魔女との攻防は食事のあとで

宵月碧

1.魔女と従者


 扉越しに耳に届く息遣いが荒々しく乱れていくのを聴きながら、冷静さを保ってただ突っ立っていることにも、ジェイドは随分慣れてしまった。


 皺ひとつない黒のスーツに身を包み、扉の前で身動きもせずひたすら室内の音が鳴りやむのを待つ。漆黒の髪を緩やかに額から後ろに撫でつけ、珍しい金色の瞳を隠すように伏せられた長い睫は、憂いの影を作る。露出した耳には黒曜石の一粒ピアスが控えめに艶めき、背筋を伸ばして佇む姿は、まるで主人を待つ忠実な犬のようだった。

 あらゆる感覚を耳にだけ集めようと、ジェイドはゆっくり目を閉じた。


 室内から漏れる男女の重なり合う呼吸の中から、女の甘い嬌声だけを聴き分ける。規則的に軋むベッドの音は酷く耳障りで、ジェイドの集中力をそぎ落とすには充分だった。


「いい子で待っていなさい、ジェイド」


 嬌声の主は一言それだけを告げて、見知らぬ男と共に室内へと消えていった。逆らうことなどできない悪趣味な命令は、ジェイドの聴覚が人のそれとは違うものであると、分かっていながらしていることだ。


 ──彼は君のなんだい?


 室内から聞こえてきた男の声に、女は平然とした声で答えた。


 ──ペットよ。可愛いでしょう。



 何度となく女が昇り詰める気配を感じとっていたジェイドは、長い漆黒の睫をあげた。室内が静かになり、事がようやく終わったのだと安堵する。


 が男を部屋に招くときは、いつも夜が長くなる。


 閉ざされていた扉が背後で開くと、ジェイドと同様にスーツを着た男が部屋から出てきた。中で行われていた淫靡な行為など微塵も感じさせない整った身なりの男は、ジェイドを一瞥だけして去っていく。

 彼女が選ぶ男は、いつもああいうタイプだった。金の匂いと香水の匂いを漂わせ、紳士を気取った見た目ばかりいい男。


 買ってほしいと強請ったスーツを身に着けるジェイドの姿は、ロベリアの目にはさぞかし滑稽に映っていることだろう。


 ペットが紳士の真似事をしているのだ。こんなに笑えることはない。



「ジェイド、もういいわよ。入っておいで」


 室内から聞こえた女の声に引き寄せられるように、ジェイドは扉を開けた。

 むわっと真っ先に飛び込んできた生々しい匂いに、ジェイドは思わず顔を顰める。様々なものが混じり合う室内の匂いは、鼻が利くジェイドには苦痛でしかない。


 白いガウンを羽織った長いブロンドヘアの女が、ティーテーブルに置かれた水差しからガラスコップに水を注いでいる。均整のとれた横顔を見れば、女が美しいことは一目で分かる。


「思ったより待たせてしまったわね。お腹は空いている? 一階で食事にしましょうか」


 そう言ってコップを口に運ぶと、彼女の白い喉が小さく動いた。


「……ロベリア、窓を開けていいか。男の臭いが不快だ」


 不機嫌なジェイドの声に、ロベリアは薄紫色の目を細めた。


「好きになさい。貴方は鼻が利くものね」


 ロベリアが袖を通しているガウンは前が肌けたままであり、彼女の艶めかしい素肌が動きに合わせて見え隠れする。

 ジェイドはまだしっとりと濡れた彼女の肌を見て眉を寄せると、視界から振り払うように窓の方へ向かう。つかつかと床を鳴らす靴音が、ささやかな反抗とばかりに苛立ちを告げている。


