34:七月二十五日
ラベンダーの精油でアロマミストを調合していると、ロキとお茶した時のことを鮮やかに思い出す。
香りとは記憶の結び付きが強いものだ。
部屋の換気で窓を開けるついで、リヴィアンが小さなベランダに出てみれば今日も輝かしい7月の午後。
あれからほんの二週間で随分と暑くなってきた気がする。
見上げる太陽が肌を焦がし、せっかく薬用化粧品で薄くなってきたそばかすがまた増えてしまいそうだ。
三階の部屋から眺める景色はすっかり緑も花も盛りの季節。
さて、そろそろ約束の時間か。
もう夏休みだというのに、暑苦しい真っ黒な制服に袖を通す。
静まり返った空洞の校舎へ赴く為に。
寮は男女で寝泊まりする建物が分かれており、休みになると顔を合わせるのは双方から渡り廊下で繋がった先にある食堂くらい。
そこも時間外は閉まってしまう為、相変わらず読書だけでなくロキに勉強を教える場所として図書館を活用している。
「校舎に入る時は制服」という規則により、毎度の着替えが面倒だが。
それは慣れたとして、今日は別の要件である。
ロキから「誕生日プレゼントを用意しておくので第二理科準備室に来てほしい」と耳打ちされたのは朝食の席でのことだった。
先日のお茶で勉強の礼をするつもりが、誕生日プレゼントで帽子を貰ってしまったのでまたお返しだという。
そんなに気を遣うことなど無いのに。
受け渡しは図書館や食堂では駄目なのかと訊ねてみたら、他の生徒からは秘密にしたい物とのこと。
サプライズなど要らないから、先に何なのか教えておいて欲しいところなのだが。
そう、今日はリヴィアン・グラスの誕生日。
何よりディアマン王国で成人の18歳は特別である。
飽くまでも肉体の誕生日、あまり感傷に耽けるようなことは無いものの。
それと一応テクタイト家が後継人から外れる。
成人祝いの贈り物と共に、今後も困ったことがあれば頼って良いとの手紙が届いていた。
親戚なので縁が切れてしまう訳ではないが、最後まで良い人達揃い。
やはりヒロインらしき気配は無く、既にシナリオが変わっているのならこのままチベタンとは別々の人生を歩むかもしれなかった。
無人の校舎に階段を叩く靴音はやたらと大きく響く。
日頃から足腰を鍛えてはいるが、自室の三階からまた別棟の三階まで移動するのはなかなか億劫。
準備室は理科室内を突っ切って、その奥の壁際にある扉を開けないと入れない。
普段から部屋に溶け込んで存在そのものを忘れられている上、施錠を良いことに職権乱用。
担当のベルンシュタインが半ば私物化していることはほとんど知られていない。
本来なら薬品や器具などを置く場でしかないのだが、それら一式は大きな飾り棚に。
残りのスペースといえば、理系の専門書から彼女の趣味まで様々なジャンルが詰まった本棚が並んでいる。
チョコレート色のアンティーク机や、よく使い込まれた灰皿とカップ。
確かに落ち着いて読書するには最適な部屋だった。
古い紙と煙草とコーヒーの匂いが薄く居座る空間。
いつもベルンシュタインが纏っている純喫茶の雰囲気はここが根源である。
「本当に来てくれたんね、リヴィ先輩」
「あらまぁ、呼び出しといてそれ言うのね……」
静寂を崩して対面する金と銀。
制服が真っ黒なこともあり、夏の陽射しにお互い髪がやたらと眩しい。
両者ともに光と溶け合って強くなる色。
それにしても何なのだ、この第一声は。
静かに微笑みながらもまるで「来るとは思わなかった」とでも言いたげ。
実のところ、リヴィアンがここに入るのは数回目。
中等部の頃はベルンシュタインに招待されて本を借りたりコーヒーをご馳走になったりしたものである。
しかし流石に部屋の主が不在なのは初めてで、ロキに鍵だけ預けたらしい。
しかし秘密にしたいからというのはまだ分かるとしても、わざわざ二人きりの理由は何なのだろうか。
「それで秘密にしたい物、って何よ?」
「大した物じゃないけどバースデーケーキを。僕がおもてなししたかったので、場を設けさせていただいたんよ」
