第22話

 トリノは牛乳瓶の蓋を弾いた。回転して手元に戻ってくるそれは、夜の星よりも輝いて見えた。普通は捨てるであろう蓋を持ち帰ったのは、それが大切な思い出の品になるであろうから。のぼせた身体に染み渡ったコーヒー牛乳は忘れられないだろう。


 芯まで暖まった身体から吐く息は、外気に晒されたとたんに白くなる。

 こんな気分の夜は初めてだ。


 スキップしそうな勢いで、自販機の明かりを通り過ぎる。


 地面を蹴ると弾け出すパンダ。


 パンダに自慢しないと。

 パンパンパンダの顔。



「パンダ?」



 トリノは立ち止まった。

 パンダの顔が思い出せない。


 冷たくて気持ちが良かったはずの外気が、急に身体中にまとわりつくような気持ちの悪いものに変わった。


 嫌な予感がする。

 トリノは走った。


 なぜ走っているのかも忘れてしまっている。


 帰宅したトリノの部屋には笹の葉が残されていた。


 どうして笹の葉があるのかわからない。


 七夕のシーズンじゃないし、織姫も彦星も嫌いだ。



「なんだこれ」



 トリノの記憶から何かが抜けた。



「パンダってなんだ?」




◇◇◇





 変な時間に銭湯へ行ったから、りりの生活リズムは狂った。夕飯を食べて、歯を磨く間に本来ならお風呂に入るのだけど、今日はそれがなかった。りりはウッドデッキに出て、ベースを弾きながら歌った。


 そこにパンダがやって来る。


 りりは暗闇に覗くパンダの白黒の身体を見て、裸足で庭に出る。


 見たことのあるやつだった。



「明らかに着ぐるみだけど」



 パンダは腰を落として、ファイティングポーズをとる。



「カンフーパンダってことね」



 りりもそれに応じる。


 パンダは細かいステップを踏んで、身体を揺らした。この巨体でりりのスピードに対応するには常に身体を動かし続け、反応から行動までの速度を高めるしかない。


 りりはゆったりとしていた。


 パンダの平均的な持久力は知らないが、体力は無限ではない。

 自分は警戒をするだけで相手の体力を消耗させ、有利を作る。


 やがて、パンダから仕掛けた。細かい二連撃をりりにいなされた後、蹴りを入れる。それも簡単に防がれ、また距離を取る。間髪入れずに、勢いを付けた突進。しかし、ひらりと躱され、すれ違いざまにりりの裏拳が後頭部へ直撃する。


 意識が朦朧とするパンダ。


 パンダとしての演技を忘れ、もう一度りりと対面する。



「……消えてしまうのは怖くない。君も私だ。分かるだろ?」


「……?」


「うおおおおおおお」



 雄叫びを上げながらのストレート。


 りりは首を左に曲げて躱し、パンダの顔面に右のカウンターを決める。


 インパクトと同時に、りりの脳内が火花のように反応する。伝わるシナプスと伝えるシナプスの間を電気が巡り、言語化のできない確信をりりは得た。


 パンダは倒れる。



「……」



 まるで何事もなかったかのように夜の静けさが周囲を支配した。

 りりはその場にしゃがんで、パンダの頭を外す。


 そこには誰もいない。

 ただ着ぐるみの抜け殻があるだけだった。


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