私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に白玉の龍が哭(な)く」〜戦乱世に舞い降りた、美(は)しき龍人の鎮魂歌
若沙希
第一章 闇に囚われた白鬼
前編 麗人と狂人
第1話 瑯琊(ろうや)の謡
その
ひたひたと生き物の如く、無慈悲に成長し続ける
生者の持つ五感、さらには時の認識さえ、音もなく、だが嬉々として
室は、厳密には完全な暗室というわけではない。
小さな
宙に浮いた細い三つの灯火。
その灯のせいで、囲む闇の深さが、余計際立っているようでもあった。
室内に置かれた、古く粗末な
長い黒髪は、美しいが束ねられもせず、痩身に沿って、無造作に流れ落ちている。
もう長い時間、小指先ひとつ身じろがない。
呼吸の気配さえ感じられぬほどに、それはほとんど、
生反応が静止した空間。……だがその青年の内部で
———— ……今の季節は。
前後不覚になりかけている己を
———— ここに入れられたのは、晩夏……いや、秋になっていたか。
突。ゴト、と低い音。
唯一ある扉の外側で、木錠が外された。
固まっていた青年の細い肩が、ぴく、と反応する。
———— 来た。
ギイイイ……
引きずる鈍い
扉外に立つは、一個の大柄な人影。影は手にしてきた
「ほう。珍しく、起き上がっていたか」
入ってきた男は、手燭の灯を消えていた室内の他のいくつかの燈皿にさし、互いの身体輪郭が認められるほどの仄明るさにした。
手燭が几案に無言で置かれる。
そして鳴り始めた、ゴツ、ゴツと……
男は、青年のいる牀台へと迫り寄る。
———— 寄るな。
青年は口の中で吐き捨てた。これから起こることは予測出来ている。
青年はうずくまり姿勢を解き、無駄だと知りつつ、男から一番離れた位置の牀台奥端に
「ふん。どうした」
さまを眺める男の
「ははん。まさか、震えているのか」
上から見降す男の口許と声に、欲情に歪んだ残忍な色が浮かぶ。
直後、下卑た
動きで起きた風に、細燈のひとつが、ふっと消えた。
———— ……。
青年は、辛うじて繋いでいた己の生感覚を故意に遠ざける。
……そうせねば、正気は保てない。
木組箇所の
青年はそれ以上、抗わなかった。
◇◇◇
「聞こえるか、
その日、馬上でゆるり馬足に揺られていた旅人、
ここは
城壁にほど近い小さな丘陵地形を成した辺りで、年歯十八の広元は、若い涼やかな眼を細めた。
〝
「どこからだろう? ……結構近くからだ」
彼の身なりは、旅装束であるために飾り気なく質素なものであるが、かといって
若齢の浮つき感もなく、静穏な足取りだ。
この年、暦は新年号『
つまり建安元年(西暦196年)。御世が『
初冬十月の上旬、空気にいくらかの冷たさは感じられるものの、まだ人肌を刺しはしない。むしろ新鮮さを感じて心地良い気候だ。
特にこの日は、ひときわ気持ちの良い日和であった。
青空はどこまでも高く突き上がり、秋の名残り風がさらり、野を渡っている。
〝 遥かに望む
謡声は、今日の空のように澄んでいる。
「
ふわりと笑み、広元は馬の首筋を撫でた。
『狐站』とは、彼の乗っている馬の名だ。
歳を重ねた今の毛色は白っぽくなっているが、生まれたときの狐色が命名由来だと、馬丁から聞いていた。
馬相手に語りかけ続けている単独男の画なぞ、
風に乗った謡が続く。
〝 問うとこれ
昼下がりの陽射しで眠くなるような暖気に、心地よく響く純な声。
もう少しじっくり聴こうと、広元は馬足を止めた。
〝 力
———— 聞き慣れない謡だな。……それになんだか、お硬い
節も詞も、広元の住んでいる荊州のものではなさそうであった。
どこか遠方の民謡だろうか。
広元は声のする方へと静かに歩を進め、下馬をして、岩陰からそうっと声元をうかがった。
覗いた先、少し離れた低岩に腰をおろしている謡い手が見える。
「あれ、子ども……?」
覚えず零す。
謡い手は、広元の予想よりずっと
歳も性別も予想を外して、広元は軽く恥笑いした。
ともあれ、美い声には変わりない。
ゆるり流れる陽気と美声に癒されながら、広元は岩裏で目を伏せ、続きに耳を傾ける。
〝
二礼をもって
誰が能くこの
「……」
このあたりまでを聴いたところで、やっと詞の意味を本理解した広元は、指先でこめかみあたりをさすった。
———— どうやら
しかもある
意味までは解らず、ただ
ピー、ヒョロロロロ……。
謡に呼応しているのか、
そのまま岩に背を預けた広元は、ぼんやり、睡魔の訪れを感じた。
……そうして、半目を落としかけたときである。
ヴァルルッ、ヴルッ、ヴルッ!
「——!?」
すぐ側からした穏やかならぬ低い
一気に眠気が覚める。
「狐站!?」
脇の木枝に繋いでいた狐站が、何やら盛んに脚を踏み鳴らせている。
———— なんだ?
それは警戒と興奮の仕草。
人でいえば老齢に差し掛かっている狐站は、比較的気性のおとなしい馬で、滅多に騒がない。
緊張を得た広元は、慌てて周囲を見廻す。
やがて彼の視覚が、右手方向の草間に紛れうごめく、ひとつの黒い塊の存在をとらえた。
「……!」
二丈も離れていない場所にいる生き物は、こちらを真っ直ぐ見据えている。
———— 犬だ! ……大きい。
鈍色毛をした、体高が二尺(約46cm)はありそうな犬。長い足に筋肉質の精悍な体躯をしている。
———— まずいぞ。
相手の外観を認めるや、広元は全身を強張らせた。一目で猛犬類であると推断したのだ。
動物を愛玩目的で飼うことは一般に習慣化しておらず、犬も防犯や狩猟、軍事補佐などの目的で飼育する場合がほとんどである。
あとは野犬、すなわち野獣。
広元を睨んでいる犬がどういう素性かは不明にしろ、野生の危険性は言わずもがな、仮に人に訓練された犬だとしても、
———— こちらが〈敵〉とみなされれば、そこまでだ。
暗く沈んだ毛並みの中で、ぎらつく眼光。裂けた口から赤い舌を垂らし、興奮する荒い息。
広元に対し、明らかに攻撃心を見せつけている。
眼を合わせてはだめだ……そう気付いたときには、もう遅かった。
獣は体を低い体勢に構えると、引いた顎から牙歯を剥き、広元を上目遣いに喉奥から唸りを上げ始めた。
———— どう……する。
頭部に寒気が走る。湧いた冷や汗のせいだ。
脇下にも、じっとりと汗。
攻撃にも防御にも覚えの疎い彼であるのに、こうなってはもう逃げられない。
今にも跳びかからんとする相手との間合いに、広元は護身用に脇刺ししていた
「——」
ピンと張った呼吸の糸……まさにそれがぷつんと切れようとした、刹那 !
「おやめ!
よく通る声が、場に響き渡った。
<次回〜 第2話 「
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