1年目4月・ヤマガミ顕現、そして桜花爛漫
一時間が経ったか経たなかったか。
ヤマから吐き出される鹿のヤマノケは打ち止めとなり
どさり、と
「ほんっと、こっちだけだったらと思うとゾッとするわね」
ヤマの中でたまたま芽吹いた三春瀧桜がこのサトまで降りてきて協力してくれていなかったら、先程の襲撃で全てが壊滅していただろう。
恵美の本来の戦力である蜜緋芽、
扇で顔を隠した二条北宮造花もふらついていて結界だけと言ってもだいぶ消耗しているのが見える。実際、三春瀧桜の攻撃を擦り抜けて蜜緋芽のフォローも間に合わなくて恵美に攻撃が向けられた場面も少なくはなかった。
三春瀧桜だけが一人余裕をもっていつも通りに微笑んでいる。
「みんな、お疲れさまー。でもこれで襲撃もクリアだね!」
グッと胸の前で両手を握る恵美の呑気な顔を見ていたら蜜緋芽も体の強張りがふっと脱力した気がする。
そんな気の緩みがフラグだったのだろうか。
遠くの南のヤマの中腹で木が崩壊して地面に落ちる振動と鳴動が恵美達の元まで届く。
呆けた顔を上げた恵美が見たのは遠目にもはっきりとわかる真っ黒に滲んだ熊の姿だった。この距離でこれだけしっかりと熊だと認識できるのだから実際はどれだけ大きいのか。
恵美はその熊とばっちりと視線が合ったような気がした。
本当にその巨大な熊の怪物は恵美を認識したのか牙を剥いて咆える。
その咆哮は目に見える衝撃はとなって地面を削り木をなぎ倒して恵美達に襲いかかる。
「きゃあっ!?」
「エミ!?」
恵美の体が呆気なく吹き飛んだ。こちらの食生活によって多少体重が落ちたとは言っても成人である恵美の体が宙を飛ぶのだからその風圧は台風なんて目じゃない。
蜜緋芽は慌てて恵美に駆け寄る。
「だ、だいじょうぶ、ちょっと足捻っただけ……えへへ、ツクリバナのお陰かな?」
恵美は蜜緋芽に笑顔を向けるけれどその表情は弱々しく強張っていている。自分で足首を擦っているがその手の下は痛々しく腫れてきている。
「呑気にしている
二条北宮造花が二人の前に立ち結界を具現化させる。その紙吹雪の向こうで地面をその足で陥没させながら疾走してくる熊の怪物の姿が見えた。
相手が射程に入った瞬間に三春瀧桜が桜の瀧を放つ。
熊は左手を振るって煩わしそうにその瀑布を払い除けた。
「うそっ!?」
今まで無双を誇った三春瀧桜の攻撃が片手間で弾かれたのを見て恵美が驚き、その拍子に立ち上がろうとして左足に走る痛みで顔を歪めて崩れ落ちる。
その合間にも熊は三春瀧桜に肉薄する。
相対すると熊の巨体は三春瀧桜を踏み潰しそうなほどに大きい。
それでも三春瀧桜は熊が振り上げた右腕を花びらの奔流で受け止めてみせた。
じりじりと防御が押し返されている三春瀧桜の顔にはさすがに冷や汗が零れる。
「ミツヒメとツクリバナもおっきくなれないの!?」
初めて見る三春瀧桜の不利に恵美が焦って大声を上げる。
けれど蜜緋芽からは弱々しく首を振って返される。
「こっちはどっちも幼木よ。生長しないとあれだけの力は発揮できないわ」
人と同じ大きさである二人では三春瀧桜以上に熊の怪物の相手にならない。
「まさにヤマガミの顕現にあられるわね……あんなの一個の生き物がどうこう出来るものではないわ」
二条北宮造花も熊の巨体を前に畏れを前面に出している。
どうにもできなくて傍観者でいるしかない三人の前で、三春瀧桜は桜瀧の流れを巧みに操ってヤマガミの腕を受け流し地面に落とす。
続いて的確に熊の目に攻撃をぶつけて怯ませてそのまま顔面に連撃を当てて後退させる。
目の前の相手は自分を傷付けられる。そう把握したヤマガミは一歩分の距離を取って様子を伺った。
巨体の一歩であるからその間はそれなりに広い。三春瀧桜はその開いた空間の遠さに一息吐いた。
「んー」
少し場違いな、いつものゆったりとした三春瀧桜の声が間延びする。
「仕方ない、やるか。どうせもっても一週間ちょっとの命だしね」
三春瀧桜はなにかを決意した。
「ちょっと、あんた、まさか!?」
なんにもわからないでいる恵美の横で蜜緋芽がひどく焦っている。
三春瀧桜がやろうとしてるのがそれだけ途轍もないことだというのは恵美にも覚れた。
それなのに当の本人である三春瀧桜だけがリラックスして穏やかに言葉を重ねる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ちゃんとみんな守ってあげるから」
「そういう話じゃないでしょ! あんた!」
「ほら私っては人のお世話になってずっと健康で毎年花を咲かせられてるでしょ。だからさ、ずっとお礼したかったんだよね。違う世界の人達だけどさ、うん、今度は私が恩返しするの、嬉しいんだよね」
三春瀧桜は蜜緋芽の制止の声なんてちっとも聴かずに自分勝手にその気持ちを言葉にしていく。
まるで別れの言葉のようなそれを恵美はただただ見上げて聞き届けるしかできない。
