櫻媛PROJECT

奈月遥

チュートリアル編

4月・異世界転移

 開け放った窓から春風に乗って真っ白な花びらが入って来て、恵美は今年の春ももうすぐ過ぎ去っていくのを実感してしまった。

 祖母の形見であるタブレットで今年取れた蜂蜜の量を記録していた手を一旦止めて、庭に植えられた大きな桜の木に視線を向ける。

 往年は祖母が住んでいたこの家の庭にある桜は、世間で一般的に植えられているソメイヨシノではなく、祖母自身が品種開発した珍しいものだ。花は咲き始めから白く、開花と同時に芽吹く柔らかな葉は真っ赤で、紅白で目出度いと絶賛された。祖母も娘の、つまりは恵美の母親が結婚する時に記念として同じ品種を贈っている。

 風にそよぐ度に散って花眩はなくらませるその桜の白から飛び出ている若葉はもう随分と緑が強くなっているけれど仄かに赤らんで、また縁取るような赤がまた何とも言えずに趣深い。花の白が舞い葉の緑と赤が揺れる枝の間を蜜蜂達が飛び交っているのは、恵美の出産祝いで植えられたこの桜は蜜が特別に多いという突然変異をした個体だからだ。

「お祖母ちゃん、今年も桜達にたくさん蜜を貰ったよ」

 高校の頃から蜜蜂を育てて蜂蜜を瓶に詰めていた恵美は卒業してからのこの一年、蜜蜂の巣箱を車に乗せて全国津々浦々巡って、実家暮らしながらどうにか税金を踏み倒すような真似はしないで成人としての責任を果たしてこられた。今年は巣箱の量をさらに増やしてあって、通販にも手を出して少しは貯金でも作ろうという気概でいる。

 桜の蜜はもう出荷待ちまで作業が進んだので、次は蜜柑の蜜を求めてまた南から日本列島を順々に北上して行かなくてはいけない。

 明日にはまたしばらく自分の桜ともお別れだと思うと、恵美はいつものことながら感慨深くなってタブレットを持ったまま庭に出る。

 間近で見上げると、桜の花びらが風そのものになったかのような見事な桜吹雪が、午後の日射しを跳ね返してシャンデリアのように眩しい。

 というか、花びらの群れは空を隠してしまいそうな程に多く、明らかに一本の桜が散らした量を遥かに上回っている。ちなみに、この家の庭に植わっている桜はこの一本だけである。

「え、なに、どういうこと?」

 目を丸くして戸惑う恵美に向けて桜吹雪は意思でも持っているかのような振る舞いで迫ってくる。その渦の真ん中に、少女が一人、恵美に向けて手を伸ばしているように見えた。

 恵美は大して考えもしないで、ぼんやりとその光景へと手を伸ばし返す。

 ぎゅっ、と幻影にしてははっきりとした現実感でその子は恵美の手を握って、にっこりと笑顔になった。

「ありがとう! よろしくね!」

 何がありがとうで、何をよろしく言われたのか、なんて考える暇もなく、恵美の意識と体は桜の花の嵐に呑み込まれて、ぐるりと足が地面から離れてしまった。

「ほわっ!?」

 視界と意識をぐちゃぐちゃに掻き回されて叫んだ直後、恵美の足はもう一度しっかりとした地面の感触を取り戻した。

「なに、なんなの……」

 頭はくらくらするし、目はちかちかするし、状況が全く把握出来ない。

「ごめんなさいね、急に異世界に連れて来たりして」

 恵美は聞いたことのない声に顔を上げて、そして目を見開いた。

 真っ白な花と少し赤みがかった葉が入り混じる見慣れた桜の木、その前に目を見開くほどの美女が立っていた。

 ハニーブラウンに甘い髪を三つ編みシニヨンでアップにしていて、顔立ちには少し険があるけれどそれがまた攻略のし甲斐がありそうでいい。なんだかんだ文句をいいながら結局絆された時に、にこりと笑ってくれたらギャップで堕ちてしまうこと請け合いだ。

 なんてことを一瞬で思考した恵美は本能だけで体を突き動かし、タブレットを腋に挟んでから美人なお姉さんの手を両手で握り締める。

「お姉さん、美人ですね! お名前と連絡先を教えてください、今晩一緒にお食事とかどうですか!」

 一目合っただけでナンパしてきた恵美に、手を取られた美女はそれはもう呆れ果てた白い目で見下してくれる。蜜金色の瞳の眼差しがあまりにご褒美過ぎて、恵美は背筋にぞくぞくと快感が走った。

「あんたって子は……異世界転移してきて最初の台詞がそれでいいの?」

「……いせかい?」

 お姉さんに気安く呆れてもらえた恵美は、はたとその中に入ってきたおかしな単語にやっと疑問を抱く。

 お姉さんはすん、と顔を冷まして小さく溜め息してから、恵美によく見えるようにしっかりめに頷いてくれた。

「異世界。アナザーワールド。転生じゃなくて転移の方ね」

「……なるほど、なろう系ではない、と」

 テンプレは死んでから異世界に行く転生であって、生きたまま異世界に行く転移ではないと恵美は大して意味もなさそうな主張をしてくる。

「こっちから言っておいてなんだけどさ、そこに大きな違いある?」

「んー、気分の問題? あ、でもなろう小説の方がヒロインハーレムできるじゃん……流行りに乗るのはやだけど、むしろ乗った方が役得?」

 何がむしろでどこが役得なのだろうか。

「あんた、自分が女だって自覚ある?」

「キレイなお姉さんに警戒されずにお近づきになれるから、生まれる時にガチャに勝ったなっていつも幸運を噛み締めています」

「……あんたを推薦してしまった自分を早くも後悔させないでくれる? お願いだから。マジで。ガチで」

 お姉さんの顔が暗くなってきたので恵美はなけなしの自制心を取り出してお姉さんの手を離してすっと一歩退く。

 そのついでできょろりと辺りを見回してみると、土が踏み締められて草丈がどうにか人の膝より低くなっている範囲は運動公園くらいの広さしかなくて、そのすぐ際まで森が迫っている。どうにか人の集落だと分かる空き地に、ぽつん、ぽつんと茅葺屋根が地面にちょこんと乗っている。

「竪穴住居???」

 恵美はどうにか小学校の教科書で見た知識を掘り起こして、目に入ってきた人工物に当たりを付けられた。

「そうよ。よく分かったものね。えらいえらい」

「えへへ」

 お姉さんに褒められて恵美はにやけた。美人に褒められることでしか得られない栄養ってある。なおざりだけど、そんな素っ気なさがいい塩梅だったりする。

「って、待って。竪穴住居って原始時代じゃない?」

「原始時代は洞穴生活よ。日本で言うと縄文時代くらいの文明ね」

「じょうもんじだい……」

 恵美は当然ながら衣食住が充実して通信インフラも整備されているような、豊かで安定した文化圏で生きてきた若者である。狩猟生活どころかキャンプもしたことがない。山菜を取りに山に入ったりはするし、人よりは自然に親しんでいる自覚はあるけれど、その程度だ。

 今更ながら、この環境で生きていかなくてはならない可能性を突き付けられて不安が首をもたげてくる。

「縄文時代って言っても終わり際、何かのきっかけで弥生時代くらいにはなるような時期よ。まぁ、そのきっかけのためにあんたが呼ばれたんだけど」

 お姉さんの柔らかな手が恵美の手を取った。合わさった手の平から伝わるぬくもりが、ほんの少しだけ恵美に安らぎを与えてくれる。

「ついてきて。いろいろ説明してくれる方がいるから」

「……うん」

 このお姉さんに優しくされると、なぜだか自然と甘えてしまう。今日初めて会ったのが不思議なくらいの親近感がある。

「ちょっと、親指で手の甲を擦らないでくれる?」

「え、だめ? お肌すべすべですごい最高の感触なんだけど」

「こっちは微妙に気持ち悪いのよ。セクハラ禁止」

 恵美がつい思わず恋人がいちゃつくみたいにお姉さんの白魚のような手を堪能していたら叱られてしまった。

 仕方ないので大人しく手を引かれて子供のように連れられていく。

 森の真ん中に空いた広場の縁から反対の縁まで向かうようだ。それなのに集落を突っ切るのではなくて端を迂回して歩かされる。

 その途中で茅葺屋根の中から小さな女の子が出てきた。時代劇で見た筵をもう少し丁寧に手入れしたような服を着ているその子がじっとこちらを見てくるから、恵美はにこやかにタブレットごと大きく手を振って応えてあげる。

 でも女の子は恵美の仕草の意味が分からなかったようで、きょとんと不思議そうに見返してくるばかりだ。

 そんなことをしていたら、お姉さんが嗜めるようにくんと手を引っ張られてしまったので、恵美は大人しく付いていった。

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