27:逢ヶ魔時
昼に降り積もった雪が溶けないまま足早に太陽は傾き始めた。
厚かった雲が風で洗い流されて澄んだ青空には少しずつ寒々しい色が混ざり、今日はまた一段と凛とした夜を控えている。
開いた本の世界に深く潜っていたつもりでも、ふとした時にこうして窓の外に目を奪われてしまう。
温かいお茶でも欲しいところだが、図書館は飲食禁止。
ここから見る雪景色はもう三度目、この身体で迎える冬は四度目。
現在のリヴィアンは高等部ニ年生になった。
孤児院付属のシーライト学園は初等部から高等部まであり、敷地の中央には背の高い建物。
ここには校内で共用の施設が一つに集まっており、二階は丸々図書館になっている。
壁を埋めて立ち並ぶ棚に絵本から哲学書まで幅広いジャンルが揃い、それだけの広さを誇っていた。
異世界巡りで大きな楽しみの一つは読書。
その世界にどんな本があるのかと考えるだけで心が躍り、人の作る物語を愛しているからこそ役者として演じることを喜びとする。
彼女にとって、図書館はまるでお菓子の食べ放題にも近い魅力。
それも住処に併設されているだなんて素晴らしい。
雪景色を背にした制服姿は真っ白な紙に墨を垂らしたような絵面になる。
女生徒のリヴィアンは黒いジャケットとジャンパースカート、シャツも明度の低いチャコールグレー。
首にはリボンブローチが飾られ、小さな金色のガラス玉に校章が彫られていた。
こんなにも立派な制服、本来ならば値が張る代物。
しかし学園も仕立て屋も元締はライト公爵家なので融通が利き、意外と手頃な価格で済んでいる。
生徒は孤児だけでなくあまり豊かでない家の子供もまた多いので、いざという時の正装として使えるようにとの配慮。
学校から下取り交換もしてくれるお陰で、サイズが変わる際にも大した手間入らず。
何しろ編入当時の制服なんて、もう緩くて着られたものでない。
二年半のうちに余計な脂肪は随分と落ちた。
痩せても綺麗になれるとは限らないものだが、全体的に適度な肉付きの良い身体。
体質なのかダイエットで無くなりやすい胸や尻がそのまま残り、腰や足首が引き締まって括れが生まれた。
腹も柔らかな手触りのようでいて、筋肉の張りが指を押し返す。
第一に、リヴィアンが太っていた大きな原因は甘やかされた怠惰な環境である。
寮での規則正しい生活とバランスの取れた食事で改善され、加えて役者としての基礎的な運動を続けた結果がこちら。
ただ単に演技力が高いだけでは女優になんてなれない、全く足りない。
毎日のトレーニングは欠かせず持続力と根性も必要。
筋力、体幹、そしてやはり発声練習に外郎売も。
役作りとは体作りも含まれるので、短期間で体重の増減を調整するなんてよくある話。
その上、彼女の場合は様々な異世界に入り込む度に毎回別人の姿を借りるのだ。
動きやすいように一から鍛えることは慣れている。
リヴィアンとして過ごしてみて実感したが、悲惨な馬車事故の際でも一命を取り留めただけありこの身体はなかなか頑丈だった。
鍛えれば鍛えるだけ身に付いて、今では更に筋肉と体力も増した。
思い返してみれば、まず内臓も強くなければあれだけ太れない。
勿論しっかり健康管理をしているし若さがあるとはいえ、この三年ほど風邪一つ引かず。
酷く荒ぶっていた淡い金髪も専用の洗髪剤で落ち着いて、今でも広がりやすいが癖っ毛程度。
肩より少し長めにした方が重みで纏まり、邪魔にならないよう普段は三つ編みに。
そして初めて見た時から思っていたこと、リヴィアンという少女は決して不細工ではない。
髪の色素は薄いが柔らかい印象の垂れ目は暗褐色、濃い色は黒目がち効果で大きく見える。
薬用化粧品のお陰で前より薄くなったが、鼻梁から両頬に掛けて散ったそばかすも肌の白さを引き立てる物。
小さめ低めの幼い鼻に丸みがある頬のラインで、美少女とまではいかなくとも地味ながら可愛らしい顔立ち。
グラマラスな身体にベビーフェイスは妙な色気があった。
ただしカスタマイズは努力の結果とはいえども容姿を褒められても嬉しいどころか、むしろ複雑な気持ちにしかならず。
本物のリヴィアンから奪った物という自覚が重々あるのだ、流石にそこまで盗人猛々しくない。
それなら能力や行いや作品で評価された方が良かった。
知識欲の強さもあって勉強は楽しく、成績上位を保てているのでこちらは素直に嬉しい。
そういう訳で、来たるべく運命に備えての準備期間はなかなか充実していた。
「失礼、グラスさん。そちらの本、次にお借りしても良いですか?」
さて、どこの図書館にも主のように入り浸っている者は居るものである。
声を掛けてきたのは骨が細く中性的な男子だった。
切り揃えた明るい瑠璃色の髪、小顔に綺麗なアーモンド形の目でコケティッシュな面差し。
リヴィアンよりも一つ上の三年生で、ダヤン・ソーダリットという。
何だか氷菓か炭酸飲料を思わせる響きの名前。
