真新しい靴がステップ

清瀬 六朗

第1話 順の真新しい靴

 お母さんは起きて来なかった。

 行って来ます、と声をかけることもしない。もし寝ていて、起こしてしまったら、くどくどと十分以上怒られ、いやみを言われる。

 だからじゅんは音を立てないように玄関に行く。

 「あ」

 小さな息が漏れた。

 ふだんは少し乱雑に置いてある何足もの靴がなかった。

 お母さんと順の二人暮らしなのに、革靴、スニーカー、おしゃれなサンダル、普段使いのサンダル、それに順の靴と、ばらばらに靴が出ている。それぞれの靴が揃ってもいない。

 その靴たちの中央に、お母さんの靴が揃えて置いてある。または、お母さんの靴を置くためのスペースが空いている。

 それがこの家の玄関なのに。

 その靴が全部なくて、かわりに、左右のちょうどまんなかに、真新しい靴が揃えて置いてある。

 ちょうどいつもお母さんが靴を置いているところに。

 エナメルがピカピカした、ちょっと細身に見える、真新しい黒い靴。

 こんな靴は見たことがない。

 昨日、お母さんが仕事の帰りに買って来たのだろう。

 ほかの靴を片づけて、これだけが置いてあるということは、これを履いて学校に行け、ということだ。

 それで、その靴に砂ぼこりをつけて帰って来たら、お母さんがせっかく買ってあげた靴なのに、と怒るのだろう。

 瑞城は制靴があるから買った。それもどこかにしまってあるはずだが。

 順は、ふっ、と息をつく。

 いい、と思った。

 お母さんが買ってくれた靴を履いていこう。

 それしかしようがない。

 その靴に、白靴下を履いた足を伸ばしたとき、ふと思い出した。

 バトン、持って行こう。

 瑞城ずいじょう女子高校にバトントワリング部がないことは確かめていた。

 それでも、バトンを持って行けば何かあるかも知れない。

 ためらう。

 順が「何かいいことがあるかも知れない」と思ったときには、たいてい、何も起こらないか、悪いことが起こるかのどっちかだった。

 バトンなんか持って行ったって、いいことがあるはずがない。

 でも。

 せっかく思いついたのに。

 真新しい靴に足を入れるのをためらったのに。

 順は大きくため息をついて、バトンが置いてある二階の自分の部屋に戻るために、足音を立てないように注意して廊下を引き返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る