絶望的観測
小狸
短編
皆、死にたいのを我慢して生きている。
それが間違っていると知ったのは、随分後になってからの話である。
少なくとも成人して以降ではある。
人生に希望などなく、明日に光などない。
少なくとも私の人生は、そうだった。
生きていることそのものが、まるで針のむしろの中にいるかのようにささくれ立っている。
何をするにも上手く行かない。
何をするにも他人とズレる。
最近は「そんな自分のままでも良い」なんて風潮があるようだが、あるのはそれっぽい風潮だけで、実体を伴っていない。
学校になんて、本当は行きたくなかった。
不登校になって、落ちぶれても良かった。
その結果、今の仕事を失うことになったとしても、である。
あの時行かなければ良かった、行く選択をしなければ良かったという後悔は、ずっと私に憑いて回っている。
死にたいというのは贅沢だ、という人がいる。
世の中には生きたくとも生きることのできない人もいる。
そんな中、「死にたい」などと思うことそのものが贅沢で傲慢だ、と。
人は言う。
どうして贅沢なのか、私には分からない。
どうして傲慢なのか、私には分からない。
そして私の「死にたい」という気持ちは、薬によって散らされ、なかったことにされていく。
誰も私の本質に触れようとはしてくれない。
当たり前である。人間の本質、本音なんて、誰も聞きたくないだろう。
皆は、何かしら希望を抱いて生きているのである。
標準装備しているのである。
ああ、そうか。
皆は別に、死にたいのを我慢して生きている訳では無いのだ。
間違っているのは、私の方なのだ。
そう気付いたのは、私が二十五歳の時である。
もう何をするにも遅すぎる。
何せ私は大人である。
虐待された子どもを保護する制度はあっても、かつて虐待を受けて成人してしまった大人に手を差し伸べる者も、制度も、ないのだ。
このまま死んでしまおうか、とも思う。
しかしそれでは、人に迷惑をかけてしまう。
見つからないように死ねば、捜索される手間をかけてしまう。かといって見つかるように死ねば、その死体を掃除する人が出てくる。家族だってきっと悲しむだろう。そんな顔は見たくない。
だから。
だから?
いや、それらはどうせ後付けの理由に過ぎない。結局私には、死ぬ勇気がないのだ。
一歩を、踏み出せないのだ。
自分のせいで誰かに迷惑が掛かることが、心底怖いのだ。
弱虫なのだ。
だから私は。
今日も。
死にたいのを我慢して生きる。
そうするしか、私は生きる道を知らないのだ。
(「絶望的観測」――了)
絶望的観測 小狸 @segen_gen
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