかし私は、この催眠療法というものに大きな可能性を感じています。誰だって忘れたいことの一つや二つあるはずだ。普通はそれを時間と共に風化させる事が出来ます。それが人間です。しかし、今の裕子さんのように、人であることすらやめてしまいたいと思っている場合には、この時間治療は通用しない」
コーヒーメーカーが明るい音で出来上がりを知らせる。
立ち上がろうとする本田を制して、澄子が腰を浮かせた。
「私がやります」
「ではお願いします」
あっさりと澄子の申し出を受け入れた本田が、じっと裕子の目を覗き込んだ。
「勢いでやることではありません。これが最後の確認です。本当にやりますか?」
一瞬たじろいだ裕子が背筋を伸ばした。
「はい、私の記憶のすべてを奪ってください」
部屋には香ばしいコーヒーの香りが漂っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます