第23話 沫雪〈2〉
それは、年が明けて数日後のこと。
暦上は春の明けでも、まだその気配の追い付かぬ寒さが、朝から一帯を包んでいた日であった。
まもなく楸瑛の夫となる予定の袁氏御曹子が、『新年の挨拶に』と、事前の知らせもなく石家を訪れた。
驚いた石家側の男衆が、急場酒宴でもてなす。
「噂に聞く美しい
新年ということもあってか、男は勧められるまま酒を
決して賤しい育ちではないから、下品とまではさすがに言わないが、高圧的言動が節々に見え隠れしていた。
―――― この男に、楸瑛を託すのか。
初めて男に会った広元は、口にも態度にも出せないながら、胸裏に愁眉を寄せる。
外は夕刻から、冰粒も混じった冷たい雨となった。
袁子息はしたたかに酔い、陽も落ちてしまったため、石家では男を泊めることになった。
皆が寝静まった夜陰。
広元は昼の気疲れか、なかなか寝付けない。仕方なく一度外の空気を吸いに、ひとり歩廊に出た。
月隠しの暗闇に、歩廊端の小さな常備灯が揺れている。
「寒いな……春になるはずなのに」
呼気が白い。雨に混じった微細な冰粒が、院子の葉を叩く音が響く。
広元の口中には、先ほど男と交わした、異様に苦く感じた酒の味がまだ残っている。少し胸焼けもした。
胸元をさすりながら、彼は酒宴での心緒を反復する。
楸瑛の夫となる男。
親子ほどと言える歳差例は、別段珍しいほどでないからよしとしても……あの人格はどうなのであろう?
―――― 名門家だからと嫁がせて、本当にいいのか。
夜更けの深みに合わせて濃くなる疑問。
―――― しかし……いまさら。
もう二、三呼吸し、広元は自室に戻ろうとした。
……すると。
「……?」
微かにした奇妙な物音。楸瑛の室の方からだ。
こんな時刻、気のせいかとも思ったのだが、何とはなく感じた胸騒ぎに、楸瑛の室扉へ向かう。
室の灯りは消えていた。が、中から確かにする動きの気配。
「楸瑛? まだ起きてるのか?」
扉外から掛けた呼びかけに応え聞こえたのは、
「楸瑛!?」
咄嗟、扉を弾き飛ばすように押し開けて踏み込む。
「――!?」
広元の目に入ったのは、室奥にある牀台の上で暗闇に動く影の
歩廊からの灯でわかった。ひとりの男が楸瑛を襲っている。それは ――
「袁――!」
影に飛びかかった広元は、無我夢中の若い力で男を牀台から引き剥がし、扉方向へ思い切り突き飛ばした。
どすん、と床に尻餅をつかされた袁の御曹司は、
「……やめろだと?」
一度
「ほ。はは、これはこれは。兄君ではないか」
まだ酒が抜けていないようだ。
「……袁どの」
怒気に肩を上下させながら、それでも広元は落ち着いた口調に務めた。牀台上の楸瑛は広元の背に隠れ、震えている。
「これはいったいどういうおつもりか。酔いの上とはいえ、非礼が過ぎますぞ」
「非礼だと?」
酔漢はぎろり、広元を睨む。
どこまで正気か定かでないが、自尊心だけは失っていないようだ。
「
本人なりの理屈を通すつもりでいるらしい。
「……」
ここで下手に対抗するのは得策でない、と広元は判断する。相手の腰に佩刀様子はないものの、何も持っていないとの確証はないのだ。
男を刺激せぬよう意識しながら、広元は冷静な声色を続ける。
「……
理路整然、相手を立てつつ、決して卑屈でない姿勢。
酔った男は、まともに返す言葉が出ない。
「……ふん。儒者らしく口達者だな」
面倒くさそうに、指爪で
「まあいい。半月後には儂の手に入るのだからな。それまでによおく、しつけしておけよ」
捨て
「……」
男の笑い声が完全に消えたところで、広元は吸うばかりで溜め込んでしまっていた息を、ふうー、と一気に吐き出した。
背にしがみついたままの楸瑛に振り返る。
震える妹の頬の涙を拭き、乱れた夜着襟を直してやりながら、
「もう大丈夫だ、楸瑛」
「……兄様」
楸瑛は離れない。広元の腕を掴んだ指が
「楸瑛……」
気丈と思っていた楸瑛の、こんなに弱々しい姿を見るのは初めてであった。広元はもう一度大丈夫と言い聞かせ、温かな笑みを作る。
その広元を、楸瑛の濡れた瞳が見上げた。
「兄様……わたし……わたし」
「いいんだ。明日話そう。今はやすみなさい。おまえが眠るまで、側にいるから」
怯えて興奮している楸瑛を、まずは落ち着かせてやらねば。
室扉を閉めると、広元は牀台脇の床に腰を下ろす。
「安心しておやすみ……楸瑛」
楸瑛は閉ざした唇でまだしばらく広元を見つめていたが、やがて横になり、泣き腫らした目を閉じた。
しんしんと漂う、冬名残の冷気。
就寝前に温めてあったはずの室も、放っていた扉のせいで、すっかり暖気が抜けてしまっていた。
楸瑛の寝顔を見守りながら、広元は思惟する。
袁の行為は論外にしろ、彼の言い分すべてが理不尽とも言い切れない、とも思う自分がいた。
広元とて十代、男女のことを語れるような経験はない。それでも最低限の知識と想像力はあった。嫁ぐと決まっている以上、楸瑛には女として避けられぬ道があるのだ。
……だとしても、あの男にか。
「……」
だか、しかし。
どれほどの
なんら役立つ解決策を思い付けない自らに、広元は拳を強く握った。
……
広元がふと目覚めたとき、外は白んでいた。朝鳥たちの声がする。
いつの間にか、そのまま床で眠ってしまったらしい。
体には
―――― 気付かなかったな……いつ出て行ったんだろう。
体をひとぶるりさせて起き上がると、広元は室外に出た。
外はまだらな白化粧。前夜の氷雨は、未明に雪となったようであった。
元より降雪の少ない襄陽には、珍しい名残雪。積もるほどでなかった
雪に洗われた空気は澄み渡っていた。昨夜の重い事件が嘘のようだ。
とにかくまずは、楸瑛を探さねば。
合わせた手に息を吹き込み、広元が一歩、足を運んだと同時である。
『旦那様、奥様! 広元様! たっ、たた、大変でございます! 楸瑛様があっ!!』
…………
「……身を、投げた。襄陽城壁の門楼から」
<次回〜 第24話 「沫雪〈3〉」>
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