第0話 0日目 ただの高校生のはずだった。

麻生あそう純恋すみれさん、あなたは余命3日です」

「……え?」


 突然、目の前から告げられた事実に、ただ呆然とすることしかできない。


「私が……あと3日で……?」


 ありえない。私は、昨日まで元気にトロンボーンを吹いていたはずだ。

 最後の県大会のために、みんなで練習スケジュールを立てて、これから気合い入れていこうって話していたはずなのに。


「高校3年生にこんなことを言ってしまうのは苦ですが……本当なんです」


 そう、私は高校3年生。まだ青春を謳歌していた。


 して、


麻生あそうさんの脳に、大きな腫瘍ができてしまっています。これを取り除くのは、普通命を危険にさらさない手術になるはずなんですが――」


 医者の話を聞くと、普通脳にできる腫瘍は取り除くことができるが、私の脳にある腫瘍は、脳の中心部にできてしまったという。


 つまり、私が助かる確率は。


「この中心部にできた腫瘍を取り除く手術が成功する確率は……」


 もう解っていた。私の希望は、今この瞬間も、少しずつ消え去っているということが。


「――0.3%です」


 私の手術が成功して、今までの様にトロンボーンが吹けるようになる確率は、0.3%。


 医者の隣に置いてあったホットコーヒーは、いつの間にか湯気が立たなくなっていた。


 私にとってトロンボーンは、相棒の様な宝物だったのにな――。




 私が初めてトロンボーンを手にしたのは、幼稚園の年中さんの夏だった。


「これ、なぁに?」


 お母さんにおもちゃのトロンボーンを手渡されて、興味津々で私は聞いた。


「これはねぇ、トロンボーンって言うんだよ!」

「とろんぼーん?」


 あとで聞くと、私が生まれるより前に死んでしまったお父さんが、有名なトロンボーン奏者だったらしい。

 お母さんはいつでも元気な性格だったから、私におもちゃのトロンボーンを手渡す時、少しだけ苦しげな顔をしただけで、陽気でいてくれていた。


純恋すみれがこれを気に入ってくれたら、大きくなったらもっとおっきなトロンボーンをあげるよ!」

「やったー! とろんぼーん‼」


 色々なことに好奇心旺盛だった私は、すぐにそのおもちゃのトロンボーンを吹き始めた。


 とても楽しかった。私が入れた空気によって、楽器が震えて、芯のある重低音が出る。


 トロンボーンを吹き続けて、6年。


 小学4年生になった日、私はお母さんに本当のトロンボーンを渡された。

 私は身体からだがそんなに大きくなかったから、このくらいの歳にならないと、こんな大きいトロンボーンを持ち上げて吹くことができなかった。


純恋すみれ! 4年生おめでとう! これあげるよ!」

「えっ! トロンボーン⁉」

「そうよ、本物のトロンボーン! 4年生になったら吹奏楽クラブに入れるから、そこで吹いてみたら?」


 お母さんにそう言われて、さっそく入部届を出して吹き始めた。

 クラブの先生には、「4年生でこんなに吹けるなんてすごいね!」と褒められた。


 お母さんは「お父さんみたい!」と興味津々で私のトロンボーンを聴いてくれて、コンクールではいい賞を何度ももらった。


 同じパートの先輩たちには少し妬まれたこともあったけど、何よりここでトロンボーンが吹けている、という事実が嬉しかったから、気にしていなかった。


 そんな先輩たちに私がちょこっと教えると、笑顔になって「ありがとう!」と頭を撫でてくれた。今思えば本当に優しい先輩たちだったと思う。




 そうして昨日まで、12年間吹き続けたトロンボーンが、

 もう、吹けなくなるかもしれない。


 その事実を聞いて、頭をフライパンでガツンと殴られたような衝撃が走る。

 走馬灯のように今までのトロンボーンの思い出が蘇って来て、今更ながらに呼吸がしづらくなってくる。


麻生あそうさん! 大丈夫ですか? 三秒で吸って、五秒で吐いてください。1、2、3。1、2、3、4、5。1、2、――」


 医者の落ち着いた声に従って、ゆっくりと深呼吸する。


 何回繰り返したことだろう。懸命に私が正しい呼吸を取り戻すまで付き合ってくれた医者は、私の呼吸が落ち着くと、


「ふぅ、びっくりしました。大丈夫ですか?」


 と言ってくれた。


「はい、おかげさまで。落ち着きました」


 今は、目の前にある事実に向き合うことに専念しないと、私の精神さえももたなくなってしまう。呼吸ができなかったら大変だ。


「――話を続けさせて頂きます。麻生あそうさん。あなたは、手術を受けますか?」


 普通だったら親に聞くだろうけど、昔からシングルマザーだったお母さんは、今日も朝から夜まで仕事だ。それも、早朝4時から深夜12時まで。


 うちには弟と妹が1人ずついるから、お母さん1人だけで私たち3人を育て上げようとすると、こんな時間まで働かなければならないのだ。


 今、時刻は朝8時すぎ。

 こうして考えている今だって、お母さんは懸命に仕事をしてくれている。


 でも、手術って言ったらお金がかかるよね?

 生活費だけで手いっぱいなのに、そんなお母さんに負担はかけたくない。


「お金のことを気にしていますか?」


 私の心を見透かしたように言う医者。

 なんで分かるの?


「大丈夫です、お金のことに関しては、すでに麻生あそうさんの父方の叔父さんに話をつけてありますので」


 そうだ、私の叔父さんだってトロンボーン奏者。

 トロンボーンを吹くだけで食べていけるような人なのに、会社で仕事もしているから、ものすごくお金持ちだ。


「そうですか……」


 でも、お母さんに心配はかけたくない。っていうか、私が関わり合っている全ての人に絶対に気付かれたくはない。


 ――私が、死んでしまうまで。


 でも、もしかしたら。たったの0.3%だけど、私が生きられる道があるかもしれない。


 私は――何もしないよりは、その可能性に、賭けたい。


「――手術を、お願いします」


 私がはっきりと、医者の目をまっすぐと見て言うと、医者はにっこりと微笑んでくれた。

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