第11話 戸惑う女

 重厚なソファーが置かれ、奥の壁側にはマントルピースまである。


「すぐに参りますので、お掛けになってお待ちください」


 座っていいのか迷っていると、澄子が窓辺で手招いた。


「すごいよ、池がある。鯉もいるのかしら」


「ほんとすごいね。私には縁のない世界だわ……でも掃除が大変そう」


「気にするのそこ? 相変わらず貧乏性だねぇ」


「しょうがないでしょ? 身に染みついちゃってるんだから」


 話す二人の姿は、まるで女子高生のようだった。


「掃除は業者に委託するので、住んでいる人間はそう大変でもないですよ」


 慌てて振り返ると、二度見するほどスタイリッシュな男性が立っていた。


「ようこそ。お久しぶりですね、三谷さん。どうぞお掛けください」


 少し気まずさを覚えながら、澄子と裕子は並んで座った。


「本田先生、ご無沙汰しております。急なお願いにもかかわらずお時間を割いていただき、本当にありがとうございます。こちらがお話しした山﨑裕子です」


 裕子が立ち上がってお辞儀をした。


「山﨑……裕子と申します。本日はお時間をいただきありがとうございます」


 本田が着席を促し、胸ポケットから名刺を出した。


「本田徒然と申します。読みにくいでしょ? みなさん『つれづれ』と読まれるのですが、『とぜん』という名前です。お陰で学生の頃から今まで、一貫してあだ名は『ヒグラシ』ですよ。こっちの方がよっぽどひねりが入っていて気に入ってます」


 返事を迷うような本田の言葉に、苦笑いを浮かべていると、先ほど案内してくれた女性がお茶を運んできた。

 悠然と本田が頷く。


「ありがとう。ああ、こちらは安倍志乃さんです。子供の頃からお世話になっているお手伝いさんで、私の乳母でもありました。私の両親はすでに他界していますので、今は彼女がひとりでこの家を守ってくれています」


 二人は志乃と改めて挨拶を交わした。

 澄子が声を出す。


「相変わらずお忙しいですね」


「ええ、お陰様で忙しくしています。ひとつ大きな仕事が終わったので、今は久しぶりの長期休暇中なのですよ。お会いできてラッキーでした」


「それはこちらの方です。まさかこれほど早くお目に掛れるとは思っていませんでした」


「ご縁があったのでしょうね。山﨑さん、私の話は聞いていますか?」


「はい、記憶を消してくださるとか……それと、私のことは裕子とお呼びください。山﨑と呼ばれるのは……辛いです」


「それは申し訳ない。気遣いが足りませんでした。では、裕子さん。もう少し詳しくご説明しますね」


 裕子が頷く。


「三谷さんからどう聞いておられるのかは知りませんが、記憶を消すというより、一種の記憶喪失状態を作り出すと言った方が正しいでしょう。しかしその行為は、心のかなり深いところにまで干渉しますので、喪失した記憶を元に戻せるかと言われると『NO』と答えるしかない。それを了承していただけるなら、このままお話をお伺いすることも可能です」


 裕子が大きく息を吐いた。


「私の人生なんて消してしまいたい事ばかりです。子供の頃からの記憶も全部……もう……いらないんです。本当にもう何もいらないの……」


 裕子がぽたぽたと涙を落とした。

 本田はその様子に焦るでもなく、ゆっくりとハンカチを差し出す。


「そうですか。本当にお辛そうだ。あなたのまわりに悲しみの塊が見えますよ」


「え……悲しみの塊?」


「ええ、人はみんな何かの塊を持っています。出世欲だったり自己顕示欲だったり。金持ちになりたいとか、好きな異性を抱きたいとか抱かれたいとか。復讐とか恨みも、もっと言えば、愛情も同じ欲です。感情のほとんどは欲なのですよ。要するに人間って欲の塊なんです。でも今のあなたには、人が持っていて当たり前のそれが見えない。これはかなり危険ですよ」


「危険? どういうことですか?」


「先ほども言ったように、人間は欲でできているようなものなのです。言い換えれば、欲のない人間は人間じゃないってことだ。あなたは今『人間』をやめている状態です」


「人外?……いや妖精か?」


 澄子の独り言に裕子はぎょっとする。


「ははは! さすが売れっ子翻訳作家さんだ。面白い表現をされますね。確かにそんな感じです。人外かぁ……上手いこと言うなぁ。でも裕子さんの場合は後者に近いかな」


 裕子はどうして良いのかわからず戸惑うしかなかった。

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