「櫻守さんに櫻媛の持つ力を一つ教えてあげるね」
三春瀧桜はすっと両手を広げる。
「これは櫻媛の霊力を費やして、その素質の全てを発現する全力全開」
「あんた! それやったら枯死するでしょうが!」
「え」
蜜緋芽が懸命に吼える言葉を真横で聞いて恵美は愕然とする。
櫻媛の力を全て引き出す切り札。その代償は櫻媛の命そのもの。
「そう、桜がたったひと時に咲いて見事に散るように、僅かな時に櫻媛の生命力全てを使い果たして咲き誇る」
三春瀧桜の全身からひらり、はらりと花びらが散る。
「それが櫻媛の、【桜花爛漫】!」
三春瀧桜は蜜緋芽の制止も恵美の戸惑いも置き去りにして自分本位に【桜花爛漫】を宣言した。
溢れだした桜の花びらは三春瀧桜を一瞬覆い隠し、次の瞬間にはヤマガミと対等とまではいかないものの今までの倍以上の巨体に成り変わっていた。
三春瀧桜の黒髪は今まで以上に艶やかに春の日射しを跳ね返して滝のように流れ、何重にも重ねて纏った和装の裾や袖は本体である枝垂れの瀧を思わせる。
これこそが三春瀧桜が最終的に至る御神木の姿、その素質の発現。さらにそこまで生長した通常のよりも数倍に【能力値】は引き上げられて『特性』の全ても無限に発揮できる。
「さぁ、時間は限られているから、手早く済ませちゃいましょうか」
まるで雑事に手をかけるかのような気軽さで三春瀧桜は周囲に幾筋もの桜の瀧を作り出して熊の巨体へと立ち向かう。
最初の瀑布がヤマガミに接近すると相手はまた腕を振り上げて弾き返そうとする。
しかし今度はヤマガミの腕の方が瀧の衝撃に弾かれて体をのけ反らせた。
熊の太い腕を弾いた三春瀧桜の一撃はそのまま懐に入り込んで肩に衝突する。
さらに次の瀧が、また三つ目の瀧がヤマガミの巨体へと迫る。
ヤマガミが吠える。大気が身震いした。
花びらの瀑布もまたその衝撃を浴びて飛沫を上げる。だがその奔流は僅かに削られども打ち消されはしない。
次々とヤマガミの巨体に三春瀧桜の攻撃が着弾する。
しかし相手も巨大な山そのもの化身である。三春瀧桜の渾身の連撃を受けても身を損なうこともなく逆に突進してくる。
いくら三春瀧桜が瀧をぶつけてもその速度は落ちない。
熊はその巨体で三春瀧桜を押し潰そうとするように飛びかかってきた。
その一撃を三春瀧桜は腕を振るって桜の瀑布を生み出して迎撃する。
耳をつんざく轟音を響かせて熊と瀧は互いの威力を削り合う。
そして生まれる一拍の空白。止まった一瞬。刹那の
そこに三春瀧桜はそっと手を差し伸べてヤマガミの毛皮に触れた。
「至近距離から!」
三春瀧桜がぐっと手を押し込む。
「全力全開、受け取って!」
今までの瀑流の全てをまとめ上げたかのような物量の怒涛がヤマガミの胸に迸った。
それは熊の巨体を冗談みたいに吹き飛ばして、地面を何度も跳ねさせて、そして地面に転がしてもまだ激流に呑み込んで追いやり、ヤマガミの巨大を削っていく。
三春瀧桜が肩で息をして瀧の流れを出し尽くした時には、ヤマガミの体は普通の月の輪熊とそう変わらない大きさまで縮んでいた。
「倒せた、の?」
まるで恵美の呟きに反応したかのようなタイミングでヤマガミはびくりと体を痙攣させた。
恵美が肩を跳ねさせて目を真ん丸にして見ている中で、ヤマガミはむくりを起き上がって一度こちらを――自分を陥らせた三春瀧桜を小さな瞳に収める。
そしてのそのそと元いた南のヤマへと向かって立ち去った。
そこを追撃する余力は三春瀧桜にも残されていなかった。
彼女の体から光る花びらが散ると共にその分だけ縮んでいく。それも緩やかなものではない。桜の花が風に浚われて花吹雪になるのと同じく、音を立てて視界一杯に花びらは散っていく。
「あ――」
その憐れな、儚い有り様に恵美は息を飲む。
ただ桜が散るのではない。それは確かに命が散る姿だった。
三春瀧桜は静かに閉じていたまぶたをゆったりと持ち上げて恵美の姿を瞳に映す。
「仕留めきれなくてごめんね」
「あ、ううん、そんな……お瀧さん、だって……」
「ええ、取りあえずこの私は、これでさよなら、ね」
三春瀧桜が一歩恵美に近付くとその振動で体が崩れ落ちて花びらと空に舞っていく。
恵美より頭一つ分高い、見慣れた大きさになってしまった三春瀧桜がすぐそばに立っている。
三春瀧桜は触れるごとに形を崩しながら恵美の手を取った。
「次に会う時もよろしくね。ちゃんと呼んでよ?」
恵美は言葉が詰まって返事ができなかった。
そしてそのほんの一秒つっかえている間に三春瀧桜は微笑みだけ残して散って消えてしまった。
風に乗って舞う花びらに恵美は思わず手を伸ばすけれど、そのひとひらは風に押されて指に触れる前に空の高みにまで離れ去っていった。
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