第24話 失ったもの

 年末年始。街は華やいだ雰囲気に包まれ、人々は新しい年への期待を胸に賑わっていた。しかし、俺の心は晴れやかとは程遠いものだった。


 絵里子が実家に帰省して以来、部屋は静寂に支配されていた。冷蔵庫には、あの日買ったままのクリスマスケーキが、乾いたフィルムに包まれて置かれている。その姿は、まるで二人の関係を象徴しているかのようだった。


 俺は、絵里子の不在によって生まれた心の隙間を埋めるように、バイトに明け暮れていた。年末年始は人手不足ということもあり、休みなく働き続けた。忙しさに身を任せることで、絵里子のこと、そして二人の間に出来た溝のことを考えないようにしていた。


 しかし、夜、疲れた体を引きずって部屋に戻ると、容赦なく現実が押し寄せてくる。絵里子の私物が置かれたままの寝室、二人で笑いながら食事をしたダイニングテーブル、そして、一緒に選んだソファ。


 どこを見ても、絵里子の存在を感じさせるこの部屋で、俺は一人、静かな時間を過ごした。テレビの音も、スマホを操作する音も、虚しく響くだけだった。


「…絵里子、元気にしてるかな…」


 独り言のように呟いた。

 連絡してみようかと何度も思った。だが、あのクリスマスイブの夜以降、絵里子から連絡は一度もなかった。

 自分から連絡することも考えたが、絵里子から連絡が来ないということは、今はまだ距離を置きたいと思っているのだろう。そう思うと、なかなか連絡することが出来なかった。


 年が明けて数日後、ハルは大学からの帰りに、絵里子から久しぶりに連絡が来た。

 スマートフォンを開くと、メッセージアプリに絵里子の名前が表示されている。

 ハルは、心臓が大きく脈打つのを感じながら、メッセージを開いた。


『ハルくん、元気? 少し話したいことがあるんだけど、時間を作ってもらえないかな…?』


 絵里子からのメッセージは、短く、どこか冷たい印象を受けた。

 それでも、絵里子と連絡が取れたことに安堵し、すぐに返信をした。


『もちろん大丈夫だよ。いつがいい?』


 しかし、絵里子からの返信はなかなか来なかった。

 不安になった俺は、絵里子に電話をかけてみた。


「…もしもし?」


 俺は緊張した声で呼びかけた。

 しかし、電話口から聞こえてきたのは、機械的な女性のアナウンスだった。


「…お客様の都合により、お繋ぎすることができません…」


 そして、スマートフォンを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。

 胸騒ぎが止まらなかった。



 数日後、絵里子から再び連絡が来た。今度は電話だった。


「…ハルくん…? あの… この前はゴメンね。今度、会って話せないかな…?」


 絵里子の声は、以前の明るさを失い、弱々しく聞こえた。


「…うん、もちろん。いつがいい…?」


 俺は、自分の声が少し震えていることに気付く。

 絵里子と会う約束をしたのは、大学の近くのカフェだった。


(約束の時間よりも30分ほど早く着いてしまった)


