軟弱男恋愛譚

大野其処許

軟弱男恋愛譚

 多分俺は日野のことが好きだと思う。妹のようだ、という第一印象のままでいるのが流石に厳しくなってきた。毎日放課後に同じ空間を二時間ほど共有していては無理のない話だろう。

「進捗はどうだね」

 俺はパソコンの画面に目を落とす日野の顔を見る。大きく優しい目にはラクダのように長いまつ毛。細く通った鼻に、厚みも色も薄い唇。見るたび呼吸を忘れる。

「んー、折り返し地点くらい? これからが大変だけどね」

 我らが文芸同好会の会員は現在二名。元々は部活だったが、四年間部員がいない状態が続いたため廃部。後に葛城先輩が一人で同好会を立ち上げ、その二年後に俺が入会。その一年後に日野が入会した。葛城先輩はたまに学校の許可無くOBとしてやって来る。制服を着ていればバレないのだと豪語していたが、在学当時、彼は学校創立以来の変人として名を馳せていたため、かなりの確率で生徒指導に追い回されている。

 文芸作品の創作を主な活動とし、執筆にはPC室にあるパソコンを二台拝借している。

「そうか。精進したまえ」

「はーい」

 日野への恋に気付いたのは、ここでの執筆に困難を極めたためである。最初のうちは気が散って集中できないと思う程度だったが、徐々にその原因の主が日野にあることを受け止めた。言い訳を繰り返すとも回避不可能なほどに、「日野のせいで原稿が進まない」という結論に至ってしまう。

 日野には何ら過失は無い。それは理解している。しかし、執筆が進まなくては完成するものも完成せず、それは小説家という夢の挫折に等しい。支障は取り除かなければならぬ。だからと言って彼女を俺がどうにかするというのはお門違いだ。

 なれば!

「大事な話がある」

 俺が言うと、日野は頭の中が留守になったような顔で俺を見上げる。俺はこの顔が好きだ。筆舌に尽くし難い愛おしさがある。彼女の無造作な髪型とも相性の良い表情だ。普段何かしら真剣に考えているからこその、この『ほどき』! 天然由来!

 しまった。じっくり観察している場合ではない。ひと月かけて心に決めたことを今彼女に伝えるのだ!

「俺はこの同好会を降りようと思う」

「降りるって……えっ、辞めるの?」

「然り」

 日野はしばらく黙り込んでいた。少なくとも、多少は俺に好意があったのだろう。唯一の先輩としてそれを確認できたのは安心した。ただ、ショックで黙っているのではなく、喜びを噛み締めているのだとしたら二度と立ち直れない。

「な、なんで……私が佐々木さんにだけ敬語を使わないから?」

 日野は立ち上がり、俺の座る真横に立った。彼女はそれほど背は高くないが、押し潰されそうになるほど威圧してくる。思わず顔を逸らしたが、逃げ出さなかっただけ褒められるべきだと思う。

 申し遅れたが、佐々木とは俺のことである。

「そうではない。ここでの執筆が難しくなった」

 日野に嘘を言ってもすぐ見抜かれるので、曖昧な本当を言うことにした。

「家庭の事情……とか?」

「そうでもない。とにかく、人には言えないことなんだ。悪いが分かってくれ」

「嫌だ。人に言えなくても、私には言って」

 めちゃくちゃなことを言う女だ。だから好きだ。

「……その、正確には、人に、ではなく、君には言えない」

 言って後悔する。この条件下では、原因は日野にあると言っているようなものだ、

「私、邪魔だった?」

 日野はしゃがんで、子供と接するように俺に目線を合わせた。これ以上俺を惑わせて、一体どうしようと言うのだ。

「ち、違う」

 執筆の妨げになると言う意味ではあながち間違いではないが、恐らく彼女の思う意味合いとは異なるので否定しなければならない。

「ほんとに?」

「本当に」

 日野は視力検査のように俺の目をじっと見つめた。彼女が「左上」と言いかねないくらい俺の目は泳いでいたが、なにも嘘をついたわけではない。恥ずかしくて目を見ることができないのだ。