「ジェイド、今日は牛の肉があるわよ。さっきの彼が手土産に持って来てくれたの。貴方好きでしょう? 焼いてあげるわ」


 開け放った窓から、心地良い風が吹き抜けた。涼やかな秋の香りを含んだ風は、ジェイドの気持ちを少しは落ち着かせてくれる。


「ロベリア、食事の前にシャワーを浴びてくれ」


「あとでいいわよ。身体を動かしたから、私もお腹が空いているの」


 いちいちジェイドを刺激する言葉を口にするのは、わざとだろうか。

 ジェイドは首から垂れ下がる銀の鎖を握り締めると、ロベリアを振り返った。


「シャワーを浴びないのなら、一緒に食事はしない。俺が他の男の臭いに耐えられないのを知っているだろう」


「はいはい、分かったわ……我儘な子ね。準備しなさい、貴方も手伝うのよ」


 ロベリアは幼い子どもを宥めるように言うと、手にしていたコップの水を飲みほした。




 誰もが見惚れる美しい容姿のロベリアは、細身でありながら成熟した肉体が魅惑的で、今まで幾人の男達を虜にしてきた。

 彼女のアメジストの瞳に見つめられると、大抵の男は本能に抗うことができなくなる。誘うように紅い唇が薄く開けば、その唇を貪らずにはいられない。


 ロベリアは魔女だ。魔性の女を大袈裟に例えているわけでもなく、正真正銘、魔法を扱う気高い魔女なのだ。

 ジェイドが魔女に出逢ったのは十三歳のときであり、当時彼女は十八だった。己のを扱いきれず、捕えられていたところを彼女に救われ、その日から八年の年月を共に生きてきた。


 体質のコントロールから普通の人間としての生き方まで、ジェイドに教えてくれたのはロベリアだ。恩を感じているし、彼女なしでの生活など今更考えられない。

 成人を機に独り立ちを進められたが、従者としてロベリアの手足になることを条件に、傍にいることを許された。


 ロベリアに抱いている恋慕も醜悪な欲望も、彼女はすべて気付いている。気付いていながらジェイドを一番近くに置き、見せつけるように他の男に肌を晒すのだ。



「……悪趣味だな」


 低く呟いたジェイドの声に、ロベリアは最近街でよく耳にする曲を口ずさむのをやめた。

 乳白色の湯が張られた浴槽に足を伸ばして浸かるロベリアの長い髪を、スーツの上着を脱いだジェイドが丁寧に洗っている。


「ご機嫌斜めね、ジェイド。待たせたことを怒っているの?」


「……別に。それが俺の仕事だろ」


 素っ気なく言葉を返せば、ロベリアはふふっと楽しげに笑う。


「昔はあんなに可愛かったのに、いつの間にこんな無愛想になったのかしら。眉間の皺、なんとかならないの? せっかくのいい男が台無しよ」


 ロベリアは背後に手を伸ばして、濡れた指先をジェイドの頬に滑らせた。湯の中で見え隠れしていたふっくらとした乳房の淡い色付きが、ジェイドの視界に入る。何度も目にしてきたロベリアの白い肌も、この手で触れることは許されていない。


 頭の中で、一体どれだけ彼女を穢しただろうか。腰を打ち付けるたびに涙目で喘ぐロベリアを想像し、扉の前でただ佇むだけの自分に嫌気がした。


「ジェイド?」


 上を向くロベリアの濡れた睫が、不思議そうに一度跳ねた。宝石のように輝く瞳に見つめられると、大抵の男はその欲望に抗えない。最初から抗うつもりなど毛頭ないのかもしれないと、ジェイドは自虐気味に唇を歪めた。


 なぜ、触れられる距離にいるのに、自分だけが彼女を手に入れられないのか。


 ジェイドは泡の付いた手でロベリアの顎を掴むと、前触れもなく彼女の柔らかな唇に食い付いた。ほとんど噛み付くように重ねた唇は、ロベリアの肉厚な唇を挟み込み、薄く開いた隙間に舌を滑り込ませる。


「んっ……」


 咄嗟に閉じられた瞼から伸びる睫が震えるのを見て、ジェイドはロベリアの舌を絡めとった。鼻から抜けるようなくぐもったロベリアの声を聞くだけで、下半身に熱が集まる。風呂場の熱気と湿気が気分を高揚させ、夢中になって彼女の味を堪能する。