平民は姓のみが鉱石と同じなので、ソーダライトを意味する。
ラピスラズリとよく似ているが、もっと親しみやすくカジュアルな印象の石。
ダヤンが指しているのはリヴィアンの傍らに積んだうちの一冊。
タイトルで軽く興味を惹かれただけなので、特に惜しむこともなく彼の方へ渡した。
「次と言わず今どうぞ。欲張って手に取ってはみたんですけど、今読んでる本がなかなか進まなくて」
「宜しいのですか?すみません、入学した頃に借りたんですけど内容半分くらい忘れてるからもう一回読んでおきたいなって」
「ああ……ダヤン先輩もうすぐ卒業ですからね」
「これだけ立派な図書館はそうそう無いので、もう来られないのかと思うと僕だって卒業したくないです」
そう言いながら、名残惜しそうな溜息。
いつも本を入れている手提げ袋は今日も重たげ。
ダヤンもまた、ここがお菓子の食べ放題に見えるタイプである。
読書とは本来なら孤独なものだが、毎日図書館に通う者同士でちょっとした交流があった。
好きな本をお勧めし合ったり、感想を言い合ったり。
ダヤンは三年生の中で首席。
賢いだけでなく物腰も柔らかで上品、誰にでも丁寧。
「そういえばダヤン先輩、卒業した後ってどこ行くんですか?」
「んー……悪の組織ですね」
こちらが反応を示す前に、自分で口にした冗談に軽く笑ってみせて「内緒です」と付け足す。
その実、壁を作られたのだろう。
交友関係は広いが深いところに踏み込ませない、そういうところがあった。
これが乙女ゲームの世界なら、彼もまた攻略対象なのではないかという疑惑も。
彼ら彼女らとは知らず知らずのうちに磁石めいた引合せがあるものらしい。
人の手で作られた世界ならば縁の強さも納得。
とはいえ飽くまでも疑惑の範疇を出ないので、それとなく監視するだけしか出来ず。
伊達に幾つもの物語を巡ってきた訳ではない。
この世界の住人ではないからこそ、俗に呼ばれる「フラグ」や「伏線」という物を見抜く目や直感は備わっている。
ただし、それらは認識しなければ意味をなさず。
台本を持たずに飛び込んでしまったものだから、情報は自分で集めねば。
手掛かりは積極的に見聞きし、頭の中で整頓し、そこから何が浮かび上がるか読み取る。
なんて言っても流石に全ては無理なので、出来る範囲内に限るが。
しっかりラインを決めておかないと壊れてしまう。
繰り返すが、今はまだ準備期間なのだ。
「熱中するのは良いけど程々にして下さいね、また夕食ギリギリになりますよ」
「あはは……そうですね、僕も寮母さんに叱られたくないですし」
同じ寮生なら夕食時に顔を合わせることもある。
それではご機嫌よう、また後で。
雪道は帰りの足取りが重くなってしまうが、建物を出ても寮まで徒歩五分以内なので辛抱の範疇。
とはいえ、まだまだ自由時間。
帰る前にリヴィアンには寄るところがあった。
ここ図書館は建物の二階。
大抵の生徒が下って行く階段を、彼女だけは上り始める。
最上階まで目指すとなると考えるだけで疲れてしまいそうになるが、足腰を鍛えると思っての我慢。
あまり遅くなると帰りは真っ暗。
行き先の五階は音楽室と物置程度の階で、授業以外では生徒もほとんど寄り付かない。
舞台女優だっただけにミュージカルの経験もあり、日課のトレーニングは歌も含まれる。
寮は共同生活なので、なかなか一人きりになれず。
声を張り上げて気兼ねせずに歌える場所となると、やはり音楽室しかあるまい。
また女優として舞台に立つ予定はなくとも、これはどんな世界に行っても変わらない習慣。
いざという時、思い通りに動けなくては不便なだけ。
階段部の壁面は大きめの窓になっており、ガラス越しに学園を見下ろせる。
南側にある放課後の校舎にはまだちらほらと人影。
刻一刻と陽は暮れるので暗くなる空は帰りを急かし、寒さが淡い憂鬱を忍び込ませる。
それでも雪が降れば話は別。
目に痛い強さの夕陽は地上を埋め尽くす真白まで染めて、一際眩しい黄昏だった。
雪の積もった夜は仄かな明かりが残して暗闇になりきらず、これから濃紫の空に煌めく星を待つ。
月も星も真冬の冷気で磨かれて、きっと冴えた光。
今日は美しい夜になる筈だった。
平穏が壊される時というのは、突然で一瞬。
夕暮れは別名、逢ヶ魔時。
得体の知れない者が現れる頃だと知っていたのに。
音楽室に一歩踏み入れると、背中に衝撃。
中へと突き飛ばされてそのまま倒れそうになる前、男の腕に絡め取られた。
爪先立ちで前のめりのまま、不自然な体勢で固定される。
決して助けられた訳ではない。
リヴィアンを押したのは間違いなくこの手だ。
背後で無機質な硬い音が響く。
男が鍵を掛け、閉じ込められたことを悟った。
そうして音楽室と外界は遮断される。
ここで何が起きたとしても、日常から切り取られた時間になると。
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