第42話 最低ヤロー
中から返事がする前にドアが開いた。その瞬間漂ったのは濃い整髪料のような匂いだ。
「誰だ……ん、キミは――」
出てきた男は動きを止め、目の前に現れた自分がなんの目的があって現れたのか、と考えていたようだ。
だが追い返すのは向こうだって“またとないチャンス”を逃すことになる。
「ふん、ひとまず入れ」
室内に通されるとドアが締まり、かすかな機械音がした。おそらく鍵を閉められた。
……大丈夫、これも想定内。
室内は、まぁ当然とも言うべきか、大きめなデスクがあり、パソコンがあり、棚があり、整っていた。この男には不似合いな綺麗さだ。
「キミから私の元を訪れるとは珍しい。何か用かな」
相変わらずの粘着質な声。背が高いからそばに立たれると威圧感があるから少し距離を取る。どっちにしろ、男はドアの前に立っているから逃げ場はない、自分は追い込まれたネズミのようだが、ひるみはしない。
「あの時、俺を襲ったのは、あんただろ」
敵に噛みつく犬のようにいきなり攻撃をしかけてやった。相手が命を狙う凶悪犯だったらこの時点で死亡フラグ確定だ。
「あんただろ、矢井部長さん」
「襲った? なんのことだ」
当然、矢井部長はとぼけるが、その口元には怪しい笑みがある。
「そんな証拠があるのかな」
「ある、ここに」
日々希は手を伸ばし、矢井部長の腕をつかんだ。スーツの袖元をめくると、矢井部長の手首のちょっと上には数本の赤い線のような痕があった。
「あの時、俺はその犯人の腕を引っかいた。これはその時の傷だろ」
「ふん、こんなの自分で引っかいたとも言えるが?」
「でもこんなくっきり残らないだろ。それに俺は徹底的な証拠もつかんでいる」
ズボンのポケットに手を入れ、つかんだものを矢井部長に見せつけた。
そこには胸につける名前入りのネームプレートが光っている。書かれている名前は、もちろんこの男を示すもの。
「なぜ、それを」
矢井部長は自身のジャケットの胸ポケットに手を当てた。しかしそこに、いつもつけているものはないとわかり、笑みを濃くした。
「これはこれは、いつの間に取ったのかな」
「ふん、あの時以外、いつがある」
実は……このアイテムは嘘だ。いや本当に矢井部長が身につけていたものではあるが、これを手に入れたのは襲われた時ではない。
『これを持ってるといい。使い道はキミに任せるからね』
昨夜、鈴城に手渡されたのだ。互いに協力してこの男をハメるために。実際に自分が矢井部長と接触したのはあの時しかない。
だからこの男にとっては名札を取られた機会は他にないという嘘の事実ができあがる。
「あんたは力で部下を押さえつけ、自分の欲求を満たす変態野郎だ。その権力で過去、部下の一人を自殺に追い込んだはずだ!」
わざと声を上げてやった。それによって相手の気持ちを刺激してやり、こちらに攻撃をしかけたくなるだろうから。
案の定、矢井部長は手を伸ばしてきた。逃げるべく、一歩後ずさるが後ろがデスクに阻まれた。
「面白いことをするじゃないか。やはり教育が必要だな……いずれはうちの社員になるのだろう。 ならば今から“しつけ”ても問題はないなっ」
両手首を痛いくらいの力でつかまれ、上半身ごと広いデスク上に押さえつけられる。
「ガキは感情で動いてしまうからダメなんだ。もっと頭を使えばいいものを」
「は、離せっ! この変態がっ! こうして成海さんのことも好き勝手したんだろっ! 最低だっ」
「なんだ、成海のことまで知っているのか、まぁいい。あいつはおとなしかったぞ。キミのように暴れたりせず、素直に私を受け入れていたぞ」
矢井部長は手首を押さえたまま、顔を近づけてくる。企みのあるニヤけた表情は気持ちが悪い、このまま腹部を蹴り上げてやろうかと思ったのだが。
「キミもあまり暴れない方がいい。私の言うことが聞けなければ、キミの親戚を私の権限でどうにでも動かせるんだぞ?」
「なっ……!」
そのセリフは、きっと成海さんにも使われたものだろう。大事な恋人の立場が危うくなっていいのか、と。この最低なやつに。
「ま、マジで最低だなっ! 夢くんは関係ないだろっ!」
「あいつだって私がいるから今の立場に甘んじてられるんだ。成海の自殺だって表沙汰にならないように私がしたんだからな。でなければ成海の死は全てあいつのせいにされていた。あいつが仕事上で成海を追い詰めたのは事実だからな」
(こいつっ……!)
本気で急所を蹴り上げてやりたい。再起不能にしてやりたい。
だけどもう少しだけ、言葉を引き出さなきゃ!
「成海さんを追い詰めたのは夢くんじゃない! あんただっ! あんたがひどいことをしたからっ! 夢くんを傷つけたのもあんただっ!」
「では大事な夢くんを守りたいなら、キミも成海と同じ目に遭うんだな! おとなしくしないと新谷をひどい目に遭わせてやるぞ!」
矢井部長は声を荒げ、日々希の衣服に手をかける。手が解放されたのでその動きを制止しようとするが「手をどけろっ」と振り払われた。
「やだぁっ! やめろっ!」
軽く服の上から触れられただけで、もう触れてほしくないと思う気色悪い手だ。同じ人間の手でも夢くんとは違う。
(夢くんっ!)
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