第18話

 ホタテの家は良く笑うりりが見ても笑えないくらいボロくて、八畳の部屋には錆びたオルガンとサングラスを掛けた大きな蟹が鎮座し、ちいさな丸いテーブルと、端っこに畳んである布団が二セットの強い生を感じ、りりは膨大なインスピレーションを受けていた。


 なよなよしいメンヘラソングが大嫌いなりりは、それらと同類の最近に溢れる生活水準が低めの主人公を描いた純文学を否定していたが、ホタテの暮らしからは似た何かを感じつつ、しかし圧倒的に嫌いにはなれない蟹がいた。


 素晴らしいメンタルを持っていたアリスは、蟹に触れなかった。明らかに大きいし、サングラスを掛けているし、完全にイカれている。蟹よりもイカれているりりか、家主のホタテの説明がない限り、限りなく無視をした。



「君、家にも来たことあったね」



 りりはやはりイカれているようで積極的に蟹に話しかけたが、その内容というのは予想をはるかに超えていた。大きな蟹とりりは知り合いだったのだ。



「彼からピアノを教わったんです」



 アリスは出された水道水を味わった。


 意外にも水道水には味があった。蟹の味だ。


 圧倒的に気のせい。

 しかし、圧倒的に蟹。



「薫子が友達を連れてきたのは初めてだ。仲良くしてやってくれ。じゃあ私は仕事に行くからあとは好きにしろ」



 ホタテのお母さんは、ファンキーな人だった。急に娘が友達を連れてきたものだからビクビクして今日は早めに家を出る。夜の仕事をしているようで、これから出勤。玄関のドアを閉める衝撃で、部屋全体が揺れる。



「ふふふ女子会」



 りりだけがワクワクしていた。


 説明があるからと言われホタテはりりを家に上げたが、女の子トークを始めた。



「最近はすごい動物が多いのかな。私の知り合いにもたくさんいるの。喋る犬とか、明らかに着ぐるみのパンダとか、サングラスを掛けた蟹はその中の一人だった。一人? まあ、いっか。みんな私の演奏を聞きに来てたんだけど、中学に上がったらいなくなっちゃって」



 アリスが水道水を飲んでも女の子トークの味はしなかった。



「なんで蟹さんがピアノを教えられるか知ってますか?」


「さあ? 私がみんなの前で弾いてたのはベースかギターだし」



 怪異たちの前で弾けるなんてすごい。アリスなら引いてただろう。



「アリスには知り合いの凄い動物はいる?」


「……私か」



 アリスは欠けた湯呑を置いた。



「あれだな。私の知り合いには有馬記念を勝った馬がいるな」


「え、すごい!」



 りりはテンションが上がった。音楽以外で唯一語れる趣味が競馬だった。


 音楽を趣味と言えるかは疑問だが。



「……ピアノを弾ける蟹と、有馬記念を勝った馬、どっちがすごいでしょうか?」


「弾けるピアノの程度によるだろうな」


「ちょっと蟹さん、ピアノを弾いてみてよ」



 そりゃ馬が有馬記念を勝つよりも、蟹がショパン国際ピアノコンクールで一位になる方が凄いだろう。馬の大会で馬が勝つより、人間の大会で蟹が勝つ方が凄い。


 りりは昔、こういう不思議な動物たちを幽霊くらい怖がっていたことを思い出す。


 自分に自信が付いたのだ。喧嘩なら負けない。幽霊と違って、動物には物理攻撃が効く。幽霊が怖いことには変わりないが。


 ちょっと考えたらりりおは幽霊のようなものだ。


 蟹は錆びたオルガンの前に横歩きで移動した。蟹っぽい。


 ポロンと蟹は演奏を始める。


 りりが気になったのは、指の代わりになりそうなハサミが二本しかない蟹がどうやって三音同時に鳴らすのかということだ。



「なるほど」



 蟹は難しい曲を弾けなかった。


 だから指二本でも弾けるように曲を簡単に紐解いた。


 りりはにやける。蟹が弾いたのは、バブルガムフェローのメロディー。


 不思議な動物と、自分の転生が無関係ではないことを確信する。


 そしてアリスは本質が見えていた。



「音楽の才能があるのに、それを証明する指がないというのは悲しいな」


「いや」



 アリスの呟きをりりは否定した。



「きっとこの蟹には才能を証明するよりも、大切なことがあったんじゃないかな」


 なぜなら蟹が弾いてるこの曲が、そういうことを歌った曲だと知っている。

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