水鏡花の幻 第二話 尼ヶ紅

和久井清水

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 これは僕が、名作『尼ヶ紅あまがべに』の誕生する過程を目撃した時の話。


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 敬愛する泉鏡花先生の弟子になって一ヵ月。僕は大学の授業が終ると、脇目も振らず神楽坂の先生のお宅へ行き、玄関横の三畳で執筆に勤しみつつ、弟子としての仕事をこなしていた。「それにしても」と、僕は筆を置いて、まだなにも書かれていない原稿用紙に肘をついた。

 牛鍋屋の社長、佐々山の若い妻が家庭教師と心中したかに見えた事件を、鏡花先生は見事に解き明かした。そのことを僕は幾たびも思い出す。あの血なまぐさい事件が、鏡花先生の手に掛かり、幻想的で情緒的な物語『悪獣篇』へと変貌するのを目の当たりにして、僕はますます先生に心酔し虜になったのだ。

 恋にも似た気持ちで、その一節を繰り返しそらんじる。

――時しも一面の薄霞うすがすみに、処々つやあるよう、月の影に、雨戸はしんつらなって……。

 佐々山家の蔵で、義理の息子に犯され自ら命を絶った若妻、稲の心情を、逗子の海で溺れる夢を見る女主人公ヒロイン、浦子が代弁する。浦子は夢とうつつの境界を行き来して、ついに悪獣に身をけがされる幻覚を見る。

 稲の奇禍は浦子の幻覚へと形は変えたが、その恐ろしさは現実を超えて、読む者の心胆を寒からしめるのだった。

 舞台が矢来町の佐々山邸ではなく、海辺の町なのは、以前逗子で胃病の療養をしたことが影響しているのだろう。実際には悪獣とは稲を陵辱した義理の息子であり、稲は死んでしまった。息子は官憲の手によって成敗された。しかし鏡花先生の物語では、悪獣は何とも知れぬ怪異であり、突然現れた石工がそれを海辺で祓ったのだった。

 現実を美しいベールで包み、なおかつ怪しく恐ろしい物語に仕立てる手法に、僕はめまいがするほどにときめいた。

 その時、「寺木くん」と先生の声がして襖が開いた。

 僕はびっくりして飛び上がった。

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