第3話 夢と現実と

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!!起きて~!!!」


 あやめの高い声が耳に突き刺さる。

 目を開けると、俺は自室のベッドの中にいた。


 朝の光がカーテンの隙間から部屋を柔らかく照らしている。

 体を持ち上げると、頭がずしりと重く、まるで昨夜飲み過ぎたアルコールがまだ血中を駆け巡っているようだった。


「お兄ちゃん、昨日は帰り遅かったじゃん。 しかも、すごく酔ってたし!」


 あやめはプンプンと怒った様子で俺を叱った。

 あまり大きな声は出さないで欲しい。

 声が頭に響く‥‥


「ああ‥‥ごめん。 ちょっと飲みすぎちゃっ‥‥て?」


 目をこすりながら答える。


(あれ? 確か昨日は美香さんと遅くまで飲んで‥‥それから‥‥)


 昨日の事を思い返してみるが、美香さんとの時間が夢なのか現実だったのか、その境界が曖昧で混乱していた。

 バーを出てからの記憶は断片的で、美香さんの楽しそうな声だけが耳に残っている。


 しかし、あやめの叱責で現実に引き戻される。


(あれは夢だった‥‥のか?)


 一瞬の間に、昨夜の出来事が夢だったことを悟る。

 安堵と同時に、ちょっとした寂しさと自己嫌悪が胸を締め付ける。


(あ~~!! 俺はなんて夢を見てるんだ! そりゃ美香さんとそういう関係になれたら嬉し‥‥いやいや落ち着け俺!)


 色々と複雑な心境を心の中で葛藤していると、あやめが声をかけてきた。


「お兄ちゃん、飲みすぎて倒れたら大変だよ‥‥次からは気をつけてね。 心配するから‥‥」


 あやめが心配そうな表情でこちらを見ている。


(しまったな‥‥)


 付き合いとはいえ、飲みすぎて心配をさせてしまったようだ。

 あやめのその言葉に、俺は改めて自分の行動の責任を感じた。


「あやめ、すまなかった」


 改めて素直に謝ると、あやめの表情がほぐれる。


「うん♪許してあげます!‥‥朝ごはん出来てるからね♪ 二日酔いにはシジミ汁が良いって聞いたから作っておいたよ!」


 一転して笑顔になったあやめの言葉を聞いて、ほんとに俺には出来た妹だと改めて思った。



 ☆☆☆☆☆



 重い頭を抱えながらも、出勤中はずっと昨夜の夢とその後のあやめとのやり取りが心を占めていた。

 そんな頭と心の重さを引きずりながら、どうにかオフィスにたどり着いた。


 そんな時に限ってエレベーターで美香さんに偶然鉢合わせになったが、正直俺はどう振る舞っていいかわからなかった。


  エレベーターの閉じるドアを押しとどめた瞬間、美香さんが不意に「顔色が悪いわね、大丈夫?」と尋ねてきた。

 その心配そうな視線に、俺は慌てて「大丈夫です」と答えながらも、心では自分の平静を保とうと必死だった。


「昨日は遅くまでごめんなさいね。 どうやって帰ったのかも覚えていないんだけど、迷惑をかけなかったかしら‥‥」


 彼女の声には、二日酔いの影を感じさせるものがあった。

 俺は、昨夜の夢と現実の境界線が曖昧になる中で、どう返答すればいいか一瞬迷った。


「いえ、大丈夫ですよ。 美香さんも大変でしたよね。 無事に帰れて何よりです」


 俺が答えると、美香さんはほっとしたように微笑み


「ありがとう。 でも、次からはもう少し控えめにするわ」


 美香さんはそう言いながら、苦笑いを浮かべた。


 その姿に、やはり昨夜の出来事がただの夢だったことに少し安堵しつつも、彼女への複雑な感情を抱えたままオフィスへと向かった。


(朝から大きな案件のプレゼンがあるんだから、切り替えていこう!)


