第10話

 その日は珍しく雪が降った。


 交通機関にも乱れが生まれて、学校の時間割が瓦解し、朝のホームルームすら始められない状況に陥り教室では不思議な空気が流れていた。ある種の特別感に浸りながらも、公欠扱いのクラスメイトに対して羨ましいというような言葉を並べている生徒たちを尻目に、りりは立ち上がった。


 その日を丁度いいと思ったのだろう。



「つらかして」



 りりはアリスに話かけた。



「は?」



 左の親指と、顎で指図をしてくるりりに、アリスは困惑した。



「ひまだろ?」


「お前に貸せるほど安くない」


「びびんなよ」



 アリスにはりりを無視する選択もあったが、教室の注目を集めていることに気付いた。



「っち」



 大人しく付いて行くことにした。


 りりは、満足気にアリスを先導した。生徒玄関を抜け、校舎裏に立ち入る。


 二人は対面した。

 アリスはりりをジッと見つめた。


 アリスは不正に恵まれている人間が許せない。りりが許せない。つまり、りりが不正に恵まれていると感じている。確信はない。アリスたち13歳の少年少女は、生まれ持った才能と、13年間の努力で評価されるべきである。りりが行っている不正行為は何か分からない、その是非すらもアリスに計る資格はない。


 ただ少なくともアリスがりりに対して感じるのは、ゲームをしているときのスマーフ行為を働いているプレイヤーに対する感情と同じようなもの。ズルをしているのではないかという疑念。そのアリスの感覚は、結果的には正しいのだろう。


 アリスにもりりの本質が見えていた。


 そして、りりにも自分がズルをしている自覚があった。


 勉強なんて一切しないでテストで良い点数が採れてしまう。



「てことで。いちから格闘技を習ってきた」



 りりはファイティングポーズを取った。


 りりおは、弱かったはずだ。喧嘩なんてしたことがない。


 りりとして生まれたときに、勉強や音楽とは違い、経験値はゼロ。レベル1。


 つまりはアリスの土俵に乗っかってやったのだ。


 それがタイマンの合図だと気づいたアリスは、冷たい空気に白い息を漏らしながら、歯をギシギシと嚙み締めた。


 舐められたものだ。



「一回死ねし」



 アリスの言い草に、りりは笑った。


 その笑顔が合図でアリスは雪景色を疾走し、距離を詰めてハイキックを繰り出す。


 りりは簡単に避けた。細かいステップを繰り返し、アリスの下品な大振りを交わしていく。体格差はアリスの方が有利だろう。威力もリーチも、日本人離れしている。


 隙を見て、りりはアリスの頬に一発入れた。



「ッつ」


「っほ」


 二人の呼吸に戦況が表れる。りりには余裕があって、アリスは乱れていた。口から息が漏れる度に、空気が白く色づく。


 二人に雪が降りそそぐ。


 髪を艶やかに濡らした。


 りりは圧倒的な手数と格闘センスで、アリスを圧倒した。


 顔に、腹に、肩に、小さなダメージを入れながら踊るように戦って、アリスの体力を奪っていく。正しいステップを踏むりりと、獣のように動き回るアリスでは、スタミナの効率が違う。二人には、明確な差が生まれ始める。そして、余裕のあるりりの脳内では「これも違うな」という思考が生まれていた。それは、格闘技の話で、りりの暴力はすでに極まっていたのだろう。


 顎にジャブが入ったところで、アリスのガードが浮き、空いた腹にりりはストレートを放った。アリスは苦悶の表情を浮かべる隙もなく、その場に倒れ込む。


 倒れたアリスを、りりは見下した。



「何かを極めたらいじめはなくなる。このようにね」



 りりはアリスの背中に座った。ちょうどいい高さではなかったが、どちらが勝者か明確にするために必要な行動だった。


 戦いは終わっても、雪は止まなかった。


 雪を踏みしめる足音が止んだ。



「結局は暴力じゃない」



 いつのまにかその場にいたトリノは、りりに失望の目を向けた。



「暴力じゃなくてもなんでもそうだよ」


「ほんとにそうなら、暴力を手段に選んでほしくなかったかな」


「私だってなんでも極められるわけじゃない。ベースもその一つだと思う」



 りりはスカートからタバコとライターを取り出すと、口に咥えて火を付け吸い始める。


 トリノはまた嫌そうな顔をした。


 まじめちゃん。


 りりはトリノをからかっている。



「文化祭の日、私はベースを弾いていて『これだ』って思えた。でも、私のベースは極まっていなかった。だから、いじめは止まらなかった。埒が明かないから、別の何かを極めて、いじめを止めさせた。それが暴力だったのは、アリスと同じ土俵で戦うため。もちろん、アリスと戦っている間、私はこれも違うなって思っていたよ」