 絵里子が来るまで、窓の外を眺めながら、何を話せばいいのか、頭の中で何度もシミュレーションする。

 しかし、考えれば考えるほど、不安と焦りが募るばかりだった。


「…ハルくん…」


 ハッとして顔を上げると、絵里子がカフェの入り口に立っていた。

 彼女は、以前と変わらず綺麗なロングヘアをなびかせているが、顔色は悪く、やつれた様子だった。


「…絵里子…」


 俺は、立ち上がって彼女に近づいた。


「…ごめん、待った?」


 絵里子は、力なく微笑んだ。


「…ううん、俺もついさっき着いたところだよ」


 ハルは、そう言って彼女を席へ案内した。


「…あの… ごめんね…」


 絵里子は、俯きがちにそう呟いた。


「…絵里子、あの… クリスマスのことは…」


 謝罪の言葉を口にしようとした。

 しかし、絵里子は俺の言葉を遮るように言った。


「…あのね、ハルくん…」


 絵里子の声は、震えていた。


「…私… ちょっと疲れたんだ…」


「え?」


「…あのね、ハルくん… 実は、仕事で大きなミスをしてしまって…」


 絵里子は、震える声でそう告白した。

 彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。


「…え…? どうしたの…?」


 俺は、驚きと心配で、思わず身を乗り出した。

 絵里子は、入社以来、順調に仕事をこなしていた。しかし、最近任された新しいプロジェクトで、大きなミスをしてしまったらしい。


 彼女は、責任を感じて深く落ち込んでおり、毎晩のように残業し、休日も返上して対応に追われていた。

 上司からの叱責、同僚からの冷たい視線、そして、自分自身への失望感。

 様々な重圧が、絵里子の心を蝕んでいた。


「…毎日、頭が痛くて… 何も考えられないくらい疲れてて…」


 絵里子は、言葉に詰まりながら、苦しそうにそう言った。


「…絵里子…」


 彼女の苦しみに胸を締め付けられた。

 そして、今まで絵里子の状況を理解しようとせず、自分のことばかり考えていたことを深く後悔した。


「…ごめん… 絵里子、一人で抱え込ませてしまって…」


 精一杯の謝罪の言葉を口にした。

 しかし、絵里子は俺の言葉に、顔を上げて、鋭い視線を向けた。


「…ハルくんは、何も分かってない…」


 彼女の言葉は、冷たく、心を突き刺した。


「…え…?」


「…あなたは、私がどれだけ頑張ってるか、何も分かってくれない…」


 絵里子の声は、怒りと悲しみに震えていた。


「…違うよ! 絵里子の頑張りは、ちゃんと分かってる…!」


 俺は慌てて否定した。

 しかし、絵里子は俺の言葉を信じようとしなかった。


「…本当に分かってるなら… なんで、私の話を聞いてくれなかったの…?」


 絵里子の言葉に、何も言い返すことができなかった。


「…あのね、ハルくん… 私… もう限界なんだ…」


 絵里子は、静かにそう言った。

 彼女の瞳からは、涙がとめどなく溢れ出ていた。


「…絵里子…?」


 彼女の言葉の意味が理解できずに、ただ呆然と彼女を見つめていた。


「…あなたのことが、好きだった… 本当に好きだった…」


 絵里子は、言葉を詰まらせながら、そう言った。


「…でも… もう無理なんだ…」


 絵里子の言葉は、心に深く突き刺さった。

 それは、もう取り返しのつかない別れを告げる言葉だった。


「…どうして…? 俺たち、一緒に住み始めたばかりなのに…」


 必死に絵里子を引き止めようとした。


「…一緒に住み始めたからこそ、分かったこともある…」


 絵里子は、静かにそう言った。


「…ハルくんは… 私のことを… 本当には理解してくれない…」


 絵里子の言葉は、さらに俺の心をえぐるように深く傷つけた。

 しかし、それは、紛れもない真実だった。

 俺は、絵里子の仕事の大変さを理解しようとせず、自分の寂しさばかりをぶつけていた。

 彼女の話を聞いてあげることもせず、自分の不安を解消することばかり考えていた。


「…ごめん… 絵里子… 俺が悪かった…」


 ようやく自分の過ちに気づき、心から絵里子に謝罪した。

 しかし、絵里子の決意は固かった。


「…もう遅いんだ…」


 彼女は、そう言って、静かに立ち上がった。


「…さようなら、ハルくん…」


 絵里子は、最後にそう言い残し、カフェを出て行った。

 彼女の後ろ姿は、小さく、儚げだった。

 俺は、絵里子が去った後も、しばらく席に座ったまま動けなかった。

 彼女の言葉が、頭の中をぐるぐると回り続ける。


「…さようなら…」


 その言葉が、心に深く突き刺さる。

 絵里子の気持ちを理解しようと努めた。

 彼女は、仕事の重圧で精神的に追い詰められ、俺の支えを必要としていた。

 しかし、彼女のSOSに気づくことすらできなかった。


「…俺は… 何てことを…」


 自分の愚かさを悔やんだ。

 しかし、どんなに後悔しても、もう絵里子は戻ってこない。

 俺は、ゆっくりと席を立ち、カフェを出た。

 冬の冷たい風が、頬を刺すように吹き抜けていった。


 街は、相変わらず冬のイルミネーションで輝いていた。

 しかし、俺の目には、その光は虚しく映るだけだった。

 キャンディのように甘く輝いていた時間は、もう戻ってこない。

 その現実を受け入れるしかなかった。



 一人残された部屋は、静寂に包まれていた。


 年末年始の喧騒も過ぎ去り、街はいつもの日常を取り戻しつつあった。

 絵里子の私物がなくなった部屋で、一人、ソファに座っていた。


「…絵里子…」


 無意識に彼女の名前を呟いた。

 彼女の笑顔が、脳裏に浮かぶ。

 初めて出会った時の、眩しいほどの笑顔。

 デートで、楽しそうに笑っていた笑顔。

 一緒に住み始めた時、幸せそうに微笑んでいた笑顔。

 そして、最後に見た、悲しげな笑顔。


「…俺は… 何を失ってしまったんだろう…」


 ようやく絵里子の大切さに気づいた。

 彼女が、どれだけ俺のことを想ってくれていたのか。

 どれだけ俺の支えになろうとしてくれていたのか。

 自分が大変なのに、それでも励ましてくれていた。


 しかし、時は既に遅かった。


 俺の未熟さ、そして身勝手さが、二人の関係を壊してしまったのだ。


「… 絵里子…」


 絞り出すようにそう呟いた。

 その声は、誰にも届くことなく、静かな部屋に吸い込まれていった。

 甘く切ない思い出と共に、二人の時間は、過ぎ去ってしまったのだ。

 まるで、冬の冷たい風に吹き消された、儚いキャンドルの炎のように…。

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