第31話 ある夏の日の思い出

 どうもおかしい。妙だ。


 なんで俺がこうも赤牙を気にかけなきゃならない。あいつは俺から血を吸っている吸血鬼だし、そもそも俺が手助けできるような相手じゃない。なのになぜかどうしても気になる。


 いつからおかしくなったのか。心当たりがあるとすれば、天塚にキスをされてからだろうか。


 魅了を受けていない俺にあんなことをしても無意味だと思っていた。だが、あの時俺は本当に魅了を解除されたのかもしれない。どういうことなのかは俺にもよくわからん。


 とにかく俺はずっとヒヤヒヤしながら赤牙の体力テストを遠目に見ていた。赤牙の正体が自然と露呈するのは俺にとって都合がいいはずなのに、心配で仕方なかった。


 だから急に周りの奴らが時間でも止まったみたいに動かなくなって、天塚と赤牙が言い争いを始めた時、俺の体は自然と動き出していた。

 俺が何もしなくても、赤牙はどうせ勝つ。そんなよくわからない信頼はあった。だが動かずにはいられなかったんだ。


 明らかにヤバそうな光の前に身を投げ出すと、あっという間に視界が真っ暗になった。気絶したか、あるいは死んだか。


 そんな時、瞼の裏にある日の光景が蘇ってきた。


 これは走馬灯というやつだろうか。十歳くらいの時の記憶だ。ここではない別の街に住んでいた頃の記憶。今までずっと忘れていたのに、どうしていきなり思い出したんだろう。


「────なにしてるんだ? そんなとこで」


 夏休み、俺はとにかく暇だった。何度も引っ越しを繰り返していた俺に友達はおらず、長い休みを潰す算段を持ち合わせていなかったのだ。

 同じ家で育った万穂には普通に友達がいたので、その点はあながち引っ越しのせいにはできないのかもしれないが、何にせよ俺は妹が友達の家に遊びに行っている間一人で過ごさなければならなかった。


 せっかく夏だし、カブトムシでも捕ろうと近くの森に入った時、俺は彼女を見つけた。


 真っ白なワンピースを着た、今にも消えてしまいそうに儚い黒髪の少女だった。その肌は不気味なほど青白く、酷く不健康そうだった。


「別に……何も」


 彼女は人気のない森で一人佇んでいた。それは子どもである俺の目から見ても不自然な光景だった。

 俺と同い年くらいの可憐な少女が森で一人。それだけで充分なミスマッチだが、彼女は何をするわけでもなくただ立っていたのだ。


 だから俺はすぐに気づいた。彼女は何かをしていたが、俺が近づいてきたのでそれを隠したのだと。

 誰にもバレたくない何かをしていた。賢い大人なら、そこで何も気づかなかったフリをして引き返すだろう。それがお互いのためだ。

 しかし俺は好奇心旺盛な十歳の子どもに過ぎなかった。どうしても気になって、彼女に詰め寄った。


「なあ、何してたんだよ」

「だから、何もしてないって」

「……そこに転がってるのはなんだ?」

「あ、それは……」


 彼女の足元には切り株があった。その陰に何か隠されているのを見つけ、俺は無遠慮に引っ張り出す。


 出てきたのは、動物の死体だった。今思えば、多分タヌキだったと思う。


「うわぁっ⁉」


 俺はすぐさま死体を放り出し、尻もちをついて後退りした。死体はあちこち齧り取られていて、子どもの俺には刺激的過ぎる代物だった。

 ただ、無邪気な子どもならでは直感と言うべきか。俺はその死体についた噛み跡がどうにも肉食獣らしくない。どちらかといえば、人間に近い口の構造をした生物によるものではないかと気づいた。


 容疑者はすぐさま浮上した。当然だ。なにせこの死体を隠していた張本人がそこにいるのだから。

 彼女の口元をよく見ると、血を拭ったような跡が付いていた。どうやら人目を忍び森の中で動物にかぶりついていたらしい。


 明らかに異常だった。猟奇的だと言ってもいい。だが当時の俺はそれをあまり怖いとは思わなかった。純粋に好奇心が勝った。


「なんでこんなの食べてるんだ? 肉が好きならお店で買えばいいだろ?」


 あまりに素っ頓狂な質問だったせいか、今度は彼女の方が驚いていた。


「私は……お肉が好きなわけじゃないの」

「じゃあなんで?」

「……血を飲まなきゃ生きていけないから」

「血を?」


 彼女は口を大きく開け、鋭く尖った牙を見せてくる。


「私、人間じゃないから」

「へぇ……」


 ただの八重歯とか、歪な歯とか、そういうものじゃないということは知識がなくともすぐにわかった。それはどう見ても人間の歯じゃない。人間には絶対に必要のない用途を備えた牙だった。


「でも、動物の血じゃどうしても体に合わなくて……」

「好き嫌いはよくないぞ」

「そうじゃなくて、これは種族としての問題なの。私たちはどうしても、人間の血を吸わなきゃいけないんだよ」

「……人間の血を?」

「他の仲間はそんなに吸わなくてもいいみたいだけど、なぜか私は我慢できなくて。でも、人間の血なんか吸ったら怖がられるし……」

「その動物みたいに、人間も齧るのか?」

「そんなことはしないよ。これはただ、あまりにもマズかったから力が入っちゃっただけ。本当は傷なんかつけずに血を吸うの」


 彼女の言っていることを、俺はいまいち理解できていなかったと思う。だからただ困っている人を手助けするくらいの気持ちで言った。


「じゃあ、俺の血をあげようか?」

「……いいの?」

「だって血を吸わないと生きていけないんだろ? その代わり、そこの動物にはちゃんとごめんなさいして、埋めてあげよう。命は大切にしなきゃ駄目なんだ」


 気紛れでカブトムシを捕りに来た身分で偉そうなことを言えた義理ではないが、俺はそれらしいことを言って彼女にタヌキを埋葬させた。

 本当はただ血だらけの死体を見るのが怖くて、見えないようにしたかっただけなのだが、彼女は素直に応じて作った墓に手を合わせていた。


「じゃあ……血を吸ってもいい?」

「……絶対痛くするなよ?」

「しない。もししちゃっても、傷はすぐ治せるから」


 彼女はそう言って、俺が差し出した腕にかぶりつく。


「痛っ⁉ 痛い痛い痛い痛い‼」


 多少痛くてもカッコつけて我慢するつもりだったが、その閾値を軽く超える痛みが走った。


 俺が暴れると、彼女は腕を離してくれた。すぐに傷口を確認したが、小さな穴が二つ空いているだけで、肉が齧り取られてはいなかった。そしてその穴もすぐに塞がって、何事もなかったかのように元通りの日焼けした肌になった。


「……さっきのよりはマシだけど……あんまり美味しくない」


 文字通り身を削ったというのに、彼女は苦々しい表情を浮かべるばかりで、感謝の一言もなかった。

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