 トリノは腕を組んで仁王立ちで、りりに話の続きを促す。


 顎をくいっとしたトリノを見て、りりは苦笑いをする。


 なんだかそうとう怒っている。


 機嫌が悪いときのトリノはすぐに分かった。



「私の中ではジレンマが生まれていた」



 りりは煙を吐き出す。


 りりのジレンマ。



「ベースでしかこれだって思えないのに、そのベースを極めることができない。いったいどうしたら良い?」


「ふん?」



 トリノにはそもそもの、何かを極めたらいじめがなくなるというりりの思考が理解できていない。さらに、いじめが止まなかったということは、ベースが極まっていないからだという理屈も、屁理屈に聞こえる。



「ベースを弾きながらできる、別の何かを極めたら良い」


「いじめはもうないのに、何かを極める必要があるの? 極められないベースを楽しめば、それでいいじゃん」


「いじめをなくすことが、何かを極める目的じゃないよ」



 りりはただ、そういう生き方に憧れて、何かを極めようとしているのだ。


 いじめというのはキッカケでしかない。


 アリスにいじめられているのはりりにとってはただの都合が良いことであり、いじめられている理由なんてどうでもよかった。



「昔、こんな話をしたね。ベースの逆はなんだと思う?」


「……ギターじゃないのよね?」


「うん」



 トリノは考えた。

 でもこういう時のりりの考えは大体が屁理屈だから、考えても無駄だった。



「分かんない」


「歌だよ」


「歌?」


「私の場合に限ってだけどね。これも都合が良い」



 トリノにも歌とベースに音楽という一貫性と、メロディーとリズムという違いがあることはなんとなく理解できたが、それが逆とは思えなかった。



「ベースって悪魔みたいな低音でしょ。私の声は天使のような声なんだから、歌も天使みたいになるじゃん。そしたら逆じゃん」



 やっぱり屁理屈だった。


 そして、りりは悪魔だから、ベースみたいなものだった。



「てことで、私がベースボーカルで、トリノがドラムね」


「は?」


「トリノ、小さくてかわいいからドラムの逆っぽいし」


「え、ん?」


「で、ギターはこいつにやらせて、あと一人はほしいな。キーボ」



 トリノは困惑していた。


 りりのお尻が、もぞもぞと動くのを感じている。アリスが動いているのだろう。



「誰がするか……」


「そうよ。ドラムなんてできない」



 アリスにトリノは同調する。


 まるで敵の敵は味方みたいな感じで、おそらく仲良くないであろう二人の意見が一致する。りりはその状況に唇を尖らせた。彼女にとっては、ベースだとかギターだとかドラムだとかの話は彼女なりの正当性があってのことだった。


 それを否定されては困る。


 とりあえず、右手に持っていたタバコをアリスの首筋に当てた。



「あっつ!?」


「アリスは私に口答えとか禁止ね。教えてあげるから極めてね。私に教わったらすぐだから。それで、くそったれの言動は水に流してあげる。クソだけにね。アリスが私をいじめてた理由とかまじで興味ないから、話題にも出さないでね」


「……」



 アリスは何も言えなくなった。


 首筋にできた火傷が外気に触れて痛い。



「トリノは私のためならなんでもしてくれるんでしょ?」


「……確かに言ったけど」


「手伝ってよ。私のためにドラム叩いて」


「でもちょっと今はりりのこと嫌いなの。タバコ吸ってるし、暴力的だし」


「トリノが自分のこと全部教えてくれたら、私も全部教えてあげる。でも、今はやっぱりトリノの全部なんて全く興味ないから、黙って私に付いて来てほしいな?」



 ひくほど王様だ。



「アリスは私に口答え禁止。私はトリノの前でタバコと暴力禁止。それならいい?」


「……わかった」



 トリノにはやっぱり考える必要などなかった。


 りりが王様なら、トリノはお姫様だった。



「……ご褒美にはキスくらいちょうだいね」



 トリノの言葉を冗談だと思って、笑顔で返す。



「じゃあ、あと一人、キーボ弾けそうな、ピアノやってるやつ三人で探そう。女の子で」


「四人がいいの?」


「四人が良い。私の頭の中にあるのは、四人だから」



 バブルガムフェローは男性四人グループだった。

 りりはその形しか知らない。

 だから、その形の逆を行く。



「名前はもう決まっているんだ」



 りりはアリスのお尻をペシンと叩いた。

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