第49話
強烈な浮遊感と長い落下距離に、さしものアルシスも死を覚悟した時だった。
背に強い衝撃を受けるのと同時に、全身を押し潰されるような圧力を感じた。
壁が迫るようなそれが水だと気づいたのは、吐き出す空気の反射で喉に入ってからだった。
むせそうになりながら、必死で水を蹴る。藻掻くように水面から顔を出し、アルシスは盛大に咳き込んだ。
「げほっ、ごほっ……ああっ、くそったれ……っ!」
誰にともなく毒づいてから、周囲を見回す。
灰白の石壁とそこを這う蔦草、誰かが踏み慣らしたような平たい地面。壁面に刻まれた文様以外にはなにもない、がらんと開けただけの空間は、アルシスがよくよく見慣れた地下遺跡の光景だった。
ぼんやりと明るいのは、石壁に含まれる魔力が空気と反応し、発光しているからであるらしい。
原理と理屈はともかく、明かりに火を持ち込む必要がないのはありがたいことだ。
アルシスはざばざばと泳いで手近な岸辺にたどり着くと、石床だっただろう大岩の上に身を乗り上げた。
濡れそぼった髪をかき上げながら、改めて落ちてきた辺りに視線をやる。
天井は高く、どれだけ目を凝らしても倉庫の床は判然としなかった。
落ちた先が水でなかったら、間違いなく死んでいただろう。
「やれやれ、運が良かったな」
そうぼやいて、アルシスは濡れ鼠のまま身を検めた。
身体のあちこちは痛むが、幸いにも骨が折れているということはなさそうだ。あちこち確かめてみたが、手足も問題なく動く。落下時に握っていたナイフも、腰の鞘にきっちり収まっていた。
革袋には羊皮紙が数枚、ペンにインク、それから素材が僅かと、回復薬の小瓶があるのみだ。遺跡を探索するには心もとないが、なにもないよりはマシだろう。
それに上が倉庫だったおかげで、アルシスと一緒に落ちてきた木箱が水面に浮いている。ベティが嘘を吐いているのでなければ、箱の中身は酒と干し肉だ。確保すれば、しばらくは食料に困ることもない。
そしてなによりありがたいのが、水が大量にあることだった。
井戸に使用していた水源から溢れたのなら、飲んでも問題ないだろう。アルシスは軽く息を吐くと、まず木箱を水から引き上げた。
木箱の中身は木屑がたっぷり詰まっていて、漁ると干し肉が並べられていた。少し古い匂いがするが、食べられないほどではない。それでいくつか拝借して、転がっていた麻袋で作った背嚢に詰め込んだ。
「さて、残る問題は武器だな……」
そう独りごちる。なんど思ったことが考えるだけでも嫌になるが、つくづく愛剣のノールを客室に置いてきたことが悔やまれる。だが無いものを惜しんでも仕方がない。
手元にあるものでどうにかするのみだ。
アルシスは歩き出し、だがふと違和感を覚えて立ち止まった。微かだがなにかの気配を感じる。腰のナイフに手をやり息を潜めていると、小さく溜め息のような音を耳が捉えた。
音は積み上がった岩の向こうから聞こえてくる。
アルシスは注意深く近づいて、そこで見つけたものに大きく目を瞠った。
「こいつは……驚きだな」
積み上がった岩に凭れるようにして、男が蹲っている。着ているものもぼろぼろだったが、元の仕立てが良いことが見て取れた。
冒険者ではありえない。明らかに貴族階級に属する者の身なりだった。
「おい、あんた、生きてるか?」
声をかけると、その男がのろのろと顔を上げる。
髪はぼさぼさで、痩けた顔は髭面で見る影もなかったが、それでもその面差しには確かに覚えがあった。
癖の強い栗毛に緑の瞳、領主館の食堂に飾られていた、肖像画に描かれていたとおりの顔だ。
まさか生きているとは、そう驚きとともに胸中でこぼして、アルシスはその男の傍らに膝を突いた。
「あんた、カール・ノルディンだろう?」
顔を上げた男が、項垂れるように頷く。
かなり消耗しているのか、繰り返す呼吸が浅く弱々しい。それでも彼は、思いの外しっかりとした口調で言った。
「いかにも……私は……オルグレン領主、カール・ノルディンだ。……君は?」
「俺はアルシス・フォード。あんたの息子の護衛だ。無事……という感じじゃねえな。どこか怪我をしているのか?」
ふたたび頷いたカールは、震える指で足元を指差した。
「左脚が、折れている。……ずっとひどく痛んでいたが、数日前から……感覚がない」
「……ちょっと見せてくれ」
言ってアルシスはカールの脚を確かめた。
ズボンをナイフで裂くと、脛が見て分かるほどに歪んでいる。酷い骨折だが、それよりも問題は壊死が起こっていることだった。
折れた箇所から下が、赤とも紫とも言えない色に変わっていた。これでは感覚がないのも頷ける。おそらく折れたまま放置したせいで、炎症を起こし既に神経まで死んでいるのだろう。
これはもはや傷薬でどうにかできる段階ではない。
アルシスは苦い息を吐くと、カールにひたと視線を当てた。
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