バースデーケーキといえば苺と生クリームを思い浮かべるところだろうが、この国では季節によって旬の果実が使われる。
それに、先日の合同誕生会で食べたばかり。
毎月の半ばに寮生全員でいつもより少し豪勢な夕食とケーキで祝うのである。
ちなみに7月生まれはココア生地にチェリー。
ところで、ロキが選んだ物はといえば。
「成人おめでとうございます、リヴィ先輩」
恭しくサバランの皿を差し出しながら祝いの言葉。
この世界で食べるのは初めてだ。
洋酒のシロップで艶々したブリオッシュに、冷たいホイップクリームのお菓子。
なるほど、成人ということでアルコールを使ったケーキか。
飲み物でなく食品という括りなら未成年のロキでも購入自体は出来ることになっている。
街から徒歩で往復するとそれなりの距離。
しかもこの陽気なので溶けてしまうところ、形を保って涼しげな佇まい。
そういえばここには氷の冷蔵庫があった。
先程まで冷暗所保存の薬品と共に置かれていたと思うと、なかなか可笑しな話だが。
それから、ケーキのお供は背の高いグラスに並々注がれたアイスコーヒー。
レース編みの敷布の上に透けて、綺麗な濃褐色の影を落としている。
「先輩、コーヒーお好きでしょう?」
はて、教えてもいない筈なのに何故それを。
とは思いつつ食堂ではいつもコーヒーを頼むので分かるか。
そうして納得しかけたが、よく考えてみれば見られていたこと自体が何となく気恥ずかしい。
落ち着く為にもまず一口。
果実を思わせる酸味に、苦味や香りもすっきりとしていて夏向きだった。
「うん、美味しい……これロキ君が淹れたの?」
「ええ、先生に淹れ方のコツとか焙煎度合いとか豆のこと教えてもらったんよ」
「……そこまで?」
「先輩、こないだローズヒップとハイビスカス飲んでたから酸っぱい方が良いんかなと思いまして」
細かい好みまで把握されているとは。
ここは敢えて返答せず、代わりにコーヒーを流し込んで口を塞ぐことにした。
軽い舌触りですいすいと飲めてしまう。
さておき、おもてなしは素直に受け取っておいた。
小さなフォークでサバランを口に含むと、じゅわりと溢れ出すラム酒の香り。
冷たいシロップが湧き出た唾液と混じって特有の熱に変わる。
無人の校舎、制服のままアルコールを味わっているなんて不良にも程があるだろう。
「で……ロキ君もサバラン?」
「折角なら同じ物食べたかったんよ」
共犯とも言うべきか、ここに不良ならもう一人。
違いがあるとしたらロキのグラスにはコーヒーと牛乳で半々ずつ。
そういえばお茶しに出掛けた時、カモミールティーにも二口目からはミルクを加えていた。
こうして今日も優雅なティータイムは過ぎていく。
まるで二週間前の再演。
しかし、あの時と同じような平穏とはいかなかった。
黙々と食べ進めたサバランも最後の一欠片。
底に溜まっていたシロップがよく沁みていて、何だか甘さで喉が灼けそうだった。
コーヒーを飲んで洗い流してから何気なくリヴィアンが本棚に目を移してみると、気になるタイトルが増えていることに気付く。
ベルンシュタインとは趣味が合うようで図書館にも置いてない魅惑的な蔵書ばかり。
故に表紙だけでも見てみたかったのに、それは叶わず。
「あっ……これ、ちょっと、ヤバ……」
椅子から立ち上がった瞬間、地面が横に揺れて身体ごと持っていかれそうになる錯覚。
そのまま倒れそうになり、咄嗟に背凭れを掴んで耐えた。
平衡感覚の異常に気付いたが、決して地震などの外的要因ではなく。
この身体でアルコールを口にしたのは初めてだと忘れていた。
考えてみればラム酒は度数が高く、子供並みに弱ければ少量でも危ういか。
見かねたロキが手を貸してきたが、椅子に掛け直そうとしても膝が軽く折れたまま動けず。
この世界に降り立った数年前よりは引き締まってもリヴィアンは肉感的な身体つき。
華奢なロキでは支えられないだろうし、流石に悪いのでどうしたものか。
そう思っていたのに。
この状態になると自分よりも小さなロキと目線の高さが同じ。
緩く瞼を落とした顔が近い。
そう気付いた時には、アイスコーヒーで冷えていた唇に彼の体温が重ねられていた。
