情熱の溜飲

ひとひら

第1話

今日も深夜の個人授業。

暗がりの中、音楽教室には、月明かりしかない。


「先生、こんばんは」


彼女は、ドアを開けるなり言った。

朗らかな声とは裏腹に、明かりを好まないのは何故だろう。


「時間通りで、偉いわね」


「先生だって、遅れたことないじゃん」


「生徒との約束ですからね」


「じゃ、お願いします」


笑顔が弾けるようだった。


――このままじゃ、もし死んでも死にきれないの!


必死の願いを私は聞き入れた。

他の生徒も気にはなったけれど、彼女の力になりたいと新米である私は思った。


「ストレッチはしてきた? 呼吸法は? ......OK。じゃあ、リップロールから始めましょう」


私はピアノに向かって座った。

彼女は、私の横へ立ち位置を変えた。

鍵盤の状態を軽く確かめて、その音域に合わせて音階を丁寧に刻む。

レッスンの入りが最初の頃と比べて格段に良くなった。音程の取り方が口元だけではなく、体全体で掴んでいることがよく分かった。


「次、ハミング」


声の通りも良くなっている。もともとセンスのある娘だった。ミックスボイスを出したいという彼女の向上心を私は支えてあげたい。微力ではあるけれど、教師として手助けが出来れば本望だった。


「徐々に高音域にいくわよ。無理せずに小さい声でいいからね」


彼女の欠点は、地声から裏声に変わるところで力んでしまうことだった。

原因は、軟口蓋なんこうがいが下に落ちやすい傾向があること。喉が締まるのでミックスボイスはおろか裏声を使うタイミングで違和感があった。そこで、私は彼女の白い歯を確実に見せられる笑顔と高音域のハミングを徹底的に練習させた。

笑顔は、口輪筋を使うことになり、釣られて軟口蓋が上がりやすくなる。高音域のハミングは、鼻腔の振動を意識しやすくなるのでスムースなミックスボイスに繋げられる。


「いい感じよ。声が頭の上から出ているようなイメージを保ってね」


彼女は小さく頷く。その集中力は、指導に熱が入るものだった。


「じゃあ、リクエスト曲を弾くわよ」


「お願いします......」


呼吸を合わせて、私は、旋律を奏でる。


どうか、彼女の願いが叶いますように――


「すごく、よかったわよ!」


「うん! はじめてちゃんと歌えた気がする!!」


飛び跳ねて喜ぶ彼女。目標を達成した姿に指導した甲斐があったと胸が熱くなる。


「先生、あなたのこと誇りに思うわ」


「先生、本当にありがとう」


そうして、白い光となって昇った――


「よくやってくれたね」


「叔父さんの頼みじゃ、断れないよ」


「それにしても、なんで音楽室を暗いままにして使ってたんだ? 彼女が嫌がっていたのかい?」


私は、伯父である理事長から霊を鎮めて欲しいという依頼を受けていた。授業へ向かう途中、学校の階段で足を踏み外して打ちどころが悪く亡くなってしまった女教師の霊。

彼女の魂は、生徒の力になりたいという情熱から、生徒を呼び止めたり、耳打ちしたり、肩を掴んだりという学校を恐怖に陥れてしまうものだった。


事態を重く見た伯父は、視える私に依頼をしてきた。幸い、在学生ということもあって、接点のなかった私でも違和感なく彼女に接触できていた。問題だったことは、彼女が達成感を得られることを成し遂げられるかどうかだった。


「ううん。私が暗がりじゃないと視えないタイプだから」


「そういうものなのか」


「そういうものなの」


彼女は、自分が亡くなっていることを理解していたのだろうか。

私には、その辺の事情がさっぱりだった。ただ、満足そうな様子だったことだけは分かる。

以前の話だが、そういうことを聞いてみようかと思う相手がいた。けれど、向き合っている相手に対して「死んでいますよ」とか「生きていましたよ」みたいなことは、本人が訊いてもいないのに意味がないんじゃないかと思っていた。もっと大切なことは、お互いが認め合える存在かどうか。そして、それぞれが新たな一歩を踏み出せるかどうか。それが大切なんじゃないかと感じていた。


「階段の花、替えておくね」


私は、彼女から学んだ練習方法を今後も続けていこうと思う。歌手を目指している訳ではないけれど、上手く歌いたいという気持ちは本物だから。そして何より、熱心に指導してくれたことを忘れたくないから。


「寄り道しないで、気を付けて帰るんだぞ」


「これからクラスメートとカラオケなの」


伯父の表情が渋くなる。

私は、教わった笑顔で応える。

誰とは言わないが、素敵な先生に出会えたのだと、皆に自慢しようと思っている。

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情熱の溜飲 ひとひら @hitohila

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