第13話 絵里子③
柳田さんと付き合い始めてもうすぐ1ヶ月。
初デートの時に約束をしていたライブへ行く日だ。
柳田さんは約束通りライブのチケットを手配してくれた。彼女はその日のために、僕たちの好きなバンドのTシャツまで用意してくれていた。
「これ、お揃いで着ようよ!」と言われ、手渡されたTシャツを見て、僕は何とも言えない幸せを感じた。
コンサート当日、僕たちは興奮を共有しながら会場へ向かった。音楽が始まると、柳田さんは僕の手を取り、曲に合わせて振付を踊り始めた。
僕はこのロックバンドのファンではあるものの、今まで音楽を聴く専門で、振付がある事を知らなかった。
「ほらほら! こうだよ!」
柳田さんは楽しそうに僕に振付を見せる。
周りの人も同じように踊っているのを見て、僕は少し恥ずかしいと感じながらもマネをしてみた。
「うんうん! その調子!」
(あぁ‥楽しいなぁ)
好きな人と好きなバンドのライブで一緒に踊る。
彼女の笑顔、彼女の手の温もり、そして周囲を包む音楽の響き。
改めて幸せを感じながら、熱狂の渦に飲み込まれていった。
ライブが終わった後、僕たちはそのまま夜の街を歩いた。
柳田さんは僕の腕をしっかりと掴んで、星空の下を一緒に歩いていると、「ずっと一緒にいたいね」と静かにつぶやいた。
その言葉が、僕にとってどれほどの重みを持っていたか、言葉では表せないほどだった。
「うん、ずっと一緒にいよう」
初デートの後も、何度かデートを重ねた。
僕も毎日のようにバイトをしているし、柳田さんもバイトや付き合いが多いようで、中々時間は合わなかったが、時間の合う時は出来るだけ一緒にいるようになった。
「ねぇ、そろそろいいんじゃないかな?」と柳田さんがつぶやくようにぽつりと言った。
(そろそろといいと言いますと。えっと‥付き合ってそろそろ一ヶ月だし‥‥あのアレのことですか!いや、僕もいつかはと思ってたけど、今日ですか!も‥もちろんOKだけど、どうしたらいいの?えと‥どこかに入ればいいのかな?え?なんて言って入るの?そもそもどこにあるんだろ!)
僕が自分の中で混乱していると柳田さんがこちらを見て一言。
「イヤ?」
「いやじゃないです!いやじゃにゃいです!」
(噛んだーーー!!!)
正直テンパりすぎて、自分でもどうすればいいか分からなくなっていた。
そんな僕を見て、柳田さんはクスクスと笑っている。
「そんなに慌てることないじゃない」
「あ‥いや、えと‥」
未だに冷静さが戻っていない僕は、相変わらず返事を出来ないでいた。
「イヤじゃないなら‥これからは名前で呼んでね」
(へ‥‥‥)
(そっちかーーー!!!)
いや、確かに自分が勝手に勘違いしてただけだし、柳田さんは最初から名前呼びなのに、付き合って1ヶ月経っても、名前で呼んでないのは少し距離を感じる。
下の名前で呼ぶなんて、妹にしかしたことがない。
人見知りで友達が少ない僕は、男友達でさえ苗字呼びの仲だ。
(いや、昔一人だけいたな‥)
疎遠になった幼馴染を思い出していた。
「ハルくん?」
(しまった!現実逃避してた!)
勘違いがあまりに恥ずかしく、思考が強制的に現実逃避を選んでいたようだ。
呼び方くらいなら、流石にもう大丈夫。なんといっても1ヶ月以上付き合っているんだから、もっと親しい呼び方をするべきだろう。
「え‥え‥絵里子‥‥さん?」
「なんでそこで疑問形? それにさんはいらないよ!」と柳田さんがケラケラと爆笑する。
ツボに入ったのか柳田さんの笑いが止まらない。
しばらくして‥
「あー面白かった! ハルくん私を笑い殺す気?」と、今にも笑いだしそうな顔でこちらを見る。
いや、むしろ少し笑っている。
「ごめん。 年上だし、急に呼び捨てしていいのかな?って‥」
僕は照れながら、言い訳をする。
「あたりまえじゃない。 私達付き合ってるんだよ? そんなに他人行儀じゃなくていいよ」
やっと落ち着いてきたのか、柳田さんが優しい笑顔を向けてくれる。
(ああ、可愛いなぁ)
彼女の笑顔に改めて自分の気持ちが膨れ上がる。
「はい、じゃあ練習してみよう! せーの!」
「え‥絵里子‥」
彼女に練習だとせかされ、言葉を絞り出す。
「もっとちゃんと! もう一度! せーの!」
「絵里子‥」
「もっと自信をもって言ってくれて良いんだよ?」
そういって彼女はまた笑った。
そんなやりとりをしながら歩いていると、駅が近づいてきた。
電車に乗れば、あとは途中で別れて今日は解散となる。
ライブを楽しんだ高揚感から、今日という日が終わってしまう寂しさに気持ちが傾いていた。
その時、絵里子が急に静かな声で話しかけてきた。
「それでさ‥」
「うん?」
「さっきは何を考えてたの?」
さっきとは?いつの事だろう?と思っていると
「私が名前で呼んでねって言いだした最初の時‥なんだか凄く慌ててたよね?」
「え!‥あ‥ああ!!それね!!うん」
まさか勘違いして、今日で童貞卒業なんて考えていた事は恥ずかしくてとても言えない!
どうやって誤魔化そうかと思案していると、絵里子がそっぽを向きながらつぶやいた。
「‥いいよ」
「え?」
何がいいのだろう?これ以上恥の上塗りを避けたい僕は、慎重に言葉の意味を考えた。
「その‥初めてなんだよね?‥そういう事するの」
(どういう事!!)
またもミスリードしてしまいそうな発言だけど、この状況とさっきの自分の考えてた事を合わせると、冷静に考えてもソレしか思いつかない!
いや、ここは大人の何かキーワード的な、大人だけに伝わる何かがあるのだろうか!
僕がうろたえていると、彼女もしびれを切らしたのか、もう一歩踏み込んできた。
「だから!‥あ~もう!‥こう言えば分かるかな?」そういって、絵里子は上目遣いでこちらを見ながら‥
「朝まで一緒に居たいの‥」
(これは!OKって事だよね!もうそれ以外ないよね!)
その後は電車に乗らず、絵里子に誘われるままホテルへ入った。
「ねぇ‥名前で呼んで‥」
「‥絵里子」
「もっとぉ‥」
そして、僕は絵里子と初めての一夜を過ごしたのだった。
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