 しばらく睨まれ続けたが、突如日野は「ん?」と言い、何かに気づいたように黒目を右上に寄せて思考を始めた。

「佐々木さん、『私にだけ言えない』というのは、佐々木さんの辞める理由の原因は私にあるということでいい?」

「……まあ、原因の一端ではある。おおよそは俺だ」

「私が邪魔ではないということに嘘は無い?」

「無い……と言い切ってしまえば嘘になるが、君に問題があるわけではない」

「それじゃあ私に何か変化があってそれが気に食わなかったとかでは……?」

「……ないが」

 日野は少し腕を組んで思案するような表情をした後、こう言った。

「つまり、佐々木さんの私に対する認識に最近何かしらの変化があって、それに伴う心境の変化が執筆の邪魔をしている、ってことになるのかな」

 そこまで言った覚えは無いし、言い当てすぎである。

 今までのやり取りからここまでの推察が成せたのならば、既に日野の中で答えが導き出されている可能性は十分にある。

 どちらにせよ、理由を言わなくてはこのままでは帰してくれないだろう。上手い嘘でもつければいいが、そんなことをしたところで、また理詰めされて追い込まれるのがオチだ。

 沈黙して五秒が経過してしまった。ここから否定するのはまず無理だ。しかし、彼女の言ったことを認めてしまうと、それは愛の告白と同義だ。逃げ道は絶たれた。

 同好会を辞めるという選択肢の他に、もちろん日野に告白することも視野に入れていた。振られればむしろそれは本望で、愛やら恋やらに右往左往していれば執筆が疎かになることは間違いない。孤独こそが作品を作り上げるのだ。しかし、僅かでもその告白及び交際の申し出に了承が下りる可能性と、振られたら振られたで、生涯癒えることのない深い傷を繊細微妙な心に負うことを鑑み、告白は取りやめたのだった。情けの無い話だ。ここまで追い込まれでもしないと踏ん切りがつかないのだ。