 朝からのプレゼンに向けて、仕事に集中することで心のもやもやを払拭しようと自分に言い聞かせた。

 プロジェクトの資料に目を落とすと、そこに全精力を注ぎ込む。

 これが俺の逃避でもあり、現実への対処でもあった。



 ☆☆☆☆☆



「お疲れ様!」


 プレゼンが終わった後、サポートしてくれたエミが俺に声をかけてきた。


「さすがうちのエースだね♪  今日のプレゼンは特に印象的だったよ! お客さんも高橋君の提案にかなり興味を持ってたみたいだし」


 エミはいつもの屈託のない笑顔で褒めてくれる。

 今日のプレゼンテーションはおおむね好評で、自分でも中々上出来だと感じていた。


「ありがとう、エミ。 経験と勘があればこそだけど、エミが準備してくれた資料のお陰で自信を持って提案できたよ」


「お役に立てたなら何よりだね! 提案がクライアントさんにしっかりで刺さってたみたいだから、きっといい返事がもらえるに違いないよ」


 今回はかなり手ごたえを感じた事もあり、受注できる可能性は高いと感じている。


「そうだ、ランチにでも行かない? さっきの案件のフォローアップ計画を練って、受注が決まった時にはすぐに動けるようにしよう! その辺のアイデアも聞かせてほしいんだけど‥‥どうかな?」


 少し上目づかいでエミからのお誘いを受ける。


「もちろん!」


 当然断る理由の無い俺は、快く返事して片付けを進めていった。



 ☆☆☆☆☆



 お昼になり、俺はエミと一緒に会社から出た。

 ランチに向かう途中、人混みを縫うように歩いていると、突然見知らぬ人に声をかけられた。

 突然のことで、胸の中が緊張でキュッと締め付けられる感覚がした。


「少し駅までの道を尋ねたいのですが」


「ああ‥‥え‥‥駅ですね!そ‥‥それなら‥‥」


 子供の頃から人見知りが激しく、見知らぬ人との会話はいつも一苦労だ。

 相手の目をまっすぐ見ることさえできず、言葉も上手く出てこない。

 お客さんに提案する時は仕事モードに入るから堂々と話せるのに、普段はどうしても人見知りしてしまう。


 今でこそ営業の仕事をしているが、元々入社時の志望部署は事務員だった。

 結局入社後に営業の人材が足りないという事で、営業に回されてしまったのだ。

 仕事と割り切って取り組む中で、お客さんとの正式なやり取りは徐々にこなせるようになった。


 しかしオフモードになると、リラックスした世間話の一つさえも、事前にシミュレーションしなければまともに会話をする事ができない。


 エミがそんな俺を見て「大丈夫?」と心配そうに尋ねてくれた。


「ああ、大丈夫だよ。 ちょっとビックリしただけだから」


 笑顔で返すが、多分ぎこちない表情になっているのを自分でも感じる。


「高橋君って、お客さんとはすごくスマートに話せるのに、知らない人から声をかけられると緊張しちゃうのね」


「どうしても苦手でね。昔よりはマシになったけど‥‥まだまだだなぁ」


「うん、でもそれでいいと思うよ。 人見知りなところも含めて、キミらしいんじゃないかな」


 エミはそう言って、優しく微笑んだ。


(くっ‥‥可愛い‥‥)


 そんな顔で優しい事を言われると、キュンとしてしまうじゃないか!

 それと同時に今朝の美香さんの夢を思い出し、節操のない自分に嫌気がさす。


「ありがとう、エミ。 話すテーマがあれば自信を持って喋れるんだけどね」


「大丈夫、高橋君が自然体でいることが一番だよ♪」


 その言葉に俺は救われた気持ちになった。



 ☆☆☆☆☆



 ランチ中、エミとの打ち合わせは予想以上に盛り上がり、時間が足りなくなってしまった。


「高橋君、今日の夜も時間ある? ランチだけじゃ、打ち合わせ足りなかったし、ちょうどいい店見つけたんだ♪」


 提案してきたエミを見ると、彼女の目は期待でキラキラしている。

 断れる雰囲気でも無いし、断る理由も無い。


「もちろん大丈夫だよ。 どんな店?」


「う~ん‥‥ナイショ! きっと喜んでもらえると思うんだ~♪ 楽しみにしててね!」


 エミはいたずらっぽく笑いながら答えた。



 ☆☆☆☆☆



 仕事を終えた後、エミが予約してくれたお店に向かう。

 彼女は場所を秘密にしていたから、どんなお店なのかワクワクしながらついていく。

 しばらく歩き、街の喧騒を抜け、ある路地に入ると‥‥


「これは‥‥」


 どう見てもラブホ街である。

 エミは特に気にする様子も無く歩いている。


(え‥‥ナイショって‥‥そういう事? いやいや、そんなわけないだろ! でも、喜んでもらえるって‥‥)


 俺は少しドキドキしながら、エミの後をついていった。

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