ブラックとカフェラテの香る吐息が柔らかに交わる。
触れるだけのキスをすると、抱き竦めたリヴィアンの首筋に顔を埋めたロキが深呼吸。
匂いを嗅いでいるような、一大決心の為のような。
「リヴィ先輩、今日、僕に告白されること知ってて来ました?」
ああ、ただの考え過ぎということにしていたかったのに。
こうやって本人から否定を突き付けられてしまった。
「ロキ君も酔ってるでしょ、今……お酒で失敗するのは早過ぎるわよ」
「これは酔っ払いの戯言じゃないから聞かなかったことにせんで下さい」
この期に及んではぐらかそうとすれば、物静かな彼が初めて強い声。
どうか本音だと信じて欲しいと。
ただリヴィアンの身に起こったことで驚いたのは事実だが、好意を持たれているとは確かに以前から気付いていた。
幾ら何でもそこまで鈍感ではない。
人当たりの良い愛想笑いで透明な壁を作って周囲と馴れ合わなかったというロキが、彼女にだけは仔犬のような懐き方。
ずっと見て見ぬ振りをしていただけ。
後払いをする結果に陥っても。
「気持ちは嬉しいけど、ほら、中等部で可愛い子なんて他にも沢山居るんだから……」
「僕にとって特別なのは先輩だけなんよ」
地味な自覚は持ちつつも出来る範囲で身形を整えているので、決して自分を卑下するつもりはない。
とはいえ一歩ずつ下がる建前にしようとしたら、ロキに引き止められてしまった。
「こうやって誰かのこと分かりたいと思うのは初めてで、僕はリヴィ先輩のこと何でも気になるし、知りたいです」
「何が知りたいの……」
「先輩が僕のことどう思ってるのか、とか。一定の興味は持ってくれてるみたいでも、分からなくて苦しいんよ……」
「それは、教えられない」
暫定攻略対象かつ、この世界のシナリオを掴む為の観察対象。
情報収集の為にロキのことを色々と訊いたのは誤解させてしまったか。
そこを別とすれば「可愛い」が付く後輩、友人、弟分。
この半年、共に過ごしてきた心地良さと築いてきた親愛なら確かな物だと思う。
今までそんな間柄だった筈なのに、唇に触れることでたちまち男女に変わってしまった。
戻ることは出来ずに進むか離れるかの岐路。
それにしても、あの穏やかなロキが随分と大胆に口説いて来たものだ。
日頃控えめなものだからリヴィアンも侮っていた。
いや、乙女ゲームの攻略対象ならば恋愛に情熱的というのはむしろ必然か。
舞台としてはヒロインの為に生まれたのだろうに。
もしかしたら、このお茶会も本来なら顔も知らないその彼女が招待される場だったかもしれない。
こうしてリヴィアンを運命の相手だと思い込んでいることに哀れみすら。
ロキなら同年代でもっと似合いの相手が居る筈。
成人と未成年の4歳差は大きい。
中等部ではまだ子供、あまりに年下過ぎる。
自分は我儘で欲深き悪い大人、気の迷いとしてやめておいた方が良い。
憧れを恋愛感情と勘違いするのはよくあること。
ここが物語の世界であることを分けて考えても、そう諭すつもりだった。
それなのに力が入らず頭も回らず。
なるべく上手に優しく穏便に振らねばならないのに。
いつまでも不安定な状態で抱き合っている訳にいかず、ロキに支えられながら一旦体勢を整えようとした。
ここで椅子に腰を下ろしていたらまだ冷静でいられたのだが。
背凭れから離した手を取られて引き寄せられ、倒れるような勢いで床の上へ。
咄嗟にしがみ付いたものだから、これでは膝を立てて座り込むロキにリヴィアンから抱き着く形。
脚を投げ出したまま密着することになってしまい、今度こそ動けない。
至近距離に、相変わらず妖精じみた小綺麗な顔立ち。
真っ直ぐ見つめられてロキの目が濃藍だと初めて気付いた。
この世界の人間は名前の鉱石と同じ色を持つ。
ギベオンの銀色を冠する髪ばかり気を取られていたが、こんなに美しい青も宿していたか。
思わず見惚れそうになって危機感を覚えた。
不味いだろう、早く離れなければいけないのに。
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