 振られて傷つきたくない。また同時に、成就すると困る。人類史における恋愛史上最も身勝手である。

「佐々木さん」

 彼女の訴えかける目とその声が、脳内に渦巻く葛藤を踏み潰し、焦燥に拍車をかける。

「……日野、あのな……えー……」

「うん」

 日野よ、その表情の真意はなんだ。何を考える。今から俺の言うことが分かるのか。

「……あ、あの、ですね……」

「うん」

 あと、一息だった。一秒でも遅ければ俺は口に出していた。

 突如、部室の扉が開き、葛城先輩が姿を現した。

「二人とも、実に二週間ぶりだな。寂しかったかい」

 空気を読むということを一切知らないのが彼の良いところだ。葛城先輩は馴染みの制服に身を包み、校則違反である金髪が後光に輝いている。

「先輩! 今大事な話をしてるんです! 少し待つか帰ってください」

 珍しく日野が大きな声を上げたので少し呆気にとられたが、この怒りに便乗しない手はない。

「そうだ! 全く、いつも学校に許可無く入って……我々もあなたを入れさせないよう注意されてるんですからね! 今日という今日は許しませんよ!」

 わざとらしくなかっただろうかと心配しながら、葛城先輩を部室から廊下に押し出し、そのままこちらを覗く日野の目から逃れるように階段を下っていく。

「お、おい、佐々木、どこへ行く。大事な話というなら僕は一人で待てる」

「いえ、いいんです。それより助かりました。危うく大事な話をするところでした」

「どういうことだ」

「とりあえずトイレに逃げましょう」

「あ、ああ」

 小走りで廊下突き当たりのトイレまで急ぐ。

「佐々木」

「なんですか」

「日野くんが怒ってたな」

「そうですね」

「嫌われたかな……」

「……よしてください。みっともない」

 トイレに到着し、一番奥の個室に男二人で入る。誰かに見られれば良からぬ勘違いを生みそうだが、気にする余裕は無かった。

 そして俺は急ぎ足で葛城先輩に事情を説明した。話していくうちに、先輩が飼い主に悪戯がばれた犬のような顔をして萎んでいく。

「そんな、そんなタイミングで……僕は……」

「いいんです。俺としてはそれに救われたので」

 すると、葛城先輩は形相を180度変えて怒鳴ってきた。

「コラ! 僕はな、日野くんに対して申し訳が立たなくなっているだけで、お前には一切同情の余地は無い!」

「ど、どうして……先輩も分かりますよね? 振られることも、幸せになることも怖いんですよ」

 そう言うと彼は俺の顔を両手で掴んで、突き刺すように目を合わせてきた。

「佐々木、いいか。これから人生を生きていくなら、そんなこと言ってられないぞ。お前が日野くんと手を繋ごうが突き放されようが、明日も明後日も孤独や劣等や悪意に曝されるんだ。特に僕やお前はそうだ」

 俺は、その気持ちの悪いくらい生命力に溢れた目を黙って見ているしかなかった。

「僕は今大学で三人恋人がいる。愉快千万な日々だが、小説の腕が落ちたつもりもない。身近な人間を酷く妬むし、ふとした拍子に自分のことが嫌いになるし、殺してやりたいやつもいる。僕らみたいな人間は一生暗い感情から逃げられないんだ。だから思い切って飛び込んで、幸福を掴んで、精一杯苦しめ」

 彼の話を聴いていると、今の俺の葛藤が実にアホらしく思える。でもそれは、宇宙の雄大さを知って自分が矮小な存在だと思うことに等しく、結局自分の問題が小さくなったわけではないのだ。しかし、数分前よりかはいいささか喉のつかえが取れたような気分になっていることに気づく。

 先輩はまだ何か言おうとしていたが、不意に口を止め、俺の背後にある何かを見て眉をひそめた。振り向くと、体育教師がこちらを睨み、足を伸ばす準備体操をしていた。

「佐々木、僕はもう行かにゃならん。日野くんがお前のことを男として好きかどうかは知る由もない。しかし、人としては好かれていると思うぞ」

「……そんなの、分かってます」

「なら、当たっても砕けることはないさ。気楽にやれ」

 そう言うと、葛城先輩は体育教師兼学年主任に追いかけられながら、廊下の奥へ走り去っていく。

 嵐のような人だ。身に纏うもの全て剥がされた気分だ。俺に失うものなど無いという気にさえなる。だから、これから失ってはいけないものを作りにいくのだ。

 部室に戻ると日野は元の席に行儀良く座っていた。父が夜遅くまで酒を飲んで帰ってこない日の、深夜0時にダイニングテーブルに座る母の姿を思い出す。

 怒っていないだろうかと顔色を窺う。……どうも判別し難い。彼女の無表情には怒りと喜びの二種類がある。

「葛城先輩は?」

「今は体育教師に追いかけられてる」

「……私は今色々言いたいことがあるけど、佐々木さんがさっきまで言いかけてたことを最後まで言えば、許すつもりではいるよ」

「すぐいいます」

 怒ってた……。きっと俺が葛城先輩を盾に逃げたと思われているのだ。今すぐ誤解を解きたいが、全くその通りなので解きようもない。

 これ以上彼女の堪忍袋を膨張させるわけにはいくまい。いよいよ俺は腹を決めることにした。

 本当に構わないな? 仮にこれが成功したとしても俺はまだ書き続けられるんだな? もうそこに関しては葛城先輩の言葉を信じるほかない。

「失敗したら」の考えはできるだけせずに済みたかったが、日野に拒絶される未来がありありと脳裏に浮かぶ。ああ、恐怖と不安で気がおかしくなる。日野よ、俺を振ってみろ。これで話を一本書いてどこかの賞に提出してやる。

 俺は息を限界まで吸い上げ、一言目を口にした。

「た、大変恐縮なのですが……」

 人生の不自由さはこれまでの経験上重々承知しているつもりだった。しかし、これほどまでに付き纏われる筋合があろうか。人生における苦しみが占める割合は多すぎる。では何故まだのうのうと生ているのかと言えば、それだけの甲斐が生きているうちに何度かあるからだ。

 葛城先輩の言う通りだったとは……。しかしまあ、恋人は一人までにしておこう。

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