 キスをするのは初めてじゃない。本能に敗れて何度かロベリアの唇を奪ったが、結局その先に進めたことはない。愉しそうに微笑んで、躾と称してたしなめてくるのだ。まるで子どもや犬を相手にするように。


 ──嫌になる。


 ぱしゃっと水音が響いたのとほぼ同時に、ジェイドは顔にお湯を浴びていた。唇を離してロベリアを見れば、見慣れた悪戯な笑みがそこにある。


「牙が当たるわ……悪い子ね。待てができない駄犬は嫌いよ」


 まるで犬に噛み付かれたかのような物言いに、ジェイドは溜め息を吐いて濡れた前髪をかき上げた。


「これでもずっと待っているんだ……たまには褒美をくれ」


「だからさせてあげたじゃないの。ご褒美よ。さあ、早く洗い流して。ふやけてしまうわ」


 言われてしまえば、逆らうことはできない。

 ジェイドはもう一度深い溜め息を漏らすと、彼女の長い髪を優しく洗い流した。



 ● ○ ●



「美味しいわね、このお肉。また持って来てもらおうかしら」


 ダイニングで向かい合って座るロベリアは、ナイフで切った肉を上品に口へ運んでいく。小さな口で肉を咀嚼し、時々ワインを飲み込んではうっとりと目を細める。

 何をしていても美しいと感じるのは、惚れた欲目というやつか。彼女の仕草すべてがジェイドには愛しく思えてしまうのだ。末期だと思う。


「同じ男を何度も招かない約束だろう。情でも移ったらどうするんだ」


「情? 私が? 有り得ないわ」


「ロベリアがそうでも、男がのめり込む。魔女の魔性は、人を狂わせるだろう。もっと自覚をもってくれ」


 ジェイドはほとんど生焼け状態の肉を口に放り込みながら、ロベリアに鋭い視線を向けた。彼女のようにちまちまと食事をすることは不可能なので、切り落とした肉はすでに三枚目だ。テーブルの中央に置かれた分厚い肉の塊だったものは、もうなくなりかけている。


「ふふ。男が狂っても、貴方が私を守ってくれるでしょう?」


「……殺していいのか。お前に触れた男に加減なんてできそうにない」


 低く声を落とすと、ロベリアは愉快そうに左右の口角をあげた。


「いいわよ、食べちゃっても」


 ロベリアの言葉にジェイドはナイフを持つ手を止めると、怪訝な顔で眉間に皺を寄せた。


「人間を食うなと言ったのはロベリアだろう。俺はグルメなんだ。人間の男の肉なんて食いたくない」


「やだ、冗談よ。グルメだなんて、美味しいものを食べさせすぎたのね。そのお肉、全部食べちゃっていいわよ」


「いいのか?」


「どうぞ。貴方のその豪快な食べっぷりを見るのが、私は好きなの」


 ジェイドが物欲しそうにテーブルに置かれた肉を見ていたことに気付いていたようだ。ロベリアは少食で夜はワインが中心となり、あまり食事をとらない。その割には付くべきところに肉が付いているなと、ジェイドは目の前のロベリアを見る。


「ジェイド、いやらしいことを考えているでしょう。ふたつの欲望を同時に満たそうなんて、欲張りはだめよ」


「……仕方がないだろ。お前を見てると、しか考えられなくなる」


 ロベリアはきょとんとした顔で目を瞬くと、薄っすらと熱を宿した瞳を柔らかく細めた。彼女が時折見せる欲望の一端は、ジェイドに淡い期待を抱かせる一方だ。


「随分素直に返せるようになったのね。そんなに強く見つめられると、濡れちゃうわ」


 グラスを口元へ傾けるロベリアの本当か嘘かも分からない言葉に、いちいち翻弄される。


 最早ただ遊ばれているだけなのではないかと、ジェイドは顔を顰めて諦めたように肉の切れ端を口の中に放り込んだ。



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